2.ハズレの森で目覚めました。(1)
これは夢だ。
どこか他人事のようにセリーナは思った。
〝……行かないで。……置いてかないで、……ア〟
聞こえるのは誰かの泣き声。決まって響くその声は悲しげで、涙の色に濡れている。
〝……いやだ……。………シン……ダメだ。どうして……。〟
なぜ泣いているの。どうして苦しいの。
慰めてやりたいのに、セリーナの声は潰れて出てこない。顔の見えない相手はもがき、苦しみ、痛みに身を捩らせた最後、ポツリと呟く。
〝……もう、嫌だ。耐えられない……〟
〝生きていたくない〟
長い睫毛に縁取られた目で、ゆっくりと瞬きをする。見知らぬ天井をぼんやりと眺め、セリーナはしばし横になっていた。
ちゅんちゅんと、小鳥の囀りが聞こえる。わずかに首を傾ければ、誰かが開けてくれた窓と、澄んだ朝の風に揺れる白いカーテンが見えた。
(また、この夢……)
まだぼんやりと霞む頭で、セリーナはそのように嘆息した。
今しがたの夢は、セリーナが時々見るものだ。夢の中では、顔の見えない誰かが苦しげに嗚咽を漏らしている。
その誰かはとても悲しそうで、眺めているセリーナの胸も苦しくなる。けれどもセリーナの声は相手には届かず、慰めることも、肩を抱いてやることもできない。そんな夢。
もぞりと、柔らかない羽掛けのしたでセリーナは身じろぎをする。彼女の灰色がかった銀髪が、白いシーツの上でこすれた。
そういえば、ここはどこだろう。昨夜は確か、第一王子ステファンと聖女マリナの結婚の儀に参列し、それから――。
考えながら身を起こした彼女は、部屋の隅に控える静かな気配に、びくりと肩を揺らした。
「お目覚めですか、セリーナ様」
セリーナと目が合うと、その者は隙のない仕草でついとスカートの裾を持ち上げた。
「私はリオ。グレイフィール様に仕える従者です。主より、セリーナ様の身の回りのお世話をするよう申し遣わされております。以後、お見知り置きを」
スディール国の第一王子ステファンと、異世界の聖女マリナの結婚を祝うパーティ。ステファンの元婚約者セリーナは、そこに突如として現れたグレイフィールに囁かれ、手を取ってパーティを抜け出した。
言われた通りに目を閉じたセリーナが、次に目を開いた時、グレイフィールと共に見たこともない景色の中にいた。
「ここは……?」
「ハズレの森。君たちが、そう呼ぶ場所」
こぼれ落ちた独り言に、グレイフィールが答える。……グレイフィール、でいいのだろうか。今更にセリーナは、伝説の魔法使いと二人きりというこの状況に、不安を覚えた。
「あの、グレイフィール様……」
「グレイでいいよ」
戸惑いながら見上げると、そのように返された。どうやらグレイフィールの方には、セリーナと積極的に言葉を交わす意思があるらしい。
だからといってセリーナの緊張が解けるわけでもない。なにせ相手は、数百年の時を生きる賢人なのだ。寝物語に登場するような偉人を突然前にして、萎縮するなというほうが無理だろう。
すると、グレイフィールはふと表情を緩めた。わかりづらいが、笑みを浮かべたらしい。微かな変化なのに、それだけで秀麗な面差しはますます美しくなり、思わずセリーナは目を奪われた。
「君の気持ちはわかる。色々と聞きたいことがあるだろう。けれども、それはまた今度。君はまず、休息をとる必要がある」
「っ!」
白く長い指で、セリーナの額をグレイフィールがつつく。途端、ふわりと体が浮くような心地がして、セリーナは急速な眠気を覚えた。
瞼が落ちる刹那、美しい魔法使いは月明かりを受けて微笑んだ。
「おやすみ、眠り姫。夢の中で君に、精霊の祝福がありますように」
――それで、起きたら朝と言うわけだ。
グレイフィールが何か魔法をかけたのかもしれない。婚約解消を言い渡されてからというものの、情けなさと不甲斐なさでろくに眠れてこなかったセリーナだが、それらが嘘のように体はすっきりしていた。もっとも、夢見のせいで爽やかな朝とはいかなかったが。
「セリーナ様は、食の好みはありますでしょうか。好んで食されるもの、もしくは不得手とされているもの」
つるりと殻の剥かれたゆで卵に、冷製のポタージュ。新鮮な野菜のサラダと、ライ麦のパン、搾りたてのフルーツジュース。
それらをあっという間に並べて、リオは確かめるようにセリーナを見る。
余談ではあるが、セリーナはいつの間にか昨晩着ていたパーティドレスではなく、すとんとした造りの寝間着に変わっていた。眠ってしまった後の記憶がないので何とも言えないが、リオが着替えさせてくれた……と信じたい。
「今朝は私の方で手配をさせていただきましたが、何か不得手とされるものがありましたらすぐにおっしゃってください。至急別のものを用意させます」
「……ありがとうございます」
なんと答えてよいか分からず、セリーナは曖昧に頷く。とりあえず何かを口にしなければ。使命感からフルーツに手を伸ばしかけて……どうしても気が進まず、手を下ろした。
愛想はないが、優秀な従者なのだろう。客人の胸中を慮ってか、口をつけようともしないセリーナに少しも嫌な顔を向けることなく、それどころか慰めるように声を掛けた。
「ここはグレイフィール様のお屋敷です。グレイフィール様より、セリーナ様が何不自由なく過ごせるように、最大限の礼節をもってもてなすよう言われております。気後れする必要はありません。希望がありましたら、なんなりと仰ってください」
「……ハズレの森の中に、お屋敷が?」
「はい」
簡潔に頷いて、リオは窓の外に視線をやる。つられてセリーナもそちらを見れば、張り巡らせされた塀の向こうで木々が揺れているのが見えた。
「生憎、主は所用につき、セリーナ様のお目覚め前に森へ向かわれました。ですが、屋敷の中であれば自由に使って待っていて欲しいと、言伝を預かっております」
自由。その言葉に、セリーナはぴくりと肩を揺らした。
反芻しようとして、胸がざわつくのを感じた。淡いラベンダー色の瞳を悲しげに伏せるセリーナに、リオは繰り返す。
「お申しつけください、セリーナ様。貴女の、心赴くままに」