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8.聖女の涙と、最後の希望


 水晶の壁が、音もなく割れる。姿を見せたのは、聖女マリナだった。


グレイフィールの屋敷であいまみえた時と同様、彼女は聖女の白装束に杖を握りしめている。彼女が中に入ると、ステファンのときと同じように壁の穴は静かに閉じた。


(マリナ様……)


 服の上から魔導儀を握りしめたまま、セリーナは僅かに顔をしかめた。


 グレイフィールの屋敷で、マリナは聖女の杖をふるい魔術を披露していた。ネッドが軽く手で払っていたからそこまでの威力ではないのだろうが、それでも駆け出し魔術師のセリーナよりは手慣れた様子。


 状況は、さらに不利になったと言っても過言ではないだろう。


「ああ、マリナか」


 どことなくホッとしたように、ステファンが肩の力を抜く。一方でマリナは、どこか思いつめたような顔でステファンを見た。その視線に、セリーナはほんの少し違和感を覚えた。


だが、セリーナが違和感の正体に思い至るより先に、マリナは心配そうに王子に駆け寄ると、ステファンの手を取った。


「ステファン様、お怪我をしています!」


「ああ。大丈夫だ、これくらい」


 愛しい恋人が現れたことで落ち着きを取り戻したのだろう。ステファンはさっと手を後ろに隠すと、なんでもないように微笑む。そして、忌々しそうにセリーナを顎でしゃくった。


「ちょうどいいところに来てくれた。たった今、交渉は決裂した。セリーナは私の申し出を断った。自らの命より、死んだ男の名誉を取るそうだ。……この女を眠らせてくれ。中央広場で、皆の前で処刑してやる」


「いいんですか?」


 窺うように、マリナのくりりと丸い瞳が王子を覗き込む。ひらりと手を振って、王子は面倒そうにうなずいた。


「いいもなにも、二度と顔も見たくない。早く済ませてくれ」


「任せてください!」


 明るく頷き、マリナがセリーナに首を向ける。両手でぎゅっと杖を握りしめ、彼女は水晶台の上にすわるセリーナの前に立った。


 マリナを見上げ、セリーナはぐっと息を呑む。ここで意識を奪われたら、次に目を覚ますのは処刑台の上だ。何か手はないか。この状況を覆す、明確な一手は。


 ――けれども、必死に考えるセリーナをよそに、マリナはステファンに声を掛けた。


「……これが終わったら、何もかももと通りですよね?」


「ん? あ、ああ。そうだよ」


 虚を衝かれたように瞬きをしてから、ステファンは笑顔で頷く。だがマリナは、杖を構えたままさらに続けた。


「私はステファン様と結婚して、二人で一緒に幸せになるんですよね」


「もちろんだとも! さあ、はやくセリーナを……」


「ステファン様が愛するのは私だけ。私のことを、見捨てたりしませんよね??」


「そう言ってるじゃないか! 私は君を永遠に愛するし、決して裏切らない。そうだろう?」


 何を言っているのかわからない。そういった様子で、王子が両手を広げて笑う。対して、マリナが返すのは沈黙だ。俯き杖を握りしめるマリナの表情は、前髪に隠れてセリーナにもよく見えない。


 やがて彼女は、小さな声で呟いた。


「…………うそつき」


 疑問を感じる暇もなかった。マリナは素早く振り返ると、杖をまっすぐに王子に向ける。肩の上で切りそろえた黒髪がふわりと広がり、マリナは叫んだ。


女神の恵み(メジド・グレイズ)!!」

 

「うわ!」


 杖にはめられた水晶が輝き、とっさにステファンが手で目を覆う。――セリーナの魔術で、根を生やされた手で。


 途端、どんぐりの実から一本の枝がぎゅるりと伸び、大きく弧を描いてステファンの胸を突き刺した。


「…………なっ」


 驚愕に目を見開き、王子が枝の刺さったおのれの胸を見下ろす。枝がしおれ、胸から抜けだらりと垂れ下がるのと同時に、彼は血を流して床に倒れ伏した。


 あっという間の出来事に、セリーナは身じろぎすら出来なかった。セリーナよりもさらに驚いたのはステファンだ。痛みに顔を歪めながら、彼は静かに自分を見下ろすマリナに手を伸ばした。


