あらゆる道を諳んじるように
マトイの頭が、かくん、かくんと少しずつ垂れていく。
「マトイ……?」
呼びかける声が、思ったよりも怯えたような響きで、出した私が心細くなる。
マトイがゆっくりと向き直って、私の頭に手を置いた。
マトイの口元が震えてる。
私の肩に、腕に、抱きしめるようにマトイの腕が回って、最後にこつんと頭上に額が乗っかった。
「あと3日間、ココといっしょにいたかったな」
「い、いようよ。マトイ、この音なに? どうしたの?」
問いかけに応えないまま、マトイが一歩下がって覆うように左耳に手を当てる。
「はい」
『夜分に失礼。隔離監査局の捜査官です。神奈備 纏さんですね』
「そうです」
『数日前に人工生命体の代理ボディ運用の申請がありましたが、以降、二人分の食料購入が続いているようですね。こういうことされると監視システムが申告詐称疑いで検出するんですよ。そういうわけで、緊急調査に参りました。つきましては、部屋内部を拝見させていただきたいのですが』
「支度をしますので5分、時間をください」
さっきの音、玄関チャイムだったの……?
私の目の前で、顔の見えない相手と通話を始めたマトイが、耳から手を外した。
「というわけだよ。見つかっちゃったな。君の迎えだ、ココ」
「私が、パンじゃないものを食べたがったから……?」
「違うよ。遅かれ早かれ、同じことになってた」
「でも!」
忍び寄る強い後悔を、表現しきれない。迂闊なのはマトイじゃない。私じゃないか。
こんなかたちでマトイを追い詰めるつもりなんてなかった。
言い募る私の両手首を掴んだマトイが、私と目を合わせる。
「ココ、覚えてるな? 3日後の19時45分、どんな状況でも俺は電話をかける。必ず電源を入れて、待っていて。心配いらないから。ココはちゃんと帰れるよ。それまでは丁重に保護するよう、話をつけておく」
「それじゃ、マトイは? どうなっちゃうの?」
目の前で電話をかけてくれるって、言っていたのに。
内心の吐露が聞こえたみたいに、マトイが苦く笑った。
「悪いことをしたら……、償わなきゃいけないだろ」
マトイの自嘲に、カッとなる。脳の片隅がお門違いだと告げていた。
「マトイがした悪いことってなに? 私を攫ったこと? 家に置いたこと? 私、全然いやじゃないよ。そんなのが罪になるの? だって、誰が被害者なの? そんなのおかしいよ」
「ココ、落ち着いて」
こんなときに落ち着ける筈ない。
反論しようと顔を上げて、マトイの瞳が静かな光を湛えているのに気付く。
「マトイ……これ、タイミングよすぎるよね。帰る段取りを整えた日に見つかるなんてこと、ある? マトイ、気付いてたんじゃないの?」
混乱して手を振り解く私を、マトイが寂しそうに、一歩離れた場所から見ている。
「警告はあった。覚悟してたよ。こんなに早く来るとは、俺も思ってなかったんだ。これは本当」
「警告って……。3日は保たないかもって、思ってた?」
答えは、わかるような気がした。
絶対に、マトイは間違ってる。少なくとも今日を、こんなことに費やしちゃ駄目だったんだよ。
「思ってたよ」
「だったら! 私のこと、早く帰してなきゃいけなかったんじゃない!」
「少しでも長く、未来にいて欲しかった」
「え……」
思ったよりもずっと純粋なマトイの願いに、毒気も焦りもあっさりと抜け落ちた。
「そのためなら、捕まっても仕方ないなって。ココ、俺は誰かと暮らしてみて……ココと暮らして、楽しかったんだ。本当に。呼び掛けたら言葉が返るのも、誰かと一緒にご飯を食べるのも、手を伸ばしたら手が届くのも」
「マトイ……」
「夢が叶ったみたいだった。ありがと、ココ。勝手でごめん」
頭を下げるマトイに、胸が苦しくなる。
「そんな、そんなの――――」
勝手すぎるよ。
その言葉が、どうしても口に出せない。
この部屋を出たら、マトイは捕まってしまうのに。
何かいい案は。なんとか、どうにか、出来ることは――――
「そうだ。私がいなくなれば証拠隠滅だよね。捕まらないよね。今すぐ帰ることはできないの?」
「昼間、あれだけ時間が掛かったものを、5分じゃ無理だよ」
「そんな……それじゃあ」
私が隠れる、とか。
この狭い部屋の中で? それはきっと不可能だ。
私が帰るまで、私がいなくなる方法。マトイが傷付けられない本当。それは――――
「私がマトイを誘拐する。3日間、見つからなければいいんだよ」
「は?」
私の断言に、マトイが口を開けた。
「お願い。私のわがままをきいて。私は、マトイが未来で幸せに暮らしてるって思って、安心して帰っていきたいよ。私のために、いっしょに逃げようよ」




