不意に別れに傷つかないように
胸に棘が刺さったってこういうときに言うのかな。思わず心臓の上に手を当てる。
この反応はおかしいのかもしれない。
私は今、喜んでいなきゃいけない筈だよね。具体的に帰る算段が立つのは、私にとっては本望なんだから。
でも、それとは裏腹に、表情が凍るのがわかった。
「帰る日付を……、先に決めておくんだね」
「うん。それがいいと思うんだ」
頬と視線の固まった私を見たマトイが眉間を寄せて、自らの首筋を掻く。
「今すぐ帰すって言ってあげられなくてごめん。まだ、ココが必要でごめん。だけど、もし、何をしても状況が暗転するばかりでも、ちゃんと俺がココを見送れるようにしたいんだ」
マトイが謝ることなんてない。
見ていられなくて、私は首を垂れた。
私こそ、本当はマトイの決断を受け止めてあげないといけないんだ。なのに、不安にさせるような反応でごめんね。
震えそうな喉を、私は気合で引き締める。
「マトイは悲観的だね。案外簡単に受け入れてもらえるかもしれないよ」
「そうかもしれない。そのときは、ココを笑って見送れると思う」
そっか。マトイは、私のこと笑って見送れるんだ。
それは思ったより、ショックが大きいかも。
「出来れば、マトイの願いが叶うのを見届けたかったけど……」
すとんと落とした両腕の先で、爪が太ももを強く抉る。
マトイは優しい。
私が泣いたらマトイが困る。
笑え。笑え。
「でも、マトイの幸せが一番だもんね。私がいつまでも残って、マトイが捕まっちゃうのは絶対嫌だし」
「ココ……」
顔を上げた。口角を上げる。頬を上げる。眉を持ち上げる。
だけどマトイのこと、きっと騙せてない。
だって、マトイの瞳が揺れてる。
「マトイが私をここに呼んだんだもの。マトイの決めた日に、帰るよ」
「ココ、それじゃあ帰りたくないように聞こえる」
マトイの声、かすれてる。
「ううん。帰りたい。……帰りたいよ」
声を絞り出すと、涙まじりになった。
マトイの薄茶色の目に、赤茶の睫毛が影を作る。
傷ついたように目尻が下がって、けれど、私から目を離さない。
「帰りたいよな」
しみじみとしたマトイの言葉に頷きたくなくて、私は口を開いた。
「でも、マトイはちょっと残酷だね」
喉の奥から絞り出された語尾が、正直に空気を震わせる。
こんなに関わった後で手を離したら、私がどんな天秤の前に立つことになるのか、全然わかってない。
帰ることができても、過去が変えられなくても、私の気持ちはなかったことにはできないんだよ。
「最初から、マトイと同じ時代に生まれたかったな」
「俺も、そう思ってるよ」
私の泣き言に即座に同意してくれたマトイの声は、おざなりには聞こえなかった。
そう思ってくれても、今度は私を攫ってくれないんだね。
俯き黙り込んだ私の頭を、あたたかい手が撫でる。立ち上がったマトイの、ぎこちない手。
その感触を受け入れ目を閉じた。
マトイの手はそのまま撫で続けてくれている。腕が怠くなっちゃいそうだね。
でも私は、心の嵐が通り過ぎるまで、ありがたく好意を借り受けることにした。
何十分経ったかな。
ふと自分が、マトイによる甘やかしを必要としなくなっていることに気付く。
長く感じただけで、本当はそんなに長時間じゃないといいな。
私が顔を上げると頭上の手も止まって、そっと下ろされた。
マトイ、困った顔してる。
やっぱり口火は私が切らなきゃ。
「いつにしよっか」
「3日後にしようと思ってる」
「明日、明後日、それから……」
指折り数える。
片手が余裕で余る日数。
いっしょにいられるのは残り、それだけってこと――――。
「ココが来てから、ちょうど一週間が終わるタイミングだ。その時間に、過去と繋がるようにプログラムを組むよ」
「夜の8時ちょっと前?」
「7時45分かな。キーにするのは前回と同じで、ココのスマホ」
あの日、マトイの顔を初めて見たときのことを思い出す。
マトイと少し喋ったら、画面が数の羅列で埋め尽くされて、そして私は未来に来てた。
「また、画面に数字がいっぱい出るの?」
「そうだよ。まだ電池は残ってる?」
「うん」
「じゃあ、時間前になったら電源を付けて。あのときと同じように、俺が電話を掛けるよ。そのときには、ココはしっかりスマホを握って、他の物から距離を取って。持っていきたいものがあったら、手に掴んでおくんだ」
「電話に出て、マトイと喋るの? 目の前にいるのに?」
「そう。それが、俺とココの最後の言葉だよ」
最後は、マトイは私の電話相手に戻るんだ。
スマホを強く握り締める。
私からかけ直すことはできないんだろうけど、このスマホがマトイとの最後の繋がりになる。
「うん。わかった」
強く頷いた。
マトイは早速プログラムを組み始めると言った。しばらく作業に時間がかかるって。
残り3日しかないのに、マトイの視線はいつもの小さな画面じゃなくて壁一面を覆う大画面に固定されたまま、少しも振り向かない。
分割された画面に映るたくさんの情報を見て、動かしていくマトイは、私の知らない人みたい。
これはマトイの得意なこと。
こういうとき、私は必要がない。
邪魔をしないように、せめて私はマトイと食べたい昼食について、精一杯考えることにした。




