2.もう一人のグレイフィール(2)
ふらりと足がもつれて、セリーナはよろめく。
倒れてしまいそうになるのを、ぽすんとグレイフィールの腕が抱きとめる。
揺れる金色の瞳で覗き込みながら、グレイフィールは震える手でセリーナの頬に触れる。そうやって、彼はもう一度繰り返した。
「お願い、答えて。シンシア、君なのか?」
――思い出した。いや。正確には、理解した。
自分は、セリーナは、シンシアという名の女性魔術師の生まれ変わりだ。
大家族の真ん中に生まれた前世の自分には、魔力適性があった。とはいえ生まれ故郷の炭鉱には師になりえる魔術師がいない。どうしたものかと両親が迷っていたときに、たまたまエルミナが村に立ち寄った。だから、自分から手を挙げてエルミナの弟子になったのだ。
大好きな家族や兄弟姉妹と別れて、魔術師の道を進むと決めたのだ。応援し送り出してくれた家族のためにも、半端な結果は残したくない。強い決意に燃えた自分は、同じタイミングで弟子入りし、自分よりずっと出来のいいグレイフィールと何かと張り合おうとした。
幼い対抗心は次第に愛着へと変わり、じきに淡い恋心に変わった。けれども姉弟子・弟弟子という、心地よく穏やかな関係を崩す勇気は持てなかった。そうこうするうちに互いに成長し、一人前の魔術師となった。
だが、初恋を思い出に紅の谷を出ようとしたとき、グレイフィールから踏み込んできてくれた。そうやって彼と、恋人同士になったのだった。
「シンシア……」
美しい顔を泣きそうにゆがめて、グレイフィールはセリーナを――その奥に眠る恋人の面影を呼ぶ。
自分が彼にどれほど残酷なことをしてしまったのか。その事実を、痛いほど思い知る。
時の泉に触れてはならない。干渉してはならない。その禁忌をグレイフィールは破った。
結果、彼はカノアによって裁かれ、魂の半分を奪われた。その片割れが、目の前にいる彼だ。数百年もの間、彼の魂はこの地に囚われ、彷徨ってきた。自分のせいで恋人を死なせてしまった。その苦しみを背負いながら。
「やっと、君に会えたのか?」
そうだと言えたら。大きく頷き、彼の長い腕の中に飛び込んでいけたなら。どれだけ彼を救えるだろう。どれほど、彼の長い長い孤独を拭えるだろう。
けれども。
「ごめん、なさい」
ぱたぱた、と。涙が両目からあふれ、スカートに落ちる。息を呑むグレイフィールの手に己の手を重ねて、セリーナは何度も繰り返した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
自分は何者なのか。真相を知ってしまったからこそ、答えがくっきりと浮かび上がる。本当だ。最終的に、自分は自分でしかいられない。前世の記憶が蘇ろうが、彼の悲しい過去を背負おうが、結局自分はセリーナ・ユークレヒトでしかいられない。
グレイフィールがどんな思いで時の泉に囚われたのかを知った上で、偽ることなどどうして出来よう。
「私はセリーナです。シンシアさんには、なれません」
だけど、と。セリーナは重ねた手に力を込める。
なぜグレイフィールが自分に手を差し伸べてくれたのか。今ならその理由が、手に取るようにわかる。
だとしても。たとえグレイフィールが見ていたのが、セリーナではなくとも。彼がセリーナの奥にシンシアの面影を求めていて、自分がその期待に応えられないとしても。
「私は……セリーナ・ユークレヒトは、あなたに救われました。ですから、今度は私が、あなたを救いたい」
自分はセリーナ・ユークレヒトとして彼に出会い、その優しさに触れてしまった。夜を照らす月のように温かくて、そのくせ月夜に落ちる影のように寂しげで。そんな、彼の脆く繊細な内面を垣間見て、力になりたいと望んでしまった。
目的も使命も失い、空っぽだった自分に新しい世界をくれたひと。自由に広がる世界で、ようやく見つけられた自分の願い。
そうだ。グレイフィールを救いたい。それは、助けてくれた彼への恩返しだけではない。
セリーナが、セリーナ自身が、彼とこの先ハズレの森で共に生きていきたいと、そう願ってしまったのだ。
「グレイ様! 私は、あなたに生きて欲しい。生きて、幸せになって欲しい。私はセリーナとして、あなたと共に生きたいんです」
風が吹き抜け、灰色がかった髪が流れる。日の光に照らされ、その髪はまるで銀色に輝いた。
シンシアとは異なるアメジスト色の、けれどもどこか彼女を彷彿とさせるまっすぐな眼差しが、陽光のした煌めく。
