9.雨の図書室と、昔話
〝お願いです、セリーナ様。グレイフィールを、……私たちの主を、助けてください〟
図書室の窓を、雨滴が伝う。それをぼんやりと眺め、セリーナはゆっくり瞬きをした。
グレイフィールの秘密を知ってから3日が経った。その間、セリーナはグレイフィールを救う術を考え続けていたが、方法はいまだ何も思いついていない。
そもそも何をもって彼を救ったことになるのか。その答えすら見つかっていなかった。
グレイフィールは不老不死であり、それを嘆いている。彼は、自分をそんな体にしたカノアを探しており、元の身体に戻って命を絶ちたがっている。エルミナとリオ、ふたりの話を総合するとそういうことだ。
だが、セリーナはグレイフィールに命を絶ってほしくなどない。少なくとも、死ぬために生きていくような――カノアを見つけ命を絶つのが唯一の救いとなるような、そんな辛い生き方をしてほしくはない。
だが、どうすればいいのだろう。リオはセリーナがグレイフィールの救いになっていると言ってくれたが、自分には思い当たる節がない。
グレイフィールがかつて犯してしまったという禁忌について、事情を知っていそうなのはエルミナだ。けれども彼女は先日話してくれた以上のことは教えるつもりはなさそうだし、グレイフィールとセリーナを繋ぐものについては何も知らなそうだ。
羽ペンの羽を指でなぞり、セリーナはため息を吐いた。
セリーナの前にあるのは基本的な魔術陣が載せられた魔術書。弟子入りした見習い魔術師たちは最初に必ずこれに目を通し、魔術の基本を学ぶのだという。
リオに教わったおかげで、古代文字の読み書きは問題ない。あとはひとつひとつ陣の仕組みを紐解き、法則性を理解できればぐっと魔術師への道に近づくというが……。
周囲に目がないことを確かめて、セリーナはうんと伸びをした。1時間ほど魔術書と睨めっこをして、進んだのはわずか1ページ。仕方がない。なにせ頭の中はグレイフィールのことでいっぱいなのだ。
諦めて少し散歩でもしてみようか。といって、雨のせいで外には出られないし。そんな風に、なんとなしにもう一度窓に目を向けた時だった。
「浮かない顔だね、お弟子さん。何か困り事でもあるのかな」
声と共に、地面から煙のように影が立ち上る。それはすぐに人の形となり、中からグレイフィールが現れた。
図書室の机にもたれかかり自分を見下ろす彼の姿に、セリーナはどきりと胸の鼓動が跳ねた。すべてを優しく見透かしてしまいそうな金色の瞳に動揺しつつ、セリーナは問いかける。
「グレイ様! 森に出られたのではなかったのですか?」
「雨だからね。テムトの村に顔だけ出して、すぐに戻ってきた」
答えながら、グレイフィールは小首を傾げる。青みがかった黒髪が、さらりと白い肌を滑った。
「それで? 君はどうしたの。何か悩み事?」
「い、いえ……」
言い淀んで、目を逸らす。悩みはもちろんあるのだが、まさか「悩みの種はあなたです、お師匠さま」などと馬鹿正直に答えるわけにもいかない。
少し迷って、セリーナは魔術書を指し示した。
「朝からこれを読んでいるのですが、なかなか頭に入ってこないのです」
「これは……魔術入門か。懐かしいね。僕も昔読んだ」
本に目を留めた彼は、微かに表情を緩めてそれを取り上げる。ぱらり、ぱらりと乾いた紙をめくる音が響く。しばらく興味深げに本を眺めていた彼だったが、ややあってセリーナの向かいの席に腰掛けた。
「なるほど。そういうことなら、僕が教えよう」
「グレイ様がですか?」
思わずセリーナは聞き返した。グレイフィールの弟子として置いてもらっているセリーナだが、実際に教えてくれるのはリオがほとんど。森に一緒に出る以外は、彼からはこれといって学んだことがない。
するとグレイフィールは、穏やかに目を細めた。
「僕が師匠で、君は弟子だ。師匠が弟子を教えるのに、何か不思議なことがある?」
琥珀色の瞳が、優しく自分を見守っている。それだけで、体がふわふわと浮かぶように幸せを感じた。
ああ、どうしよう。やっぱり自分は、何かおかしい。脈絡なくどきどきしたり、彼がキラキラして見えたり。……いや、セリーナの目と関係なく、グレイフィールはキラキラと輝いているけども。こんなにしょっちゅう不整脈になるのは、情緒不安定にもほどがある。
(……今度リオさんに教わって、心の臓に効く薬を調合した方がいいのかしら……?)
いい加減心配になって、ちらりとそんなことを考える。万が一倒れてしまって、グレイフィールに迷惑をかけたりしたら大変だ。と、そこで、セリーナはグレイフィールを待たせたままなことに気づいた。
相変わらず、美しい瞳に穏やかな色を乗せて、グレイフィールはこちらを見つめている。そのことに動揺して、言わなくてもいい余計なことを口走ってしまう。
「え、エルミナ様が、グレイ様は天才なので、ひとに教えるのは得意でないと仰っていました」
「ひどいな。かねがね彼女の見立ては正しいけれど」
白い指の先で本を弄びながら、彼はのんびりと頬杖をついた。
「僕だって人に教わったことぐらいある。その時のことを思い出せば、君を導けるはずだ」
「それって、グレイ様がエルミナ様のもとで修業されていたときのことですか?」
「エルミナめ。勝手にいろいろ喋ったな」
なんとなく面白くなさそうに、グレイフィールが唇を尖らせる。それから、気を取り直したように彼は身を乗り出した。
「そう。僕が紅き渓谷で、見習い魔術師として習っていたときのことだ。彼女からだけじゃない。兄弟子や、姉弟子からも色々と教わった。……もっとも、上の弟子たちよりも、僕の方がよっぽど優秀な魔術師だったけれど」
ほんの少し得意げに、グレイフィールは微笑んだ。事実、彼はずば抜けて優秀だったのだろうと、セリーナも思う。
「上の子らは僕をひがんだものだ。――筆頭はすぐ上の姉弟子だよ。彼女とはたくさん喧嘩したし、時には意地悪もされた。けれども、悪い思い出ばかりじゃない。むしろその逆だ」
幸せだったよ。そう付け足したグレイフィールは、ふと顔を上げて苦笑をした。
「どうして君が泣くんだい」
「……え?」
驚いて目元に手をやると、指先が涙で濡れた。本当だ。自分でも気が付かぬうちに、セリーナは泣いていたらしい。
「どう、して……」
戸惑うのに、涙はつぎつぎに浮かんで頬を滑り落ちる。どうしてだろう。まるで自分の身体ではないようだ。――いいや、逆なのかもしれない。自分では気づけない心の奥底に眠る何かが、声を殺して泣いている。
耳を傾けて、彼女は気づいた。
自分は悲しくて泣いたのではない。懐かしくて泣いたのだ。
(懐かしい? 私は、何を……)
「セリーナ」
声に引き寄せられ顔を上げると、グレイフィールの長い指がセリーナの目元を拭った。すると、あれほどさざめいていた心の内が、瞬く間に凪いで落ち着いた。
「グレイ様……?」
答えを求めて見つめるセリーナに、グレイフィールはなんとも言えない笑みを向ける。けれども彼は何も答えず、かわりに窓の外に目を向けた。
「ご覧。雨が上がった」
雨に濡れた窓を、木漏れ日が照らしている。いつの間に。驚くセリーナに、グレイフィールは本を差し出した。
「魔術レッスンを始めよう。雨上がりは幸先がいいんだ」