12.揺れる気持ちと、別れの言葉
それからしばらくの間、淡々と日々が過ぎた。
淡々と言っても、味気ない毎日だったわけではない。いつも通りリオにアレコレ教わり、時にネッドが加わり、時にグレイフィールが顔を出す。それなりに充実していて、それなりに楽しい。屋敷に来てからセリーナに約束された、穏やかな日々だ。
唯一変わったのはエルミナだ。これまで彼女は昼近くまでベッドの中で過ごし、起きてからは気ままな猫のように屋敷内をふらふらとしていた。けれども今はほとんど顔を見せず、部屋に籠っている。それだけではなく、時々森に出ている様子もある。
〝その景色を知っているのは、あの頃ハズレの森にいた者だけ。グレイフィールと私、そしてあの子だけしか……っ!〟
亡霊を見つけたかのようなエルミナの眼差しが、なかなか頭から離れない。
あの子。そうエルミナが称した人物は、いったい誰なのだろう。かつて、グレイフィールとエルミナ、ふたりの魔法使いと共にハズレの森にいたその人は、いまはどこへ行ってしまったのか。
なにより。
(どうしてグレイ様は、あんなに辛そうに……)
魔術書を棚に戻しながら、セリーナはひとり思考の海に沈んでいく。
エルミナの様子から、あの時セリーナが見た場所は実在するのだろう。だとすると、あの場所で見た光景――湖の畔で、ひとり慟哭するグレイフィールも、いつの日か本当に在った姿である可能性が高い。
ほんの一瞬だけどとらえた幻影の中、グレイフィールはひどく苦しげだった。見ているこちらまで、胸が締め付けられるようだった。
彼に何があったのか。何があそこまで、彼を苦しめたのか。
なにより。
(どうしてこれまで、きづかなかったのかしら)
形の良い眉をしかめ、セリーナは本棚の前に立ち尽くす。
深い後悔と苦しみに染まった声。嘆き、絶望に身をよじる姿。すべてを諦めた空虚な眼差し、零れ落ちる涙――。
そうだ。グレイフィールのあの姿を、自分は前から知っている。
そのとき、ふいに特徴的な嗄れ声が耳に飛び込んできた。
「腑抜ケルナ、人間! ソンナコトデハ、立派ナ魔術師ニナレナイゾ!」
ばさりと大きな羽音に次いで、肩にずしりと重いものが乗る。それがエルミナの使いガラスのハミルであると、セリーナはすぐに気づいた。
「ハミルさん、図書室でどうしたのですか?」
「当然! オ前ガ怠ケテナイカ見張リニ来タノダ!」
ばさばさと羽を揺らし、ハミルがえへんと胸を張る。それから、器用に羽をひろげて後方を指し示した。
「聞イテ喜ベ。オ師匠モ一緒ダゾ」
「っ!」
そちらを見て、セリーナは息を呑む。図書室の入り口にもたれ、エルミナがこちらを眺めている。
「やっほ〜、セリーナちゃん。少しいいかしら?」
セリーナと目が合うと、彼女はそう言ってひらりと手を振った。
「どーぉ? 魔術の練習は。コツはうまく掴めたかしら」
足を組んで寛いで座り、エルミナはのんびりと切り出す。こちらを見つめる紅い眼差しは以前のように気さくだ。まるで先日のことなどなかったような態度に、身構えていたセリーナは肩透かしをくらった。
拍子抜けしつつ、とりあえずセリーナは質問に答える。
「いえ……。あれから、リオさんに教わりながら何度も試しているのですが、一人ではまだうまく魔力を扱えなくて」
そうなのだ。グレイフィールのおかげで魔力の流れはやんわりと掴めたセリーナだが、自在に扱うとなるとやはり難しい。
魔術の発動方法は二つ。一つはテムトの村でやったように、先に陣を刻んで後から魔力を流す方法。もう一つは、グレイフィールやエルミナがやるように、詠唱、もしくは無言詠唱により、陣を起こすのと同時に魔術を発動させる方法。余談だが、詠唱ありより詠唱なしの方が、発動の難易度は格段に上がる。
その中でセリーナがいま練習しているのは、先に陣を刻んで後から魔力を流す方法だ。手引書をもとに自分で術式を組み立て、専用のインクで描き記す。そこに魔力を流す……というのを繰り返しているのだが、これがどうしてもうまくいかない。自分の中に流れるものがあるのはわかるのだが、うまく引き出すことが出来ないのだ。
セリーナの答えを聞くと、エルミナはあっけらかんと頷いた。
「やっぱり? そうよねぇ、他人のサポートがあるのとないのとじゃ、どうしても勝手が違うもの」
「そういうものなのですか? てっきり、自分に才能がないのかと……」
「あのねぇ。グレイフィールみたいな化け物は別として、初めはみんなそうなの。ていうか、初めてであれだけ花を咲かせることが出来たんだから、セリーナちゃんは十分出来がいい方なのよ〜? もっと自信をもちなさい!」
言いながら、エルミナは腰に下げている小さなポーチに手を伸ばす。外から見る何倍も中は広いらしい。腕まで中に突っ込んでゴソゴソと漁ってから、彼女は嬉しそうに何やら引っ張り出した。
