3.ハズレの森で目覚めました。(2)
一口ふた口、どうにかフルーツだけを口にしたセリーナは、とりあえず屋敷の中を見て回りたいと申し出た。
屋敷の主が不在の内に、動き回っていいものか。そんな不安が頭をよぎりもしたが、リオは全く問題ないと首を振った。
セリーナの希望を聞くや否や、リオは一度下がり、すぐに簡素なワンピースを持ってきた。それが誰の物なのか気になりはしたが、パーティドレスに袖を通すわけにもいかず、セリーナはおとなしくそれを着込む。
借り物のはずなのに、シンプルで上品なそれは、あつらえたようにセリーナに似合う。きめ細やかな白い肌に、バランスよく整った美しい面差し。化粧を必要としないセリーナの魅力を、不思議と引き出してくれる。
口には出さなかったが、リオも着替えたセリーナを一目見て、満足そうに微笑んだ。そうやって身支度を済ませた彼女は、リオに連れられてぐるりと屋敷内を巡った。
屋敷といっても、趣としては小さな古城だ。動物除けなのか、屋敷の周りにはぐるりと柵が張り巡らされており、一応は森と敷地内とで遮断されている。とはいえ、正面の大門を抜けた先は完全に砂利道となっており、木々の向こうへ消えるその道がどこに繋がっているかわかりようもなかった。
「ハズレの森は、妖精が住まう森です」
見張り台から森を眺めていると、後ろに控えるリオがそう説明した。
「妖精たちはかねがね人間に好意的ですが、悪戯好きです。悪意なく道を惑わせ、森へ呼び込もうとする輩もいるでしょう。決して森にはひとりで向かわないように」
それからもリオは、屋敷内の一通りを案内して回った。
美しい暖炉のある談話室。長いテーブルの目立つ食堂。壁一面に本が詰め込まれた書物庫。……グレイフィールの私室、はさすがに遠慮した。「主は気にしないと思いますが」とリオは真顔で首を傾げたが、そういう問題ではないのだ。
ある程度見て回ったところで、リオはセリーナを再び談話室へと連れて行った。用意してくれた紅茶をぼんやりと眺めていると、セリーナの気を紛らわせようとしてか、リオが話しかけてきた。
「セリーナ様は、これまで王都にあるユークレヒト公爵の屋敷にお住まいだったと聞いております。大都市と森の中では、色々と勝手が異なり戸惑いもありましょう。しかし、慣れればここでの暮らしも良いものです。馬を走らせれば、森の中に集落もないわけでは……」
「……なぜ」
「え?」
薄い唇から、ぽつりと言葉が零れ落ちる。これまで、ほとんどセリーナが口を閉ざしていたからだろう。リオはすぐさま言葉を飲み込み、客人が先を続けるのを待つ。
一方セリーナは、せっかくの整った顔を暗く翳らせたまま、自身の手に視線を落としていた。
「なぜ、グレイフィール様は、私を連れ出してくださったのでしょうか」
灰色がかった銀髪がひと房、肩から滑り落ちる。リオは逡巡するようにしばし黙っていたが、やがて控えめに首を振った。
「そういった事柄は、主と直接話されるのがよろしいかと存じます。私はあくまで、グレイフィールの命に沿って動く人形ですので」
奇妙な言い回しに、セリーナは一瞬はたと小首をかしげる。けれども彼女が何かを訊ねる前に、リオはさらりと話題を変えた。
「ですが、これだけは進言させていただきます。昨夜、主がセリーナ様をお迎えに上がったのは、ひとえに貴女のため。最初から100%信頼せよというのが無理なのは承知ですが、主に免じて、もう少し肩の力を抜いてはいただけませんでしょうか。……ずっと警戒したままでは、セリーナ様もお疲れになりましょう」
「警戒、ですか?」
紫水晶のような瞳を瞬かせて、セリーナはリオを見る。すると彼女は、ちらりとセリーナの手元に視線を送った。
そこには、手付かずの紅茶と茶菓子があった。
「これは……違う、違うんです」
申し訳なさで、セリーナはティーカップに手を伸ばした。けれども触れようとしたところで、やはり気が進まず手を下ろしてしまった。