「……マリナ……どうして、……?」


「私、見ちゃったんです。ステファン様が、セリーナ様におくった手紙を」


 手紙? セリーナは戸惑うしかなかったが、ステファンには思い当たる節があったらしい。彼は目を瞠ると、必死に首を振った。


「違う! あれは……あの手紙は……、元の地位を取り戻すために仕方なく送ったんだ。あれは、私の本心じゃない……。信じてくれ、マリナ……!」


「……手紙に書いてあったのと同じですね? 私と結婚をしたのは、仕方なくだった。本当はセリーナさんを王妃にするつもりで、私が聖女として安定するまで愛している振りをしているだけだって。そう、何度も何度も、同じ手紙を送ってましたよね?」


「だから……あれは……」


「信じていたのに!」


 マリナの声に涙が混じる。ぱたぱたと大粒の涙を床に落としながら、マリナは首を振った。


「……私、頑張ったのに。いきなりわけわかんない世界に来て、聖女とか意味わかんないこと言われて。祈るって何をって感じだし、女神とか誰って感じだし、神託って何それ美味しいのって感じだし! それでもステファン様が私を好きって言ってくれるから、この世界を嫌いになっちゃだめだって……思ってたのに……!」


「マリ……ナ……」


「もう、いいや」


 両手で涙をぬぐい、赤くなった目でマリナは虚空を見つめる。床に倒れるステファンが青ざめるのと、異変を察したセリーナが止めようと手を伸ばすのとが同時だった。だが、ふたりの制止は届かない。聖女の杖を掲げ、マリナは瞳を光らせた。


「――ぜんぶ、壊れちゃえ」


 杖にはめられた水晶が強く発光する。それに呼応するように、壁や床、セリーナの乗せられた台と、ありとあらゆる水晶が淡く光り始めた。


 なにが起きているんだろう。そう身を強張らせたとき、ふいに身体が沈んだ。驚いて下を見れば、さっきまで硬かった水晶台が、いまはまるで溶かしたチョコレートのようにどろりとしたものに変わっている。


 水晶に沈みかけているのはセリーナだけではない。ステファンはもちろん、分厚い水晶の壁の向こうでたくさんの悲鳴があがっているのが微かに聞こえる。おそらく水晶塔の中で、無事でいるのはマリナだけなのだろう。


水晶に呑まれかけ、ステファンは溺れているかのように必死に手を振り回していた。


「やめろ! 助けてくれ! 信じてくれ、マリナ! マリナ!!」


「大好きでした。さようなら、ステファン様」


 淡々と告げて、マリナが背を向ける。後ろで悲壮な声が響き、消える。そのすべてが聞こえなかったように、マリナの足はまっすぐにセリーナへと向かい、立ち止まった。


 既にセリーナの身体も、半分以上水晶に呑みこまれている。その姿を見下ろして、マリナはくしゃりと泣きはらした顔を歪めた。


「セリーナさんのことも、大好きでした。最初に私に優しくしてくれて、嬉しかったのに」


「……マリナ様。ステファン様はあなたを選び、私との婚約を破棄したのですよ?」


「わかっています!」


 悲壮感たっぷりに、マリナは声を震わせる。まるで悲劇のヒロインのような振る舞いにさすがのセリーナも閉口するなか、マリナはゆるゆると首を振った。


「わかっていても、許せないんです。一度でも私を捨てようとしたことが」


 ――なんとも自分勝手な怒りだ。もとはと言えば、ステファンと婚約をしていたのはセリーナだ。マリナはそれを知りながらステファンと密会を重ね、最終的に彼を奪った。だというのに、これではあまりにも自分のことを棚に上げすぎている。


 けれども、ここでマリナと議論をしても仕方がない。おとなしく目を瞑るセリーナに、マリナは奇妙そうに眉根を寄せた。


「暴れないんですね。恐くないんですか?」


「あの方を信じていますから」


 セリーナの身体で、もう沈んでいないのは首より上だけだ。水晶に呑まれた部分は溶けてしまったように外から見えないし、感覚もない。それでもセリーナは、紫水晶のような瞳でまっすぐにマリナを見据えて答える。


「これほどの魔術であればグレイ様が異変に気付いてくださるはず。……あの方と一緒に、ハズレの森に帰る。その希望を、私はまだ捨てておりませんから」


「……なんですか、それ」


 忌々しそうにマリナが唇を引き結ぶ。もう一度瞳を光らせ、彼女は杖を握りしめた。


「グレイフィール様は死にましたよ。さっさと絶望して沈んでください」


 とぷん、と。セリーナのすべてが水晶に沈む。


 音も、光も、感覚さえも。すべてが消えていく中、セリーナはゆっくりと呑まれていったのだった。




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