4.怯える心と、信じたい気持ち
「ひどいっすよ! 俺を置いてっちゃうなんて!」
グレイフィールの屋敷の食堂。
二人きりで座るにはいささか広すぎるそこに、色鮮やかな料理が並ぶ。
セリーナの向かい、長いテーブルの奥に座るグレイフィールのグラスに水を注いでやりながら、もう一人の従者は不満そうに唇を尖らせた。
「おい、主? ちゃんと反省してます?? 俺、いたいけな人形なんすよ? こわーい魔獣に出くわしちゃったりして、バラバラのぺちゃんこになっちゃったら可哀そうだって思わない!?」
触れてしまいそうなほど近く詰め寄られているのに、グレイフィールは平然としている。それどころか、心なしか意外そうに瞬きをした。
「ネッド、歩いて帰ってきたの? 君も跳んでくればよかったのに」
その場に満ちる、しばしの沈黙。ややあって、ネッドと呼ばれた従者は「……あー」と呻いた。
「そっすよね。森をひとりでトボトボ走るくらいなら、転移魔法でひとっとびした方が楽でいっすよねー……って出来ねえわ!!」
頭を抱え、突如彼は叫ぶ。わしゃわしゃと髪を掻き乱しながら、ネッドはくねくねと体を揺らした。
「あーやだやだ! でましたよー、主の天然ボケ。ていうか転移魔法できたよね???って、嫌味通り越してギャグだわー。ナチュラルに高位魔術求めすぎだわー。あー天才すぎてわかんないっすよねー」
「ネッド、うるさい」
セリーナのグラスに水を注ぎながら、リオがじろりと睨んだ。
さて。ネッドとリオ。この二人が、ハズレの森で暮らすグレイフィールの従者らしい。
彼は、グレイフィールに伴ってハズレの森に出ていたらしい。用事を終えたところでグレイフィールに置き去りにされてしまい、仕方なくひとりで帰ってきたという。
「と、いうわけで! はじめまして、セリーナちゃんっ。俺もリオと一緒でグレイ様の人形だから、ビシバシ使ってくれて構わないからね?」
ひらりと手を振られ、セリーナは困惑する。人形。彼はいま、そう言っただろうか。なんと答えるべきかわからず視線を彷徨わせていると、ネッドがげっと顔を歪めた。
「うそ。リオってば、俺たちのことなんも説明してない感じ??」
「……あと少ししたら話そうって、そう思ってた」
「うーわー。出た出た、言い訳でたわー。どーせ、うまく切り出せなくて後回しにしちゃってるうちに、グレイ様が帰ってきちゃったくせに。ほんっと、リオは俺がいないとダメだわー」
「ネッドうるさい!」
ぎゃんとリオが怒り、すぐ近くにいたセリーナはぴくんと肩を揺らした。すると、リオは一転してオロオロとセリーナを覗き込んだ。
「も、申し訳ありません、セリーナ様……。驚かせてしまって、その……」
「い、いえ。大丈夫ですから」
それよりも『人形』について知りたい。助けを求めてグレイフィールを見れば、彼は目で頷いて口を開いた。
「ネッドが言うように、二人は人形――持ち主の魔力で動く、自動人形だ。ふたりの体には複雑な魔術が何重にも掛けられていて、常に僕の魔力を受信している」
「そ。俺とリオは、作られた工房も時期も一緒。けれど見ての通り、外見も中身もぜんっぜん似てないんだ。造り物なのに面白いよね。ってわけで、改めてよろしく!」
人懐こい笑みをともに、ネッドが腰に手を当てる。その仕草や表情からは、とても彼が造り物とは思えない。リオにしたってそうだ。こうして彼らの口から聞くまで、彼女が人間であるかどうか疑いもしなかった。
驚いたセリーナが二人を見つめていると、グラスに手を伸ばしながらグレイフィールが微笑んだ。
「二人ともなんでもできるし、僕の魔力を借りてある程度の魔術も使える。何かあれば、遠慮なく彼らを頼ってほしい。今日から君も、ここに住むのだから」
セリーナは小さく息を呑んだ。何かを言いかけて、言葉は喉で詰まった。
〝セリーナ・ユークレヒトは僕が貰う〟
あの夜、皆の前でグレイフィールはそう言った。そして、その手を取ったのは自分。何もかもを捨て去る覚悟で、自分で選んでここにきた。
けれども、今更のように疑問が頭の中を渦巻いてしまう。
食事を始めるグレイフィールを、そろりとセリーナは盗み見る。
ハズレの森の魔法使い。紅き渓谷の魔女。水晶塔の白き賢人。――三大魔法使いと呼ばれる三人の中で、グレイフィールが最も謎に包まれている。何せ、ほとんど人前に姿を見せず、現世とのかかわりを断ってきたのだ。
そんな彼が、なぜ自分に手を差し伸べてくれたのか。
グレイフィールとセリーナとは、あの夜が初対面だ。それまで面識もなければ、もちろん何の繋がりもない。個人的に彼に助け出してもらえるような理由が、セリーナにはさっぱり思い浮かばないのだ。
