8.帰る家が出来ました。
「ご苦労様、僕のお弟子さん。花の準備は、終わったみたいだね」
最後の花に魔法陣を描き終わってからしばらく経った頃、グレイフィールが戻ってきた。長いローブを芝生に擦りながら帰ってきた彼は、切り株に腰かけるセリーナの隣に並んだ。
いままでグレイフィールは、どこで何をしていたんだろう。彼の涼しげな横顔には、疲れの色ひとつ滲んでいない。
「先ほど最後の一つに、魔法陣が描き終わりました。今はチェックも済んで、テムトたちが広場に運んでいます」
「その割に、君の表情は晴れないね。魔法陣を描いているときはあんなに楽しそうだったのに。もしかして、疲れてしまった?」
顔を覗きこまれ、セリーナは頬をやや赤らめた。セリーナが手伝いを楽しんでやっていたことを、しっかり見抜かれていたらしい。本当に彼には隠し事をできない。
こほんと咳をしてから、セリーナは答える。
「少し考え事をしていました。テムトたちのお祭りについて」
「どんなこと?」
頬杖をついて、グレイフィールがセリーナを覗き込む。彼はどんなときでも、まっすぐにセリーナを見て、答えを待ってくれる。
「ルークさんに伺いました。今夜浮かべる紙の花は、天国へ旅立ってしまったテムトたちへの手紙なのだそうです」
「なるほど。今年は大満月の夜と重なるからね」
「あの花たちは10年分、いえ。20年、30年分の大切な想いが詰まっているんだとか。……それを考えたら、あの花のひとつひとつにはどんな想いが詰まってるんだろうと気になって」
この三日間、テムトたちは次々に紙の花を持ってきた。この30年で、旅立っていった仲間がそれだけいるということだ。
多くの別れがあるのは寂しいことだ。けれども、月日が経っても色褪せずに伝えたい想いがあるというのは素敵だと思う。
父に見限られ、おそらくは二度と家族と会えないだろうセリーナにとっては、そんな絆がちょっぴり羨ましかった。
そんなことをぼんやりと考えていたら、目の前に大きな手が差し出された。いつの日かと同じ光景に顔を上げると、グレイフィールが静かに自分を見下ろしていた。
「おいで。テムトの祭りが、もうじき始まる」
グレイフィールに手を引かれ、セリーナは祭りの本会場となる、村の奥の大広場に向かった。
先導するグレイフィールは、先程から何も口を開かない。この三日で学んだが、彼は自分から多くを語る性分ではないらしい。
そうやって二人は、祭りのメイン会場へと到着した。足を止めたグレイフィールにつられて顔を上げたセリーナは、はっとして目を瞠った。
広場と名がついているが赴きとしては草原であり、視界のよく開けた丘になっている。その緩やかな丘に、一面埋め尽くすように紙の花が敷き詰められている。
丘の中央には一際大きな紙の花に包まれた櫓のようなものが組まれており、ルークをはじめとする年配のテムトたちが白い装束に身を包んで座っていた。
「じきに日が暮れる」
隣でグレイフィールが囁く。
「そしたら、祭りの始まりだよ」
宣告通り、茜色が完全に西の空に溶けて消え、かわりに濃紺が空を塗りつぶす。星々が煌めく中、テムトの祭りは始まった。
年配のテムトたちがすぅと息を吸い込み、歌を歌い始める。
高い旋律に合わせて、紙の花に光が宿っていく。初めは小さな黄色の、やがて大きなオレンジ色の光になって、光の湖が丘を満たした。
「……っ」
無意識のうちに感嘆の声が漏れる。そんなセリーナに、グレイフィールは口元を緩めた。
「君に、この景色を見せたかったんだ」
木々の合間から色とりどりの布をまとったテムトたちが転がり出てくる。遊ぶように、戯れるように、天女の衣のように布を舞わせてテムトたちは大広場の端をクルクルと回る。
踊るテムトの声もメロディに加わる。それに応えるように、ついに紙の花たちは宇宙に浮かんだ。
「行こう。少し歩きたい」
グレイフィールに導かれ、セリーナはふわふわと光の花が浮かぶ中へと足を踏み入れた。頭の上や目の高さ、膝の高さと、あたり一面に橙色の温かな光が浮かんでいる。それはまるで星々の煌めく夜空の中を歩いているかのようで、泣きたいほどに美しかった。
光に誘われるように小さなテムトたちが森から出てきて、光の花に手を伸ばして遊んでいる。
その合間を歩きながら、グレイフィールは手のひらに載せようとするように一つの花に手を伸ばした。
「天国への手紙、か」
そう言ったグレイフィールの瞳は、なぜかほんの少し寂しそうだった。だからセリーナは、少し迷ってから問いかけた。
「グレイフィール様にも、手紙を送りたい方がいるのですか」
「さあ、どうだろう」
軽く肩を竦めて、グレイフィールは手を下ろす。けれども、金色の瞳はいまだ紙の花に向けられたままだ。
「伝えたい想いはたくさんあったはずだ。けれど、僕の時計はずっと前に止まっている。昨日は過去にならないし、明日は未来を照らさない。幾重にも今を重ねすぎて、今じゃもう、もとはどんな形をしていたかわからなくなってしまった」
テムトの歌が変わる。優しく楽しげな音色から、懐かしく寄り添うような音色へ。誰かへの想いを乗せたその歌は、紙の花たちを空へと舞い上げる。
それを名残惜しく見送ってから、グレイフィールはセリーナを見下ろした。
「だからこそ、今この瞬間しか、僕にはないからこそ。君と過ごせる『今』を、僕は大切に想っているよ」
グレイフィールの瞳の中で、セリーナは目を見開く。そんな彼女に向き合い、グレイフィールはどこまでもまっすぐに告げた。
「ねえ、セリーナ。ちゃんと言えてなかったから、改めて伝えるよ。――僕と一緒に暮らしてほしい。ハズレの森の、あの屋敷で」
すとんと、彼の言葉が胸に落ちる。途端、相反する二つの感情がごちゃ混ぜにぶつかり合い、セリーナは喉が震えた。
「よいのですか」
彼を信じたい。けれど、信じるのが怖い。心臓が痛いほど胸を叩く中、セリーナは勇気を振り絞って精一杯の想いを紡ぐ。
「私を助けたところで、グレイフィール様には何の益もありません。それでも……こんな私でも、傍に置いていただけますか?」
セリーナの頭に、ぽんと手が乗せられる。つられて顔を上げれば、美しい顔に困ったような笑みを浮かべて、グレイフィールは小首を傾げていた。
「ずっと、そう言ってたつもりなのだけど」
その時、夜空に大輪の華が咲いた。
ひゅるひゅると空気を割く音と、ぱぁんと乾いた音。赤や緑や黄色、色鮮やかな光の飛沫たち。それに招かれるように、空へと昇っていくオレンジの灯をともした花たち。
幻想的な景色は、涙の向こうに滲んで見えた。
「まったく君は、手がかかるな。そして僕は、言葉足らずだ」
同じように空を見上げながら、グレイフィールが苦笑する。大きな手が降りてきて、セリーナの左手を温かく包み込んだ。
「帰ろう、僕らの家に」
はらはらと、涙が頬を滑り落ちる。嬉しくても流れる涙があるのだと、その日セリーナは学んだ。
「はい。……帰ります。グレイ様と一緒に」
答える代わりに、左手を包む彼の手がほんの少し強くなった。