絶対家に帰れるように
消毒液のにおい。
最初の違和感はそれだった。
ぼんやり目を開けると、星空の描かれた瑠璃色の天井。
それから、私の記憶には引っかかってこないベッド。
しかもその上に、私はタオルを掛けて寝かされていた。
どこだろう、ここ。
白い壁紙の部屋。でもベッド横の面だけ海みたいなアクアブルー。
窓はなくて、部屋唯一の扉も真っ白。
ベッドヘッドは黒いスチール。整然とハンガーに掛けて吊るされた男物の服。
きっちりと積まれたスニーカーの箱の山。
青が好きで几帳面な性格の、男の人の部屋だ。
「どゆこと? なんで私こんなところにいるの?」
とてつもなく嫌な予感がする。
不可解なスマホの挙動、意味のわからないイケメンの言動。
しかも記憶を辿ってみたら、明らかに物騒なこと言ってたよね。
慌てて手元のスマホを手繰り寄せる。
どんなときでもちゃんと握りしめてて偉いぞ、私。
さて。スマホの時計は10時。
さっきは8時のイベント時間に間に合わせようと返信を頑張ってたから、2時間ちょっと眠ってたってとこだね。
「イベントすっぽかしちゃったなー、そんなこと言ってる場合じゃなさそうだけど。とりあえず、お母さんがなんとかしてくれる――――かはわかんないけど、心配してるだろうしメールしてみよ」
慣れた動作でメールアプリを開くと、違和感に気付いた。
未読マークが一つもない。不吉さに冷や汗が出る。
もちろん着信も同じだ。
そんな筈ある?
私たくさんメールで返信返したよね。
あれから2時間も経ってるんだよ!
――――答えは出てるような気がした。
でも電波状況を直視するのも怖くて、私は消音カメラで室内を撮った。
添付して『ここにいるよ!』と打ち込んで送信ボタンを押して、それから――――
「送れないよぅ、お母さん……」
送信完了にならない救難信号に、既読が付く筈もない。
「やだやだやだ。電波通じてないよ。どうしよ、泣きたい」
目元が熱くなってくる。
でもわかるよ。多分これ、泣いても改善しないやつだよね。
私だって一応、さっきのやり取りは覚えてる。あのイケメン、私を攫うって言ってた。
私、本当に誘拐されたのかもしれない。
どうしようどうしよう。
見回すけど武器になりそうなものはない。
いやでも、そもそも武器があったって私に使いこなせるわけもないよね。だからこれは、逆に使われる危険性がないことに安心するところかも。
いやいや、そもそもだ。
誘拐されたら普通手足が縛られてたりするものじゃないかな? 反撃されたり逃げられたりしたら犯人もイヤだもんね。
それじゃあ誘拐っていうのが誤解な可能性も……。
うーん、うーんとない頭を絞ってみてわかったことがひとつ。
こうしていても何も解決しない。
私は、意を決して白い扉を見た。
扉の向こう側がどうなってるのか、確認してみなきゃ。
ごくりと唾を飲んでそーっとベッドから床に足を下ろす。
そろそろと忍び足で扉に向かっていると、手前の棚に置かれた鏡が目に入る。
黒目がちな大きい目、本数の少なさがコンプレックスのまつ毛、高く結んだ髪に、サイドのハートのピン。
いつもと何も変わらない姿。勿論、制服も……着崩れてもいない。
言いようもなくほっとした。
大丈夫。知らない場所だけど、私が変わったわけじゃない。
……扉の向こうで何があっても、私は落ち着いて頑張れる。
そうだ!
どんな人とでも仲良くする努力をしよう。
出来るだけ笑顔でいよう。
それから、絶対に家に帰れるように、チャンスを逃さないようにしよう。
寝ていたせいでほつれの出た髪だけささっと手直しをして、ドアノブを静かに動かした。
リビングだ。
真っ先に目に入ったのは、巨大な水槽。
壁一面を覆うくらいの水槽に魚が群れで泳いでる。
普通はこういうところには大きな窓がありそうなものだけど……。そう思って視線をスライドさせると人影が目に入った。
鼓動が波打つ。
後ろ姿でもはっきりわかる。
彼だ。あのピンク頭。
扉が開いたことにも気づかず、なんだろ、巨大なテレビやオーディオセット……ううん、表を操作してるように見えるからパソコンを操作してるのかな。大きな画面に表示された年表を少しずつスライドしながら、じっと読み込んでるように見える。
気付いて貰えないなら自分から声を掛けるしかないけど、なんだか間が抜けてるね。
「あのー」
恐る恐る絞り出した声は、私が思ったよりもか細く不安げに響いた。
一応の自衛としていつでも扉を閉められるようにドアノブを握り締めてるのが、尚の事哀れっぽい。
ピンク頭はあっさりと、何の感慨もなさそうに椅子ごと振り向いた。
スマホ越しよりもはっきりと存在感のある美貌が、座ったままで見上げてくる。
人工灯に照らされたなだらかな白い頬と、くっと上げられた顎のラインが芸術品のよう。その造形美に目が釘付けになる。
くっきりとした目鼻立ちや癖なく頭を覆うピンク色の髪の非現実感も相まって人形みたいだ。状況も弁えずに感嘆した。
勿論この間、相手からも見られているわけで。
ぽっかり口を開けた私を上から下まで検分した彼の目が、仕上げとばかりにまっすぐ私の目を射抜いてくる。
その目に何の感情も乗っていないのを認識して、肩が竦んだ。
「起きたの?」
「あっ……はい…………」
彼の反応からは罪の意識も、反撃への警戒も私には読み取れない。
ってゆーかこの人、誘拐犯で合ってるんだよね?
誘拐するって、自分で言ってたもんね。
「なんだ。朝まで寝ててくれればよかったのにな」
面倒がるようなことを言ってるけど、声の調子は表情と同じで淡々としてる。
「好きに過ごしてくれていいから、おとなしくしててくれない? お互い嫌な思いはしなくないよね」
「おとなしくします。でも、あ、あの……あなた誰ですか? ここは…………?」
とりあえずいきなり激昂するタイプではなさそう。
そう判断して、勇気を出して訊いてみる。
状況を知るの、大事。多分すっごく大事!
「ああ、この状況に説明が必要?」
「せちゅめい!」
噛んだ――――!!
要求が通じた喜びに食いつきすぎて噛んだ! やだ恥ずかしい。
羞恥心にもじもじ動き出したつま先を見つめかけて、ううん、と思い切り顔を上げる。
「せ、説明……お願いしたいです!」
弱気なところを見せて簡単に思いどおりになるなんて思わせちゃだめ。毅然、とした対応をしないと!
「せちゅめい」
「せ、説明、です」
「せちゅめい……」
真顔で反復してきた彼の顔が、徐々に笑いを堪えるように結んだ口元をもぞもぞさせる。
見通すようにまっすぐ合わせられていた目が左右に動き、人形のように真っ白だった頬が僅かに上がって色づく。
あ、この人、ちゃんと反応を返してくれる人間なんだ。
よかった。話が通じるかもしれない。
そう安心したのが悪かった。
――――きゅぅるるるるる…………
ばかばかばか! お腹のばか!
ただでさえ崩れた緊迫感が完全に霧散するのがわかる。
彼が「はあ」と呆れたように息を吐いた。




