1.もう一人のグレイフィール(1)
ざあっと、強い風が吹き抜ける。
突然肌を襲った風の感覚に、セリーナははっとして目を開いた。
視界に飛び込んできたのは、一面の金色。風にさらされる灰色の髪を押さえ、セリーナは戸惑いつつ首を巡らせる。どこを見てもすすき、すすき、すすき。終わりの見えないすすきの野が、どこまでも永遠に続いていた。
「この景色は……」
つぶやきが漏れて、セリーナは慌てて口元を押さえた。だが、いつまでたっても息苦しさは襲ってこないし、視界が歪んでくることもない。どろりとした水晶の中で溺れかけてみた幻、というわけではないようだ。
だとすると、ますますこれはどういうわけだろう。セリーナはさっきまで水晶塔にいて、マリナの魔術によって水晶の中に取り込まれた。視覚や聴覚、触覚に至るまであらゆる感覚が奪われ、意識もすぐになくなった。それが、気づいたらこんな場所にいる。
改めて、セリーナは辺りを見回す。風に揺れるすすきの原は、初めて魔術を使ったときに見た幻影の景色にそっくりだ。だが、エルミナの話から想像するに、すすき野があるのはおそらくハズレの森のどこか。だがセリーナに転移魔法は使えないし、マリナもおそらく同じだろうから彼女の仕業とも考えにくい。
「……もしかして、私。死んでしまったのかしら」
嫌な予感に、セリーナは顔を青ざめさせる。いいや、しかし、だとするとここは天国ということになってしまう。
スディール国では、天国には穢れなき純白の宮殿があり、美しい女神が迎えてくださると言われている。金のすすき野も美しいことには美しいが、そんなものが天国にあるとは、一度も聞いたことがなかったが……。
その時、風にのって別の誰かの声が届いた。
「誰かいるの」
一陣の風がすすき野を駆け抜ける。とっさにセリーナは両腕で顔を庇うが、強い風が灰色の髪を揺らした。風が収まった時、セリーナがそろそろと目を開けると、目の前のすすき野が割れてまっすぐに道が出来ている。
道の先には、あたりの風とは無関係に、波一つ立てない静かな湖面がきらきらと輝いている。それを背負って立つ背高の人物に、セリーナはアメジスト色の目を瞠った。
「グレイ、様……?」
「僕を知っているの?」
風に揺れる黒い髪も、訝しげにこちらを見つめる金色の瞳も、間違いなくグレイフィールだ。けれども彼は、まるで他人を見るような目でセリーナを一瞥した。
「……まあ、いいや。ここは普通の人間が来る場所じゃない。もと来た道をたどって、家にお帰り」
「っ、待ってください!」
セリーナの制止など聞こえなかったように、グレイフィールがふいと顔をそむける。途端、別れていたすすきたちが順にもとに戻り、道を塞ぎ始めた。
考えている暇はない。セリーナは消え行く道に足を踏み出し、奥へと消えたグレイフィールを追おうとする。だが、セリーナが走るよりも道が閉ざされるほうが早い。あっという間に元のすすき野に呑まれた彼女は、どこへ向かうのが正解かわからなくなってしまった。
(何か方法は……。そうだ、魔術なら!)
思いついて、セリーナは服の中から魔導儀を引っ張り出す。
魔術入門書に、風を起こす魔術も乗っていた。グレイフィールのように道を作ることができなくても、一瞬でも視界を開くことができればそれでいい。あとは自分の足で、彼のところへ走るだけ。
魔導儀を両手で包み、セリーナは目を閉じて瞼の裏に魔術陣を描いた。
「妖精の吐息!」
……何も起こらない。魔力が流れる気配は確かにするのに、魔術陣にうまく流せない。
「シルキー・ウィング。シルキー……ウィング!」
だめだ。やはり、セリーナのいまの精一杯は、既に書いてある魔術陣に魔力を流すのがやっと。先ほどは緊急事態というのと、相性のいい土属性の魔術だったので上手く行ったが、風魔法となると上手く行かない。
仕方がない。こうなったら自分の方向感覚を信じて、出来る限りまっすぐ走るしか。
そのようにセリーナが思った直後、再び目の前のすすきが割れた。かと思えば、目の前に黒い影が現れ、すばやくセリーナの手を摑む。
次にセリーナが瞬きをしたとき、彼女は湖の湖畔にいて、グレイフィールと向き合っていた。
「っ、グレイ様!」
「君は誰」
ほっと表情を緩めるセリーナとは対照的に、グレイフィールの顔は険しい。――いや。信じたいが、信じられない。正確には、そんな葛藤の揺らぐ瞳で、彼はセリーナを見下ろしていた。
ふと、彼の金色の瞳が、セリーナの右手を捉える。その手は、胸に下げた魔導儀を包んだままだ。
何かがおかしい。いつもの彼じゃない。ようやくそのことに思い至ったセリーナに対し、グレイフィールはゆるゆると首を振る。
「君の魔力が流れた時、彼女と同じ色を見た。……いいや、でも、まさか。ありえない。けど、本当にそうなら」
「グレイ様、一体何を……?」
期待と不安。その合間を揺れ動き、早口にグレイフィールは呟く。心配になって顔を覗き込むと、彼は意を結したように――まるで長い渇望の果てに縋り付くように、その場に跪いた。
「君は…………シンシア、なのか?」
まるでセリーナが消えてしまうのを恐れるように、グレイフィールがそろそろと手を伸ばす。その指先が、魔導儀を掴むセリーナに触れた。
--途端、彼の記憶が、セリーナに流れ込んできた。




