2.独白(2)
グレイフィールはいてもたってもいられなかった。姿かたちは変わっても、少女に宿るのはシンシアの魂。適正判定が終わって聖堂を出ていこうとする彼女を、黒猫の姿のまま夢中で追いかけた。
少女に前世の記憶はあるのか。彼女の中に、まだシンシアはいるのか。それを確かめずに、森に帰ることは出来なかった。
少女の家は王都にあり、後をつけるのは容易だった。侍女たちが離れたタイミングで少女に近づく。幸い、幼い少女はグレイフィールを迷い猫だと思ったらしく、こっそりと部屋に招き入れてくれた。
少女はセリーナというのだと。そこで、グレイフィールは学んだ。
どうやらセリーナはユークレヒト家という、スディール国でそこそこ地位のある家の娘であるらしい。彼女の父親は将来セリーナを王太子妃にするのが望みらしく、セリーナは朝から晩までみっちりと淑女としてのレッスンを受けなくてはならない。前世の、鉱山の大家族に生まれたシンシアとはえらい違いだ。
そういったこともあって、セリーナの性格はシンシアとまるで違った。
控えめで、お淑やか。自己主張が少なく、大人たち、とりわけ父親の言いつけをきちんと守る。自由で奔放、太陽のように眩しいシンシアの面影は、まるでなかった。
グレイフィールは焦れた。そうは言っても生まれ変わりだ。何か、手掛かりはないか。どこかに、シンシアとして残っている部分があるのではないか。
迷い猫としてシンシアの部屋に匿われた3日後、ついに我慢のきかなくなったグレイフィールは決行した。
深夜、ユークレヒト家に灯る火がすべて消え、家中の者が寝静まった頃。グレイフィールは変身を解き、セリーナが眠るベッドの脇に立った。
窓から差し込む月明かりが、少女の愛らしい顔を優しく照らす。すやすやと寝息を立てる寝顔は、どこにでもいる幼い子供と同じ。名家の生まれだろうと、片田舎の娘だろうと、そこに違いはない。その事実が、ほんの少しだけグレイフィールを勇気づける。
息を吸って、吐く。
逸る気を静めてから、グレイフィールは手を伸ばし、そっとセリーナの額に触れた。
どこか豪奢な部屋で、着飾った小さな王子と謁見したときの光景。厳格な父の眼差し。家庭教師にムチ打たれる日々。褒められたくて、ひとり泣いた夜。
これまでのセリーナの記憶が、洪水のように流れ込む。眉間に皺をよせ、グレイフィールは注意深くその中に潜り込む。
どこかに何かあるはずだ。何か、シンシアを示す欠片が。
――どれだけそうしていたかわからない。やがてグレイフィールは手を下ろし、力なく天井を仰ぐ。その頬に、透明な涙が滑り落ちた。
理解してしまった。セリーナの中に、シンシアはいない。同じ魂を宿してはいるが、育った人格はまったくの別。
シンシアという女性は、完全に消失してしまっていた。
グレイフィールはよろめき、両手で顔を覆った。たまらずベッドの端に座り込むと同時に、くぐもった嗚咽が喉から漏れた。
どうして。
再び〝彼女〟と巡り合えたのに。ようやく、一人生きながらえてきた意味を見つけられたと思ったのに。どうして、またこうなる。どうしてまた、シンシアがもうこの世にはいないのだと、思い知らなくてはならない。
一日たりとも、彼女のことを忘れた日などないというのに。
「もう嫌だ。耐えられない」
何度も。何度も何度も何度も、胸に焼き付いて離れない願いが、口から零れ落ちる。
いっそ、この痛みが心臓を焼き尽くして破壊してしまえばいいのに。本気でそう願いながら、グレイフィールは呻いた。
「……生きて、いたくない……」
「………………あなたは、だれ?」
不意に響いた声に、グレイフィールは呼吸を止めた。覆っていた手を外してそちらを向けば、いつの間にかセリーナが起きて目をこすっている。
眠そうな、けれどもはっきりと意識のあるアメジストの瞳が、グレイフィールを映していた。
グレイフィールは動揺した。いずれどうするかは別として、セリーナの前にこの姿を晒すつもりはなかった。
おまけにたった今、セリーナの中に前世の記憶と呼べるものが残っていないのを確かめたばかり。つまり、彼女にとってグレイフィールは完全に見知らぬ他人だ。そんなものが深夜に自室に侵入しているのを見て、彼女は悲鳴を上げるに違いない。
けれども予想に反して、幼いセリーナは落ち着いていた。それどころか、ベッドの端に腰かけたまま動けずにいるグレイフィールを心配そうに見上げた。
「ないて、いるんですか?」
月明かりだけが照らす部屋の中、まっすぐに少女に問われ、グレイフィールは息を呑んだ。戸惑い、瞳を揺らすしかないグレイフィールに、セリーナはためらいがちに手を伸ばす。
小さな手が、そっとグレイフィールの指に重ねられた。
「大丈夫、大丈夫」
微かに指先を摑みながら、少女は、セリーナは繰り返す。遠い昔――自室に閉じこもっていたグレイフィールを引き摺り出し、食堂へと連れて行ってくれたときのシンシアと同じに、その手は優しく温かい。
窓から差し込む月明かりの下で、セリーナはぎこちなく微笑んだ。
「もう、ひとりで泣かないで」
はらりと、グレイフィールの双眼から新たな滴がこぼれ、白いシーツにシミを作った。
体中を渦巻く感情に全身が震え、意味をなさない声がたまらず零れた。
――たとえ、すべてが忘れ去られ、シンシアがいなくなってしまったのだとしても。彼女の魂は、命は、消えることがない。その優しさも、温かさも、新たに芽生えたセリーナという人格の中にきちんと生き続けている。
君は、そこにいるんだね。そう、胸の中で呼びかけた。
「――――――」
唇の中で、術式を唱える。途端、セリーナの表情がとろんと眠たげなものとなり、ぱたりとベッドの上に倒れる。その体にシーツを掛けてやってから、グレイフィールは静かに立ち上がった。
目を覚ましたとき、セリーナはこの夜の出来事を何も覚えていないだろう。そういう風に、術式を構築した。それが正しいのだと、グレイフィールは眠る少女の頬を撫でた。
きっと、自分と彼女は関わらない方がいい。自分が傍にいたら、きっとまた、彼女の中にシンシアの面影を追い求めてしまう。彼女はセリーナとして生まれ、新たな人生を生きている。そこに過去を押し付けるような存在は邪魔だ。
それでも。たとえ横にいて、共に生きることができないとしても。
シンシアを喪ったこの世界で、あと少しだけ生きてみようかと。初めて、そんな風に思えたのだ。
――ありがとう。
最後にもう一度だけ頬を撫でてから、グレイフィールは影に溶けて消える。
そうやって、巡り合った二つの魂は、一度は遠く離れることを選んだ。
次に彼がセリーナの前に姿を現したのは、スディール国の王城に彼女を迎えに行ったその日だった。




