4.もう一度、あなたと出逢いました。
聖女マリナがこの世界から追放され、水晶塔に呑みこまれた魔術師たちがカルヴァスに救出されたあと。
まず、マリナとステファンがたてた野望は、すべて白日のもとにさらされた。偽の神託は公文書から消し去られ、マリナが受けたと思われる本物の神託についても、いつしか無かったものとして人々の記憶から消された。
ステファン王子は今度こそ完全に失脚した。幸いというべきか不幸というべきか、マリナに負わされた傷は浅く、魔術によって早々に治された。回復後すぐに彼は王族から除籍され、スディール国から追放された。彼がこの地を踏めることは、もう二度とないという。
尚、案の定と言うべきか、これまで責任を逃れようとのらくらしていたスディール王も、やはり無事では済まなかった。
王子が、女神の神託を偽るという大罪を犯したことに、さすがの民衆も堪忍袋の緒が切れた。これ以上の混乱、暴動を避けるため、王は退位をせざるを得なくなる。
後を継いだのは、年の離れた王弟だった。王弟は魔力適性が高く、しばらく王都を離れて魔術の修行を行っていたらしい。前の王より、よっぽどまともな王になりそうな肝の据わった男だと。あとで、エルミナがこっそり教えてくれた。
そんな世の喧騒とは遠く離れて。
ハズレの森には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れている。
「グレイフィール!!!!!!」
魔法使いの屋敷に、リオの怒声が響く。声が響いたとある一室、魔術薬の調合に使っている道具が雑然と並べられた部屋の一角で、几帳面な弟子は目を吊り上げていた。
「あなたはまた……! 時間をかけて! ゆっくりと! 弱火で! こげつかないように! かき混ぜながら温めてくださいと言いましたよね!?!?」
「……火が通れば、みんな同じ。ちょっと焦げたけど、これくらいならセーフだと思う」
「詠唱しながら混ぜることに意味があるんですよ、この阿呆んだら!! まったく!! 薬草をどれだけ無駄にすれば満足するんですか、あなたは!!!!」
きーんと怒声が金属鍋などに反響し、グレイフィール、ネッド、ついでに隣にいたセリーナまで耳を塞ぐ羽目になる。
焦げた――こと自体は確かにセーフなのだが、キャラメル色になるはずが気味の悪い緑色の液体になってしまったソレを、リオが睨む。分厚い手袋をしてガッと鍋を持ち上げた彼女は、ぷりぷり怒りながらソレを捨てるべく扉を出て行った。
「本当に、本当にーー! いいですか!? 私が戻るまで、薬草一本、おたま一つに触ることを禁じます。絶対の、絶対ですからね!!!!」
「……っ、あー。俺、リオのこと手伝ってくるっすね? だから、主? 振りとかじゃなくて、なんもしないで待っててね。じゃないとあいつ、本気の本気でぶち切れちゃいそう」
しつこく念押しをしてから、ネッドが慌ててリオの後を追いかける。
後に残されたグレイフィールとセリーナは、なんとなく顔を見合わせた。
「……リオに怒られちゃった」
「許してくれますよ、たぶん」
ちょっぴり自信がなく、セリーナは慰める。前にグレイフィールが材料の配分をいい加減にしたせいで、よくわからない動き回るスライムを錬成してしまったときは、2日ほど怒ってぷりぷりしていた。今回は、あの時ほど怒っていないといいが。
微妙な顔をするセリーナに、グレイフィールは肩を竦める。そして、大して気にしていないように伸びをしてから、立ち上がってセリーナに手を差し出した。
「待っている間、少し休憩にしよう。せっかくの天気だし、外を歩こうよ」
――グレイフィールの言う通り、朝から雲一つない、晴れやかな青空が広がっている。
背高の彼の後をついて、セリーナもゆっくりと芝生を踏みしめる。襲撃の傷跡は一つも残っていない。爆破された談話室さえ、すっかりもと通りだ。
前を歩くグレイフィールの背中を、セリーナはそっと見上げた。
こんないい天気の日、以前の彼なら、必ず森に出ていた。当時は何をしているのかわからなかったが、今ならわかる。彼は森のあちこちを巡って、カノアと時の泉の行方を追っていたのだ。
今日は、森にはいかないのだろうか。そんなセリーナの疑問が伝わったわけでもあるまいに、グレイフィールはふと立ち止まると、切り株を指さして微笑んだ。
「いい椅子を見つけたよ。これなら、二人並んでも大丈夫そうだ」
柔らかな風が、二人の間を駆け抜ける。古い、けれども美しい屋敷をなんとなしに眺めながら、二人は並んで腰かけていた。
ふと、グレイフィールが前を向いたまま、ぽつりと問いかけた。
「あっちの僕は、どんな様子だった?」
言われてすぐ、それが時の泉にいた魂の片割れを差しているのだと、セリーナは気づく。ほんの少し驚いてから、セリーナも屋敷に視線を戻して答えた。
「グレイ様と同じで、お優しい方でした。けれど、どこか寂しそうに見えました」
「――だろうね。あっちの僕は、本当に独りぼっちなのだから」
