∞ー5
エルミナの言う通り、シンシアとグレイフィールはたびたびカノアに泉へ招かれた。
結界は決まった場所にあるわけでなく、いつも異なる場所にいるときに脈略なくすすき野に飛ばされた。初めはグレイフィールとシンシアのふたりだけだったが、そのうちエルミナもカノアの眼鏡にかなったらしく、3人まとめて招かれるようになっていった。
何度か時の泉に通ううちに、二人はエルミナに渡された古文書を読み解き、カノアや泉についてもいくらか学んだ。中でも興味深かったのは、時の泉に招かれるうえでのルールだ。
ひとつ。カノアへの畏敬を欠いてはならない。カノアは泉の主であり、すすき野より内側はすべて彼の妖精の結界内である。それを念頭に置いて、行動するべし。
ひとつ。時の泉には、決して触れてはならない。泉への干渉は、時間への干渉と同義。禁忌を破れば、カノアは必ずその者に制裁を与える。
ひとつ。時の泉に招かれるのは、すべてカノアの意志によると心得るべし。一度でも信頼を損なえば、時の泉への道はたちまち閉ざされると理解せよ。
ルールがわかれば、カノアが継続してシンシアとグレイフィール、そしてエルミナを時の泉に招き続けているのかも見えてくる。三人とも、時の泉に対して欲がないのだ。
まずシンシアだが、彼女は泉よりむしろ、周囲に生えているすすきに興味を持った。なにせ伝説の妖精が作る、結界内でしか育たないすすきだ。さぞやいい魔術薬の素材になるだろう。そのように目を輝かせすすきを採取するシンシアを、カノアも好きにさせていた。
次にエルミナだが、彼女はカノアの作り出す結界に関心を抱いた。魔術馬鹿なエルミナらしい発想だ。泉に招かれるたびにぶつぶつ言いながら結界内を歩き回っているだけなので、これまたカノアは彼女を放っておいた。
最後にグレイフィールだが、ほかの二人のように別の何かに心惹かれたわけではなかったが、これと言って時の泉にも惹かれなかった。なぜなら彼は満たされていた。現状に満足する人間にとって、時の泉はそこまで魅力的には映らない。――そのことを実感するのはもっとずっと後の話だが、とにかく当時は、そこまで泉に関心がなかったのだ。
なんにせよ、グレイフィールたちはカノアに認められ、時の泉を訪れる権利を得た。グレイフィール自身はこれといってそのことに有難味を感じなかったが、シンシアが楽しそうにしていたので「まあ、いいか」と。そんな風に呑気に構えていた。
そうやってさらに1年が過ぎた、とある冬の始まり。
グレイフィールは、体調を崩した。
ごほっ、ごほっ、と。ベッドに横になって咳をするグレイフィールに、シンシアが心配そうに眉尻を下げた。
「ちょっと、大丈夫? 昨日よりだいぶ辛そうだけど」
「大丈夫だよ、ただの風邪だから……っ、ごほっ」
ゆるゆると首を振るが、咳き込みながらだから全く説得力がない。ぼんやりする頭でシンシアを見上げていると、彼女の手がグレイフィールの額に触れた。
「ほら、熱も上がってる。今日も寝てなくちゃだめ」
「……たいしたこと、ないのに」
「病人が強がりいわなーい! てわけで、大人しく寝てなさいねっ」
ぽんぽんとふとんの上からグレイフィールを叩いて、シンシアが立ち上がる。風邪の薬をとりに部屋を出ていこうとする背中に、不安になってグレイフィールは呼びかけた。
「森に出ちゃダメだよ。ひとりで行かないでね、危ないから」
「まーた。ひとの心配してる暇があったら、さっさと治しなさい!」
「ほんとに! 冗談とかじゃなくて……」
「私も、れっきとした魔術師なんだけどなぁ。ま、過保護なグレイが安眠できるよう、私も大人しくしててあげる。だから早く治して、また一緒に森に出ようね」
おやすみ。そうウィンクをして、シンシアは部屋を出て行った。
その後は、いくらか飛び飛びに覚えている。言われた通り、グレイフィールは大人しくベッドにいて、夢とうつつを彷徨っていた。時折、シンシアが様子を見に来てくれた気配があった。ミルク粥と薬を飲ませてもらった記憶もある。
そうやって寝ていたらだいぶ体調も落ち着いて、いつしかグレイフィールはぐっすりと深く眠りについた。ふわふわと、幸せな夢を見ていた気がする。ハズレの森にきてすぐ、シンシアと二人、屋敷のあちこちを補強してまわりながら笑いあっていた時の。
やがて、物音がしてグレイフィールは目が覚めた。気分は随分と良くなっていた。
物音の正体は、エルミナだった。昨日、シンシアが紅の渓谷宛に飛ばした手紙を見て、グレイフィールの見舞いに来てくれたのだ。
見舞いの品だと言うフルーツ籠を腕にぶら下げたまま、師匠は不思議そうに首を傾げた。
「シンシアは、どこにいるの?」
呼吸が荒れ、心臓が早鐘のように胸を打つ。
捜索の末、シンシアはハズレの森で見つかった。リコルスの花の群生地の中で、意識を失って倒れていた。緑道で足を滑らせ、木に頭をぶつけたまま気を失ってしまったのだろう。それが、発見したエルミナの見立てだった。
「手は尽くすわ。だけど、シンシアは……もう……っ」
声を詰まらせるエルミナを、ベッドの上で白い顔で眠るシンシアを、グレイフィールは呆然と眺めた。
シンシアがどれだけの時間、リコルスの中で倒れていたのかはわからない。けれども、リコルスは生き物の精気を吸って咲く花だ。エルミナが発見したとき、シンシアの周りには血のように紅く染まった花が満開に咲き誇っていた。対照的にいつにもまして白い肌と固く閉ざされた瞳が、絶望的な状況を如実に物語っていた。