グレイフィールが、ゆっくりと瞬きをする。やがて彼は、泣き笑いのように微笑んで静かに手を下ろした。
「君は……セリーナっていうんだね」
「……はい」
「僕、いや。僕じゃない方の僕と、君は出会ったんだね」
「はい」
眩しそうにグレイフィールが目を細める。艶やかな黒髪を風に揺らし、彼は微かに首を傾けた。
「君は、僕を好き?」
斜陽が優しく、彼の白い面差しを照らしている。何もかも包みこむオレンジ色の光が、泣きたいほどに美しかった。
「――はい」
突き動かされるように、セリーナは頷く。新たな涙が浮かび、頬を零れ落ちる。この涙は、悲しみの涙じゃない。思いのありったけをこめ、セリーナは泣きながら微笑んだ。
「あなたが好きです、グレイ様」
長い睫毛を震わせ、グレイフィールが目を閉じる。彼が俯いた時、水晶のように美しい雫が一滴地面に零れ落ちたのは、おそらく見間違いではないだろう。
ありがとう。
穏やかに吹く風に乗せて、彼の言葉が聞こえた気がした。
どれぐらいの時間が経ったのかわからない。
セリーナとグレイフィールは、並んで芝生に腰掛けた。そよそよと風が頬を撫でるが、水面にはさざなみひとつ立たない。太陽も傾いたまま、茜色に空を染め続ける。不思議な流れが、ここにはある。
その中で、彼はセリーナに話を強請った。外の世界――彼はそう表現した――で、グレイフィールとはどんな風に出会ったのか。ハズレの森の生活はどうか。セリーナは楽しめているか。
リオやネッドの話をすると興味を惹かれ、エルミナの話をすると肩を竦める。セリーナが彼の弟子になったと伝えると喜び、得意な魔術が薬草魔術だと言うとやっぱりと微笑む。
反対に、彼の話も聞いた。シンシアを喪った後、気づいたらここにいたのだと。グレイフィールは遠い目で時の泉を眺めながら、そう話した。
ここでは太陽は沈まないし、昇らない。湖面はいつも穏やかで、荒れているのを見たことがない。カノアは時々どこかにいくが、大抵は湖面の上で眠っている。
一人でそれを眺めてきたのだと、グレイフィールはなんでもないことのように告げた。
「まさか外の世界で、そんなに時間が経っているとは思わなかった」
苦笑したグレイフィールは、ふと口をつぐんで空を見上げた。
不思議に思って空を見上げ、セリーナはあっと声を漏らした。そんな彼女に、グレイフィールが問いかける。
「君には、何か見える?」
「星、です」
彼には見えていないのだろうか。少し迷って、セリーナは答えた。太陽と少し離れた空に、一番星が輝いている。さっきまではなかったのに、いつのまに姿を見せたのだろう。
答えを聞くと、グレイフィールは「なるほど」と呟いて立ち上がる。セリーナに手を差し出し、彼は金色の目を細めた。
「君に迎えが来たらしい。そろそろ帰る時間のようだよ」
「迎え、ですか?」
「ほらね」
グレイフィールが横に目を向ける。つられてそちらを見ると、すすきが割れて一本道が出来上がっていた。
驚くセリーナを、グレイフィールが助け起こしてくれる。それから彼は、一本道を手で指し示した。
「ここをまっすぐお行き。それで、外の世界に戻れるはずだ」
「ですが……」
「大丈夫だよ。囚われているのは僕だけで、君は自由だ。入ることが出来たなら、出ることも出来る。そうでしょ?」
戸惑うセリーナに、グレイフィールが柔らかく微笑む。勇気づけるようにセリーナの肩に手を置き、それからそっと前に押し出した。
「目を閉じて、耳を澄ませて。――聞こえるでしょ? 君を呼ぶ声が」
道に一歩足を踏み出し、言われたようにセリーナは目を閉じる。
……声は聞こえない。そのかわり、何か温かなものが胸の奥を吹き抜ける。その包みこむような優しさに、懐かしい温もりに、セリーナは息を呑んで二歩、三歩と足を踏み出した。
「あっちの僕をよろしくね」
背中で、彼が遠ざかる気配があった。
慌ててセリーナは振り返る。すると、いつのまにか時の泉は一本道の向こうに遠ざかっており、泉の上をグレイフィールが歩いて離れていくのが見えた。
「グレイ様!」
泉はぐんぐんと遠ざかり、追いつくことはできない。徐々に霞んでいく視界に、セリーナは思わず叫んだ。
「必ず……、いつか必ず、あなたを迎えにきます。それまで、待っていてください!」
ひらりと、背中を向けたままグレイフィールが手を振った。
それが、時の泉でセリーナが見た最後の光景だった。