苦笑をしてグレイフィールが瞼を落とす。ややあってから、彼はちらりとこちらを見た。
「僕を救うと言ってくれたね。あれは、どういう意味かな」
「っ、」
小さく息を呑み、セリーナもグレイフィールを見る。一瞬、その目指すべきゴールに、セリーナは怯んでしまいそうになる。けれども、穏やかな金色の瞳で優しくセリーナを見つめ、励ますようにグレイフィールが頷いてくれる。
それでセリーナは、どうにか心を落ち着かせることが出来た。
「時の泉に、グレイ様をお連れします」
――そうだ。
セリーナは、シンシアの生まれ変わりだ。どれだけ人格が違おうと、うちに宿る魂は同じ。だからあの時、セリーナはカノアの結界を破り、時の泉に招かれたのだろう。
あの時は特殊な状況下にあったので一概には言えないが、高い確率で、再びセリーナは時の泉に招かれる。その時こそ、グレイフィールの奪われた魂の片割れを取り戻すチャンスだ。
けれども、セリーナを悩ませる問題が、ひとつだけある。もちろん、魂を取り戻したとき、グレイフィールがどうなってしまうかだ。
エルミナも言っていた。伝承の中に、魂の片割れを取り戻した者がどうなるかの記述はない。しかもグレイフィールの場合、魂を奪われてから数百年の時が立っている。
あの日セリーナは、グレイフィールに何が起きたのか、彼が不死の身体になってしまったときにどんな想いを抱いたのかを知ってしまった。だからこそセリーナは、彼を救いたい。
けれども彼を想うからこそ――自分がグレイフィールにどんな感情を抱いているのか知ってしまったからこそ、最後の最後で、セリーナを臆病にさせる。
最悪の場合、魂を取り戻した途端、グレイフィールが消滅してしまうかもしれない――。その恐怖が、常にセリーナに付き纏うのだ。
緊張した面持ちで、セリーナはグレイフィールを見上げる。けれども彼女の意志に反して、美しい紫の瞳は迷いに揺れてしまう。
――そんな彼女に。グレイフィールはふっと表情を緩めた。
「……僕はね、セリーナ。魂を取り戻したあとは、すぐに消えることはないと思っている」
「っ、そうなのですか!」
「推測だけどね」
思わず勢い込むセリーナを、グレイフィールが優しく宥める。そうして彼は、金色の瞳を屋敷の上、青い空へと向けた。
「前にも言ったと思うけど、僕の時計は止まっている。前に進むことも、後に戻ることも出来ない。あるのは、今というこの瞬間だけ。完全に、時の流れが消失しているんだ」
わかるような、わからないような。難しい言葉を、彼は放つ。おそらくこれは、実際に体験した本人でないとわからない感覚なのだろう。
戸惑うセリーナに、グレイフィールは肩を竦める。
「つまり、この身体になって数百年の日々には、時間という概念が存在しない。魂を取り戻したって、結果は同じ。無から何かを生み出すのは、不可能だから」
「……つまり、ということは?」
「魂を取り戻したら、元の身体に戻るだけ。普通に老いて、普通に死ぬようになる。当たり前の人間の、当たり前の人生と同じに。僕はそう考えているよ」
柔らかく微笑んで、グレイフィールがセリーナを見つめる。やや考えてから、セリーナは小首を傾げた。
「そうすべて、丸く収まるでしょうか」
「収まるよ、きっと。なにせ既に、僕ですら信じられないような奇跡が起きている」
言いながら、グレイフィールの手がそっとセリーナに重ねられる。大きくて暖かい手は、優しくセリーナの手を包み込んだ。
セリーナを、――ほかの誰でもない、セリーナ・ユークレヒトだけをまっすぐに見つめて、グレイフィールはほんの少し緊張したように吐息を漏らした。
「セリーナ。僕は君に、伝えたい言葉がある」
「グレイ様。私も、あなたにいつか、聞いて欲しい言葉があります」
同じようにまっすぐにグレイフィールを見つめ返して、セリーナもそのように告げる。
――悲しい別れで道を分かたれた二つの魂が、数奇な運命で再び巡り合った。かつてと何もかも同じに、奇跡の再会とはならなかった。けれども、ほんの少し歪な道のりを経てではあったけれども、こうして二人は今、本当の意味で向き合えている。
「けれど、それは今日じゃない」
二人の声が、重なった。
誰かの生まれ変わりではなく、ひとりの人間として、あなたを愛し、愛され、向き合うことが出来るようになったなら。
呪いに縛られた憐れな男としてではなく、より深く君を知り、知られ、すべてを共に分かち合うことが出来たなら。
その時は、改めてこの想いを伝えたい。だから手始めに、はじめましてから始めよう。
――なぜなら今日は、出逢い直した君と踏み出す、記念すべき最初の一日なのだから。
「私はセリーナ・ユークレヒトです。見習い魔術師で、あなたの弟子です」
「僕はグレイフィール。ハズレの森の魔法使いで、君の師匠だ」
二人の手が、固く繋がれる。
二人は見つめあって、どちらからともなく微笑んだ。
「私(僕)はあなた(君)と、一緒に生きたいと願う者です」