「というわけで、じゃーん! セリーナちゃんにプレゼント〜」
「これは……?」
手渡されたのは、天球儀のようなものが付いたネックレスだ。よく見ると金具には細かく古代語が刻まれており、なんらかの術式がかけられているのがわかる。真ん中にはクリスタルがはめられていて、窓から差し込む光を受けてキラキラと輝くのがとても美しい。
「これはねぇ、魔導儀っていうの。駆け出し魔術師が魔力をコントロールするのを助ける道具よ」
セリーナの手の上の球体部分を指でつんとつついて、エルミナは微笑んだ。
「頼り過ぎも良くないんだけどね、初めはこれを身につけて魔術を練習したした方がコツが掴めやすいの。特にセリーナちゃんは一度に扱える魔力量が多めだから、これがあるといいと思うわ」
「そんな……いいんですか? いただいてしまって」
「やぁね、いいのよ! 気にしないで。うちの工房にごろごろあるし、仮に足りなくなってもすぐ作れちゃうから」
ひらりひらりと手を振って、エルミナが笑った。彼女の言葉に甘えてさっそく首から下げてみる。軽く握って瞼を閉じてみれば、たしかに少しだけ、ばらばらだった魔力が掴めそうな気がした。
目を開けて、セリーナは素直に微笑んだ。
「ありがとうございます。大切に使います」
「結構、結構」
いつかココアを作ってくれたときと同じように微笑んで、エルミナは頷く。それから彼女は、肘をついて少しだけ瞼を伏せた。
「私ね、そろそろ紅の渓谷に帰ろうと思うのよ。弟子たちのことも心配だし。それで、帰る前にセリーナちゃんにこの間のことを謝りたくて」
「っ! い、いえ、そんな」
何のことを言われているのかすぐにわかり、セリーナは慌てた。するとエルミナは、彼女らしくもなく困ったように首を振った。
「ううん! 本当に。あんな風に詰め寄ったりして、不安にさせちゃったわよね。ごめんね、反省してる」
そう言って、エルミナは頭を下げる。彼女の長いオレンジの髪が、図書室の机に零れ落ちる。それを眺めながら、セリーナは迷うように左右の手を重ね合わせる。
きゅっと手を握り、セリーナは思い切って口を開いた。
「……不思議な夢を、ときどき見るんです」
エルミナの肩がぴくりと動く。それでも沈黙を守る彼女に、セリーナはありがたく先を続けた。
「夢の中では、男の人が泣いています。その人はとても苦しそうで、見ているだけでつらくて。何かしてあげたいと思うんですけど、声を掛けることも、肩に触れることも出来なくて。……先日ようやくわかりました。夢の中で泣いているのは、グレイ様でした」
もう、生きて居たくない。湖の畔で、顔を覆いひとり呻く。夢の中で何度となく見たその姿は、幻影の中でみたグレイフィールとまったく同じだった。
「それだけじゃありません。幻影の中でみた景色――一面のすすき野原や、鏡のように美しい湖。あのような場所を、私は知りません。見たことも聞いたこともない。……なのに、なぜか懐かしい。懐かしくて、悲しく思えるのです」
エルミナがきゅっと唇を噛む。怯んでしまいそうになる自分を奮い立たせ、セリーナはついと視線をあげてエルミナを見据えた。
「教えてください。私は一体、何者なのでしょうか」
エルミナの瞳が揺れた。口を開いて、閉じて。しばらく逡巡した後、エルミナはゆっくりと首を振った。
「ごめんなさい。確信もないのに、曖昧なことは言えない。けど、」
そこでまた、エルミナは迷うように言葉を飲み込む。一拍後、ルビーのように輝く一対の紅い瞳でまっすぐにセリーナを見据え、エルミナは真剣な表情で告げた。
「もし、私の推測が合っているなら。そして、セリーナちゃんがあの子を特別に――師匠に向けるのとは違う意味で、慕っているのなら。二人は、一緒にいるべきじゃないのかもしれない」
視界が揺れ、息が詰まる。本人も気づかぬうちに、握りしめた手に爪が食い込んだ。セリーナが何も返せずにいると、エルミナががたりと椅子から立ち上がる。顔を上げた時、彼女は苦笑を浮かべていた。
「なぁんて。たぶん、私が心配しすぎなだけ。世の中、大抵のことはなんとかなるもの。一度濁流に身を呑まれたとしても、最後はまるっとあるべき場所に収まるものだわ」
机の上でうたた寝をしていたハミルが起きて、エルミナの肩によじ登る。使い魔がいつもの場所に収まるのを待って、エルミナはセリーナの肩にそっと手を添えた。
「けどもし、濁流に呑まれ溺れそうになったら。ここにいることが耐えられなくなったら。いつでも私のところにいらっしゃい。紅き渓谷の工房は、いつでもセリーナちゃんを歓迎するわ」
静かに、エルミナの手が離れる。
その日の夜。彼女は宣言通り、使い魔と共にハズレの森をあとにしたのだった。




