∞ー2
子供たちは無事だった。異変を察したエルミナが飛んできて、グレイフィールの影の人形を消し跳ばしたのだ。
けが人もなし、工房も無事。しいて言うならシンシアが作った若木の人形が逃げ出して行方不明になったが、まったくもって問題ない。弟子の魔力暴走も、大魔術師エルミナにとってはトラブルとも呼べないくらいの些細な出来事だ。
すべては丸く収まり、何もかも万々歳。――だが、グレイフィール本人は、そのように軽く流すことが出来なかった。
「グレイー? いい加減、出てらっしゃい~? お腹すいたでしょ~?」
与えられた小部屋の外から、エルミナが自分を呼ぶ声がする。けれどもグレイフィールは、ベッドの上で膝を抱えてますます小さくなった。
「……僕はいい。食べたくない」
ややあって、エルミナが扉の前を離れていく気配がする。反抗期かしらぁ? そんな、呑気なつぶやきが聞こえた気がした。
再び静かになった部屋の中で、グレイフィールは膝を抱え込む小さな手にぎゅっと力を込めた。ほかの子供たちを、大けがさせてしまうところだった。その事実が彼をひどく傷つけ、同時に怯えさせていた。
……故郷にいたときには、こんな大事になったことはなかった。これまでしでかしたことといえば、せいぜい木の葉をすべて散らしてしまったとか、荷馬車を空に飛ばしてしまったとかで、直接誰かに危害を及ぼすようなことではなかった。
自分の魔術が、誰かを傷つけてしまう。その恐怖を、初めて彼は知ったのだ。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……)
自分の生み出した影の人形が、大きく腕を振るうさまが何度も頭の中にリフレインする。恐くなって身を縮めるが、そんな彼の不安に呼応するように、室内に満ちる影もゆらゆらと蠢き始める。
このままここにいたら、また同じことを起こしてしまうかもしれない。自分のせいで、誰かを傷つけてしまうかもしれない。
――紅の渓谷に来てからの日々が、走馬灯のようによみがえる。
エルミナに魔術を教わる日々は楽しかった。ほかの子供たちに称賛されるのも、戸惑いはしたが悪い気はしなかった。シンシアに絡まれるのは……まあ、こればっかりは面倒くさかったが、振り返ってみれば楽しくもあった。
どれもこれも独りぼっちだった生まれ故郷とは違う、騒がしくて目まぐるしい大切な時間たち。けれども、それも今日でおしまい。
もうここにはいられない。ツンと鼻が痛んで、涙がこぼれそうになった。
そのとき。
「グレイフィール! なんで来ないの? 出てきなさいよ!」
ばんばんと扉を叩く音がして、グレイフィールはびくりと肩を跳ねさせた。同時に聞こえたのは、聞きなれたシンシアの声。グレイフィールが夕食の場に姿を見せなかったので、わざわざ部屋の前に来たらしい。
返事がないのに痺れを切らしたのか、かちゃりとドアノブが回る。そのまま扉が開いてしまいそうになって、慌ててグレイフィールは影を伸ばして扉をがんじがらめにし、開いてしまうのを阻止した。
異変に気付いたシンシアは、当然扉の外で怒った。
「グレイ……って、開かないんだけど? ちょっと! 開けなさいよ! こら!」
「入ってこないで!!」
「はあ??」
思わず鋭く叫ぶと、わけがわからないというような声をシンシアは上げる。簡単には諦めてくれなそうな彼女に、グレイフィールは注意深くベッドの隅に移動しながら、震える声で続けた。
「僕を、ひとりにして。明日には出ていくから。それまで、誰とも会いたくない」
「え、なに、出ていく? あんたが? どうして?」
戸惑ったような声のあと、はっとシンシアが扉の外で息を呑んだ。
「わかった! この私を負かしたから、このまま勝ち逃げするつもりね? そうは問屋が卸さないんだからっ。いーい? 私はまだ、あんたに負けたわけじゃ……」
「勝ち負けなんかどーでもいいよ!!」
両耳を押さえて、グレイフィールは叫んだ。扉の向こうでシンシアが息を呑んだ気配がした。ややあって、彼女は先ほどまでとは違う、気遣うような声でこちらに呼びかけてくる。
「なに。あんた泣いてんの?」
