5.王子の野望と、折れない心(1)
"行かないで。置いていかないで、………"
これは夢だと、セリーナは思った。
風に靡く黒い髪。涙の伝う白い肌に、すっと通った鼻筋。濡れたまつげに縁取られた切長の目と、琥珀色の瞳。
グレイフィールが、目の前で泣いている。
"嫌だ。…………。ダメだ、どうして!"
グレイフィールだと認識したからだろうか。これまでより彼の姿がはっきり見えるし、声もよく聞こえる。
これまでは気づかなかったが、彼は腕に女性を抱いているようだ。その誰かに向かって、必死に呼びかけているらしい。しかしながら女性の顔はボヤけて見えず、名前と思われる部分にもひどいノイズがかかる。
――場面が変わった。
グレイフィールがいるのは同じ。だが、場所が先程とは違う。見覚えのある光景に、セリーナは驚いた。
それは、王都に住んでいた頃のセリーナの寝室だった。
"もう嫌だ。耐えられない"
美しい魔法使いは、両手で顔を覆ってうめく。表情は見えなかったが、絞り出すように震える声が、彼の苦痛を物語っていた。
セリーナは必死に手を伸ばそうとした。彼に苦しんで欲しくない。辛い思いをして欲しくない。寄り添ってやりたい。慰めてやりたい。
けれども、そんなセリーナの想いも虚しく、グレイフィールは吐き出すように呟いた。
"生きていたくない"
……この場面は知っている。
なぜかセリーナは、そう実感を覚えた。
ふるりと睫毛を震わせ、ゆっくりと瞼を開く。
アメジスト色の瞳に天井を映したまま、セリーナはしばし呆然と身を横たえていた。
不思議な部屋だ。天井も、壁も、おそらく背中に当たる硬く冷たい感触も、すべてが水晶で出来ている。室内にはセリーナ以外に誰もおらず、何も置いていない。
まるで、水晶そのものの中にいるみたいだ。そんな印象を抱いて、ハッとした。前にマリナに聞いたことがある。王都ガッスールのはずれに位置する水晶塔。その内部は、何もかもが水晶で出来ていてとても綺麗なのだと。
(……ここは、水晶塔の中?)
だとしたら、ステファンはどこにいったのだろう。マリナは。修道服の魔術師たちは。
ネッドは。
そこまで考えたところで、意識を奪われる直前の、悪夢のような光景が脳裏に蘇った。水晶にあちこちを貫かれ、ぼろぼろになった体。血のように溢れる影。短い悲鳴。だらりと力の抜けた指。
手で口を覆って、セリーナはなんとか悲鳴を堪えた。それでも、溢れ出す感情を堰き止めることはできない。嘘だ。信じられない。ネッドが壊された――殺されて、しまったなんて。
震えながら、セリーナは必死に考える。突然の襲撃に、拘束。女神の神託のためとはいえ、どう考えてもまともな状況ではない。
……グレイフィールとリオは、どうしているだろうか。ネッドの最期を見た後だと、どうしても嫌な想像が頭を巡ってしまう。
けれども、グレイフィールは不死身だ。それに三大魔法使いのひとりである。屋敷の結界を破られた時は動揺してしまったが、彼がそう易々と何者かにやられるとは思えない。
(グレイ様……リオさん……。どうかご無事で……!)
せめてもの慰みに、セリーナは胸の中で強く願う。
そのとき、音もなく壁の一部が割れ、ひと一人が通れるほどの穴が空いた。
カツンと高い音を響かせ、その人物は悠然と室内に入ってくる。顔を上げたセリーナは、すぐさま表情を強張らせた。
「ステファン様……」
「やあ、セリーナ。目が覚めたようでよかった」
穏やかに微笑み、ステファンが朗らかに言う。だが、セリーナが明らかに警戒の色を見せると、彼は立ち止まって眉尻を下げた。
「ひどいじゃないか、そんな目で私を見るなんて。以前の君なら、絶対に考えられなかったよ」
「……お変わりになったのは、殿下の方です」
声も硬く、セリーナは王子を見上げる。
長らく婚約者として側で見てきたからわかる。以前の彼なら、何の温情もなくネッドに刃物を突き立てたりしなかった。
けれどもステファンは、軽く肩を竦めただけだった。
「あの人形は私を攻撃しようとした。しかもハズレの森の魔法使いの手の者だ。壊されて当然だろう?」
「ですから、女神の神託は何かの間違いです……! 私もグレイフィール様も、もちろんネッドさんも、スディール国を滅ぼそうなどと企んでおりませんでした……!」
「間違い? 君もこの国の歴史を学んだだろう? 女神は決して間違えない。間違いがあるとすれば、神託を受けた我々人間にだ」
ずいと身を乗り出し、ステファンの顔が触れてしまいそうなほど近く。柔らかな笑みに反して冷淡な眼差しでセリーナを射抜き、彼は首を傾げた。
「君は、私やマリナが間違っていると言うつもりかな?」
「っ!」
唇を噛み、セリーナは目を泳がせた。
確かにそうだ。女神の神託は本物だ。女神の神託により、スディール国は時に天災を乗り切り、時に戦乱を生き延びた歴史を持つ。その恩恵は、疑うべくもない。
だとすれば、疑うはただ一つの可能性。すなわち、何者かが女神の神託を歪めて伝えた可能性だ。
それが出来るのは聖女マリナだ。しかし、彼女がそんなことをする意味がわからない。マリナがグレイフィールを敵視したり、セリーナを憎んだりする理由がないのだ。
――だが、疑惑を裏付けるように、ステファンが笑い始めた。
初めはくつくつと堪えるように肩を揺らしていた彼だったが、次第に我慢するのをやめ、最後は声を上げて笑った。
ひとしきり笑った後、彼は見たこともない表情でセリーナを見た。
「っ、はーっ。そうだよ。君は、君たちは嵌められたんだ。君と魔法使いのせいで絶望の底に突き落とされた、私とマリナにね!」