倒れていたシンシアの隣には、チコッタの実がたくさん入った籠があった。チコッタは様々な魔術薬に用いるが、特に風邪薬によく用いる。弱った体を整え、無理せず緩やかに回復させる作用があって――。
くらりと眩暈がして、グレイフィールはベッドに手を付く。指先に触れたシンシアの手は、信じられないほど冷たい。
どうか夢なら醒めてくれ。この時ほど、そう強く願ったことはなかった。
「助けてくれ!」
喉からほとばしったのは、もはや悲鳴だった。
「彼女が助かるなら何でもする。僕の命をあげてもいい。どんな手を使ってもいいから、シンシアを死なせないで……!」
「グレイフィール……」
泣きそうな顔で、エルミナが目を逸らす。――やめてくれ。そんな目で、シンシアを見ないでくれ。声を上げて泣き叫びたかったが、本当は自分でもわかっていた。
リコルスは獲物から生きる力そのものを奪う。短い時間であれば回復も可能だが、長い間、それも多くのリコリスに精気を奪われればそれも難しい。ゆっくりと衰弱し、眠るように死ぬ。それが獲物の最期。いまのシンシアに用意された未来だ。
もっと早く彼女を見つけていれば。もっと早く彼女がいないことに気づいていれば。眠っていなければ。起きていれば。ひとりで森に出るのを止めていれば。引き留めることが出来ていたなら。
どうして。どうして。どうして。後悔が津波のように押し寄せる中、ふとグレイフィールの頭にひとつの考えが導かれてしまう。
そうだ。彼女を救うのは、時間しかない。
「……エルミナ」
ふらりと立ち上がり、グレイフィールは窓の外に仄暗い瞳を向ける。
「シンシアをお願い」
エルミナが止めるのを背後に聞きながら、グレイフィールは跳んだ。
大樹の森、テムトの村、西の岸壁。転移魔術で、グレイフィールは無茶苦茶に跳んだ。なにせ、カノアの現れる場所に法則性はない。どこにいようが突然目の前に現れ、自分たちを結界内に引きずり込む。こちらとしては、あてずっぽうにあちこち行くしかない。
何度目かの転移のあと、ついにグレイフィールは見慣れた金色のすすき野に着いた。カノアも、普段と違うグレイフィールの様子をどことなく察したのだろう。風の魔術ですすきを割って泉にたどり着けば、出合頭にカノアに警戒された。
角を向け、探るような目でこちらを見るカノアに、グレイフィールはゆらめく影を全身に纏い向き合った。
「……シンシアが危ないんだ。君も、彼女を気に入っていたんだろう?」
カノアは答えない。変わらずに深い泉のように思慮深い目で、グレイフィールを見据えるだけだ。けれどもグレイフィールは、構わずにカノアに手を向けた。
「力を貸してくれ。それしか、シンシアを救う道はない」
ぶわりと、グレイフィールの足元に巨大な魔術陣が展開される。それを皮切りに、彼の身体から大量の影が伸び、時の泉を侵食した。
カノアがいななき、鍵爪で湖面を蹴る。カノアの下にも術式が展開され、片っ端からグレイフィールの伸ばす影を排除していく。
けれどもグレイフィールは、それを上回る速度で新たな術式を構築した。
解体、霧散、構築。解体、構築、再展開、浸食。両者睨みあいの中、恐ろしい速さで互いの魔術がぶつかり合う。微々たる差で――瞬きする間にも満たない僅かな差で相手を上回っているのは、グレイフィールのほうだ。
徐々にじりじりと、影が時の泉に根を生やす。そうすると、様々な光景がグレイフィールの中に流れ込んでくる。どこかの村の、赤子の誕生。テムトの子供たちが遊ぶ姿。海に落ちる夕日。嵐の夜に、木々に落ちる一閃。
やがて彼は、ひとつの情景を探り当てた。
シンシアがいつものように魔術薬を煎じている。材料を投じようと小瓶を開けたところで、中に目当ての小粒が見当たらないことに気づく。
手早く身支度を整えた彼女は、扉を開ける。中では、グレイフィールが眠っている。いくらか調子を取り戻したのか、穏やかな寝息に彼女はほっと息を吐く。黒い前髪をそっと撫でて額に口付けを落としてから、シンシアは扉に手をかける。
行かないでくれ、と。グレイフィールは手を伸ばす。部屋を出て行ってはダメだ。森に行ってはダメだ。ここにいて欲しい。傍にいてほしい。行かないで欲しい。
生きて、横でずっと笑っていて欲しい。
激しい魔力波が起き、体を吹き飛ばされる感覚があった。伸ばした影たちが引き裂かれ、鏡のような湖面の中に霧散していく。同時に、振り返って微笑んだシンシアの笑顔が遠く、おぼろげなものとなっていく。
「行かないで、シンシア!!」
霞んでいく姿に、グレイフィールは最後の叫び声をあげた。
「僕を置いて、ひとりで行かないで―――――!」
気づいたら、グレイフィールは森の中に倒れていた。夜空に浮かぶ月は黒い木々の向こうにあり、自分がカノアの結界からはじき出されたのだとすぐにわかった。
いつの間にか、傍にはエルミナがいた。
「シンシアは?」
倒れたまま、グレイフィールは問いかける。だが、エルミナの表情を見れば、答えは聞くまでもなく明白であった。
「――――――っ」
全身を引き裂かれるような痛みに、グレイフィールは両手で顔を覆い、身をよじって声なき呻きを上げた。
けれども、壊れたものは二度と戻らない。
時間と言う一方的な流れの中で、グレイフィールはどこまでも無力だった。




