2.自分の心と向き合いました。(1)
さて、そんなことがある少し前。グレイフィールとリオが、転移魔術でウィーネの滝へと飛んだ直後。
ネッドは笑っていた。それはそれは、腹を抱えて大笑いしていた。
「セリーナちゃんの顔!! ほんっっっと、主ってば罪づくりな男だよなー!」
「忘れてください……恥ずかしいです……」
「いやいや、セリーナちゃんはぜんっぜん悪くないって! あーんなさぁ、あの顔であのあっまい空気急にぶちこんでくるんだもんなー。そりゃ誰だって、メロメロのデロデロに腰砕けちまうよねー」
「ほんとうにあの……忘れて……」
消え入りそうな声をあげ、セリーナは羞恥に染まった顔を両手で覆う。
そうやっていても、まだ頭の中は大混乱中だ。なにせセリーナは元公爵令嬢である。深窓の令嬢である。恋人もなく、名ばかりの婚約者とプラトニックな関係しか築いたことがないセリーナに、グレイフィールは刺激が強すぎる。
(グレイ様は、一体どんなおつもりで……っ)
火照る頬を押さえ、セリーナは眉を八の字にした。
グレイフィールがやたらと距離が近いのはいつものこと。師匠としてセリーナを優しく甘やかすのもいつも通り。けれども、さっきのは違う。いくらなんでも、額にキスはやりすぎだ。
グレイフィールにかけられた呪いのこと。無くしてしまった記憶。自分が何者なのかという問題。……その、なにひとつとして解決していないのに、また新たな悩みが起きてしまうなんて。
頭を抱えてうじうじと悩むセリーナだが、ネッドはあくまで呑気に――そのうえ、新たな爆弾を投入した。
「やー。もう、くっついちゃえばよくない?? 好きなんでしょ? 主のこと」
「んなっ、なっ!?」
仰天して、思わずセリーナは立ち上がる。紫水晶に似た目をめいっぱい見開き、ぱくぱくと口を開け閉めするセリーナに、ネッドはにやにやと笑みを深めた。
「あれあれ~? どうしたのかな?? もしかして、バレてないと思ってた??」
「ち、ちが……! 何を言い出すんですか、突然!」
目を白黒させてセリーナは叫ぶ。
「私が、グレイ様をす、すき、だなんて。私はただ、情緒不安定で、不整脈がひどいだけです……っ」
「いやいや、情緒不安定でひどい不整脈って。本当だったら君、主につきっきりで看病されちゃうからね?? けど、なるほど、なるほど。自覚がないタイプでしたかー。しかもこりゃ重症だ」
「じ、自覚のあるなしの問題ではなく……っ!」
「ちなみに、主はセリーナちゃんのこと好きだと思うよ?」
「ひゃあっ!?!?」
いよいよセリーナは卒倒しそうになった。グレイフィールが自分を好き? いやいや。そんなこと天と地がひっくり返ったってありえない。だって彼は何百年も生きる偉大な魔法使いで、なんの取り柄もない――というと、彼は怒るが――セリーナなんかに、目を掛けるわけもなくて。
すると、そんなセリーナの胸中を察したようにネッドはやれやれと首を振った。
「セリーナちゃんってば、わかってないなあ。だって主だよ。圧倒的出不精な、記録的引きこもりだよ。その主が波風立ててまで女の子迎えに行くなんて、そんなのもう尋常じゃないでしょ!」
「そ、それは、グレイ様と私が昔に会ってるからで……」
「いやいや。普通、なんとも思ってない相手を、一度会ったぐらいで助けに行かないって! しかもさあ、連れてきたら連れて来たでペタペタ、ペタペタしょっちゅう触っちゃってさ。あんなん、好きですーって大声で叫んでるようなもんじゃん」
「グレイ様に、もともとそういう癖があるのかと……!」
「へーえ? じゃあ、主がリオに同じことしてんの見たことある? 俺には? エルミナにはどうだったっけ?」
必死にセリーナは思い出そうとする。一度くらい見たことがあったはずだ。セリーナにするように自然に、きまぐれに甘えるような。
(………ない?)
かけらも思い出せず、セリーナは愕然とした。
言われてみれば、セリーナの肩に顔を埋めにくるときグレイフィールは一度だってリオに足を向けたことはなかったし、エルミナに至っては下手に近寄らないように警戒しているようにすら見えた。
そのくせ、セリーナに対してはこれっぽっちも躊躇がない。いつだってしたいように近づき、いつだってごく自然にセリーナに触れる。あまりに流れるような仕草でそれをやるから、てっきり誰にでも同じなのだと思っていたが……?
ぷすぷすと頭から湯気を出し、セリーナは沈黙する。そんな彼女に、ネッドは楽しげにゆらゆらと体を揺らした。
「いいじゃん、いいじゃんー。くっついちゃえばいいじゃんー。主って超絶抜けてるけど、顔はいいしさー。一応、三大ほにゃららとかで食い扶持は困らないしさー。旦那に選んでも、セリーナちゃんにはいいことしかないと思うよー?」
まるで近所の兄ちゃんを紹介するような気軽な口ぶりで、ネッドがヘラヘラと笑う。三大魔法使いに崇拝めいた感情を抱くスディール国のひとたちが聞いたら卒倒してしまいそうだ。
頬を押さえ、セリーナはぎゅっと目を閉じる。グレイフィールが、自分を好きでいてくれるなんて。本当だとしたら、どうしよう。
だが、その時、夢の中で見るグレイフィールの姿が頭に浮かんだ。途端、ボールから空気が抜けて萎むように、セリーナの気持ちはぷしゅりと沈んだ。
顔を覆っていた手を下ろし、セリーナは静かに目を伏せた。