「な〝い〝でな〝い〝」
強がってみたが、声は正直だ。グレイフィールは泣いていた。ぼろぼろと、金色の瞳から大きな涙があとからあとから零れ落ちては膝を濡らした。
あの子の目が薄気味悪いの。昔、彼の母はそう言っていた。
「僕はここにいちゃいけないんだ」
いずれ、あの子はとんでもないことをしでかすよ。怯えた目をして、父がそう言った。
「僕の魔力はあばれるから。僕の魔力は、いつか皆を傷つけるから」
あの子に近づいちゃだめだよ。村の長が、ほかの子供たちに言っていた。
「僕はきっと、みんなを不幸にするから」
こわいね。村の子供たちが、物陰に隠れてそう言った。
なんども、なんども、なんども。彼の中で、大きな影の人形が暴れる。あんなことが起きるなんて。こんなことになってしまうなんて。泣いても叫んでも、いちど走り出した魔力はグレイフィールの言うことを聞いてくれない。
いやだ。誰かを壊してしまうくらいなら、いっそ独りに戻ったほうがいい。そうだ。グレイフィールは初めから、紅の渓谷にくるべきじゃなかった――。
そんな風に、グレイフィールが軋む心の内で叫んだときだった。
「光のともし火!」
扉の外で、まばゆい白い光が起こる。光は扉の隙間から室内に差し込んで、扉を押さえるグレイフィールの影を弱める。それを狙ったのだろう。薄い木の扉の向こうでシンシアが大きく息を吸いこみ、何やら振りかぶる気配があった。
「そいやーーーーー!!!!」
「っ!?!?」
影が消し跳んで扉が跳ね開き、どうやら扉を足蹴にしたらしいシンシアの姿が露わになる。まさか、そうくるとは思わなかった。ぽかんとベッドの上で呆けるグレイフィールに、シンシアは両手を腰に当てて仁王立ちをした。
「あんた、バッッッッ……ッカじゃないの!?!?」
明るい緑の瞳を爛々と輝かせて、シンシアは開口一番そう激怒した。そして、涙もひっこんであわあわと唇を震わせるしかないグレイフィールに、彼女はびしりと指を突き付ける。
「いーい?? できないことがあるから、私たち見習いなんでしょ!? できないことが出来るようになるために、エルミナに教えてもらってんでしょ!? それがなによ! 一回うまくいかなかったぐらいでメソメソしちゃって。あんたがあれぐらいの失敗でめげてたら、私なんか何回泣きわめけばいいのよ!」
「あれぐらいって……ぼくはみんなを怪我させたくなくて」
「だから、それがバカだっていってんの!」
ずいと身を乗り出し、シンシアが一刀両断する。そして彼女は、ぱんと胸を叩いた。
「弟弟子が失敗したら、フォローしてあげるのが姉弟子の役目でしょ。いちいち、そんなビクビク怯えてないで、思い切ってばーんと魔術を使えばいいの」
「…………へ?」
「言っとくけど、エルミナが来なくたって、あんな影人形わたしが消してあげたんだから。あんな影だけのひょろひょろ人形、ちっとも怖くなかったんだから」
何を言っているのか本気でわからず、グレイフィールはぱちくりと瞬きをする。けれどもシンシアは、ツンとそっぽを向いて銀色の髪をはらってそんなことをのたまった。
その、どこまでも強気な横顔に――大言壮語としかいいようのない宣言に。グレイフィールの中で、張りつめていたものたちが一気に緩んでいく。はは、と口から笑いが漏れた途端、彼の瞳からは新たな涙が零れ落ちた。
それはもう、先ほどまでの苦しい涙とは違った。
「……シンシアがなんとかできたなんて、そんなのウソだぁ」
「ちょ、ウソじゃないわよ! ていうか、なんでまた泣いてんの!?」
「だって……シンシアのウソつきぃ……っ」
「ウソじゃないってば! ていうか、泣き止みなさいよ! 調子くるうんだから!」
ほんとにもう、と。困ったような顔をして、シンシアがグレイフィールの手を摑む。
「とにかくご飯食べにいくわよ! みんな心配してんだから」
彼女の手は小さく、温かい。改めて見上げたシンシアの顔は、これまで出会ったどんな女の子よりも輝いてみえた。
「…………うん」
頷いて、彼女に手を引かれて歩く。
もう独りでいなくていいんだと。あの日グレイフィールは、初めてそう思えた。