「ただ……途方に暮れてしまって」
「途方に、ですか」
「はい」
頷いてから、セリーナは窓の外に視線をずらした。窓の近くの木の枝に、青い鳥が止まっているのが見える。ちゅんちゅんと楽しげに鳴いて飛び立っていく姿に、セリーナは置き去りにされたような心もとなさを覚えた。
「……私は、王太子妃として育てられてきたんです」
もしかしたら、セリーナ側の事情はある程度知られているかもしれない。そのように思ったが、一度吹き出した想いは止めることが出来なかった。
「王太子妃としてステファン様に嫁ぎ、お支えする。それこそが私の使命であり、正しいのだと。それだけを信じて、励んできました。……けれども、その道は閉ざされました」
そしたらわからなくなってしまったのだ。自分という人間が。
「父の言いつけを守り、家の期待に応え……ステファン様の、望み通りの女になる。それが、私の人生のすべてでした。けれども気づいてしまったんです。それらの指標がなければ、いかに自分が空っぽであるか。……私という人間が、いかに空虚であるか」
好きに過ごしていい。リオからそう告げられたとき、セリーナが覚えたのは戸惑いだった。
今の自分に、したいことなどあるのだろうかと。
「グレイフィール様に手を差し伸べられた時、嬉しかった。こんな私でも、何か変われるのかもしれないって……」
けれど違った。場所が変わったぐらいで、人はかわらない。むしろ父や王子と離れたことで、空っぽな自分がますます浮き彫りになっただけ。
自由を手に入れたことで、セリーナはむしろ孤独を覚えたのだ。
「これからどうすればいいのか。何をすればいいのか。……そんな風に考えたら、食事をするのも億劫になってしまって」
リオからの返事はない。当然だ。突然こんな話を聞かされたって、反応に困るだろう。
言わなきゃよかった。これでは、王子の婚約パーティから救いあげてくれたグレイフィールにも、彼の言いつけに従い色々と世話をしてくれているリオにも失礼だ。
否。自分はそもそも、ここに来るべきではなかった――。
「君は難しく考えすぎていると、僕は思う」
さらりと、誰かがセリーナの髪を撫でた。驚いて顔を上げたら、月の色をした瞳と目があった。
虚を衝かれて見上げるセリーナに変わり、リオが驚きの声を上げた。
「グレイフィール! 随分早い戻りで……」
「彼女を待たせているから。急いで用を済ませてきた」
答えながら、目だけはセリーナをまっすぐに映し、グレイフィールが見下ろす。金の瞳はどこか造り物のように美しく、それでいて不思議と吸い込まれてしまいそうに目を離せない。いつの間に談話室の中に現れたのだろうか。魔法使いは、やはり行動が読めない。
目を瞬かせるセリーナをよそに、屋敷の主はセリーナの髪を指で遊びながら続けた。
「人の一生に、理由なんかない。絶望しようが失望しようが、僕らの気分と関係なく朝日は昇るし、目が覚めたからには新しい一日を生きていくだけ」
いいながらグレイフィールは手付かずになっていたティーカップに手を伸ばす。香りを楽しんでから、わずかに紅茶に口をつける。ほっと息をついた彼は、セリーナにカップを差し出した。
「だから君も、今日を生きなきゃ。そして生きていくのには、エネルギーがいる」
なんとなく差し出されるまま、ティーカップを受け取ってしまう。改めてカップを覗き込むと、セリーナの知っている紅茶よりも色素が薄い。まるでグレイフィールの瞳の色だ。
こくりと、喉を鳴らして飲む。優しく広がった花の香りに、セリーナは思わず表情を緩めた。
「……おいしい」
「そういうと思った」
満足げに、グレイフィールが微笑む。ただでさえ美しい顔にふわりと甘さが加わり、セリーナはどきりと胸が高鳴るのを感じた。
セリーナの動揺を知ってか知らずか、グレイフィールはもとの涼しげな表情に戻り、傍で控えるリオに向けて告げた。
「食事にしよう。僕もお腹が空いた」