では、スディール国への要求といった、何か別の目的のためにセリーナを連れ出したのか。その可能性も考えたが、あまりピンとこない。王子の婚約者であった時ならいざ知らず、いまのセリーナに政治的価値はない。カードとして手元に置いたところで、交渉材料になるとは思えなかった。
――常人には理解のできない、賢人の気まぐれ。そういうことなのだろうか。
(面白がって置いていただける間はいい。けど、それもいつまでもつかしら……)
胃の腑が重くなるような心地がして、セリーナはせっかく手を伸ばしたスプーンを机に戻した。
王子に従順なだけの、つまらない女。華やいだ社交界の裏で、女たちにそのように囁かれていたことをセリーナは知っている。
王子の婚約者として完璧であるように――ほんの少しでも、綻びが生まれないように。怯えはセリーナから笑顔を奪い、加えて元来の気弱な性格も合わさった。
男を喜ばせるだけの愛嬌もなければ、ほかの女を押しのけるほどのしたたかさもない。弱くて脆い、つまらない女。ほかならぬそれは、セリーナ自身が自分に対して思う評価だ。
王子に捨てられ、親にも見放された。この上グレイフィールにも飽きられたら、今度こそセリーナの居場所はこの世のどこにも――。
「セリーナ」
名を呼ばれて、セリーナは我に返った。瞬きをして前を見れば、グレイフィールと視線が交わる。金色の瞳をじっとこちらに向け、彼は手元を指し示した。
「言ったはずだよ。生きてくのにはエネルギーがいる」
セリーナは自身の手元に視線を移した。……豆のスープ、だろうか。公爵家の食卓に上がったものの方が豪勢だったが、よく煮込んであって旨そうだ。
何かを食べる気分ではないが、口をつけるまで彼は許してくれなさそうだ。スプーンを手に取り、口に運ぶ。柔らかな豆の食感と、素朴な旨味が舌に広がる。
美味しい。そう思った途端、思い出したようにお腹が鳴った。
「っ! も、申し訳ありません……」
「どうして謝るの。体が求めている証拠だよ」
赤面するセリーナに、グレイフィールは微かに笑みを返す。そのまま、何事もなかったように自身もスープを口に運んだ。
静かで、柔らかな空気。何かを求めたり強要することもなく、ただありのままでそこにいてくれる。その心地よさに、セリーナは無性に泣きたくなった。
気まぐれかどうかはさておき、彼はいい人なのだろう。リオとネッドも同じくだ。寄り添うようにさりげなくセリーナを気遣い、手を差し伸べてくれる。
――けれども、優しくされると勘違いしてしまいそうになる。このまま、ずっとここにいてもいいのだと。たった一つの役目すら果たせず、親からも見放された無価値で無能な自分を、この人たちなら受け入れてくれると。
だが、そんなわけはない。セリーナの人生で、そんな都合の良いことがこれまで許されたためしがない。
〝この役立たずが……っ!〟
吐き捨てられた父の言葉が、未だに耳にこびりつく。
信じたくない。信じて、裏切られたくない。
お願い。これ以上優しくしないで――。
「オイシクナイ?」
ぴょこんと。机の下から飛び出した2本の耳に、セリーナは虚を衝かれた。一瞬遅れて、彼女は声にならない悲鳴とともにガタンと椅子を揺らした。
「!?」
「こら、レイク。そんなところから急に顔を出すから、セリーナ様を驚かせてしまったでしょう」
動揺するセリーナをよそに、リオがふわふわとした何かを持ち上げる。ぬいぐるみのように掲げられたソレを見た時、セリーナは目を丸くした。
「うさぎ?」
「テムトっていって、森に住む妖精だよ」
リオからひょいと受け取って、ネッドがセリーナに見せる。コック帽とエプロンをつけているが、どう見てもうさぎだ。ひくひくと動く小さな鼻も、つぶらでまん丸の目もどうしようもなく可愛らしい。
「こいつはレイク。調理長だよ。厨房や洗濯場、庭の手入れまで、色んなテムトが屋敷で働いてくれてるんだ」
「オイシクナイ? オキャクサン、ボクノリョウリ、スキジャナイ?」
「大丈夫だよ。彼女はちゃんと、君たちの料理を喜んでくれてる。一口食べた時、彼女の目が輝いたもの」
不安そうに鼻をひくつかせるレイクを、グレイフィールが優しく宥める。先ほどセリーナがスープを飲んだ時に顔を綻ばせたのを、彼はきちんと見抜いていたようだ。するとレイクは、長い耳をぴょんと伸ばして喜んだ。
「ヨカッタ! オキャクサンウレシイト、ボクモウレシイ」
「! あ、ありがとうございます……」
くりりとした目できらきらと見上げられ、直前まで塞いでいたセリーナも思わず胸がきゅんとしてしまう。そんな彼女に微笑んでから、グレイフィールはナプキンに手を伸ばす。軽く口元を拭って、彼は改めてセリーナに告げた。
「テムトといえば。ねえ、セリーナ。君に手伝って欲しいことがあるのだけど」