2.新しい居場所と、幸せな時間
「お帰りなさい、グレイ様」
温室で薬草を摘んでいたセリーナは、入り口に姿を見せたグレイフィールに気づいて立ち上がった。顔色は以前に比べずっと良く、表情も明るい。そのため、彼女自身にその自覚はなかったが、固い蕾が綻び花開くようにセリーナはぐっと美しさを増している。
そんな彼女の出迎えに、グレイフィールも表情を緩める。長いローブをふわりと風に広げながら歩いてくる彼に、セリーナは隣のリオに倣ってぺこりと頭を下げる。
「早かったんですね。ネッドからは、グレイ様のお戻りは夕方頃になるかもと聞いておりましたが」
「大した用じゃなかったから早く切り上げてきた。用事はちゃんと済ませたよ」
答えながら、グレイフィールがフードを脱ぐ。そのままポテポテと寄ってきた彼は、ぽすんとセリーナの肩に顔を埋めた。
「ぐ、グレイ様……?」
「疲れた。少し、休憩させて」
同じ姿勢のまま、もごもごとグレイフィールが話す。白い頬を染め、助けを求めてリオを見る。けれども彼女は、好きにさせてやれと言わんばかりに首を振った。
恋愛経験および、男女の仲に非常に疎いセリーナにとっては驚くべきことだが、これがグレイフィールの通常運行なのだ。
たぶん、身長差的にちょうどいいのだろう。疲れた時などに、彼はときどきこんな風にくっつきに来る。初めはセリーナも驚き抵抗したのだが、「弟子は師匠に肩を貸すものだよ」と言われ丸め込まれてしまった。本当にそうなのか、ちょっぴり今でも疑っている。
(グレイ様って、ときどきネコみたい)
決して口に出せないことをこっそりと思う。気まぐれで行動が読めず、ふらりと出掛けたと思えば、気づけばこうやってそばにいる。その様は、昔数日間だけ部屋で飼っていた黒猫そっくりだ。今日も朝から出掛けていたようだが、一体どこで何をしていたんだろう。
そんな風に思っていると、ふいにグレイフィールが顔を上げた。
「ライムリリーと、レモンミントの香り。それから、この甘い香りは……」
「リオロープです。今朝、花が開きました」
手に持ったカゴを見せて、セリーナは報告する。その声が、ちょっぴり弾んでしまうのはご愛嬌だ。
「これより、リオと一緒に調合をいたします」
魔法使いは偉大である。
一瞬で体内に魔力を生み出し、息をするように滑らかに術式を組み上げ、放つことができる。それこそ魔法使いが魔術師とは一線を画して分類される理由だ。
中でも三大魔法使いは、生み出す魔力量も組み立てる術式の複雑さも桁違いだ。特にグレイフィールは格別で、人間というよりはむしろ精霊に近い存在とまで言われている。
その反動だろうか。丁寧に手間暇かけて行うタイプの魔術――具体的には魔法薬の調合などが、彼は好きではないらしい。
「器用なものだね」
感心したようにグレイフィールが呟く。彼にしげしげと手元を覗き込まれながら、セリーナはすり鉢を擦る手を止めた。
「ここで、リオロープの蜜を3滴入れます」
リオの説明に従い、セリーナはぴったり3滴、糖蜜色の液をすり鉢の中に落とす。すると、一瞬小さな蝶が舞うかのように、キラキラとした粉がすり鉢のなかを舞った。
「あとは太陽の光を浴びながら、右に三度、左に四度練るように混ぜて……はい、完成です。さっそくスプーン一杯をここに入れてください。試してみましょう」
ボールの中に出来上がった妙薬を入れ、沸かした湯を注いで溶かす。完全に溶けてトロミのある液体になったところで完成だ。
「それでは……」
「いただきます」
セリーナとグレイフィールの声が重なる。恐る恐るスプーンを口に運んだセリーナは、ふわりと広がった花の香りに顔を綻ばせた。
「飲みやすい。優しい甘さだ」
グレイフィールも気に入ったのか、ぱちくりと瞬きをしてセリーナを見る。それにはにかんで、セリーナは答える。
「薬草をブレンドした特製の胃腸薬です。食あたりなど、あらゆる不調に効くよう調合しました」
「甘いのはリオロープの蜜のおかげです。元のレシピのままではライムリリーの香りが強いので、効能を阻害しない中で香りの良いリオロープを混ぜました。すべてセリーナ様のアイディアです」
まるで自分のことのように誇らしげに、リオが胸を張る。それにすっかり恐縮して、セリーナは慌てて首を振った。
「い、いえ……。私はただ、何かよい香りのものを混ぜたらどうでしょうと、リオに尋ねただけですから……」
そんなやり取りをグレイフィールが楽しげに見守っていることに、照れるセリーナは気づかなかった。
――セリーナがグレイフィールの屋敷に住み始めて早ひと月。彼女はグレイフィールの弟子として、魔法薬の調合や呪術に使うことの多い古代文字の練習など、魔術の練習をして過ごしている。
これまで魔術のまの字も触れてこなかったセリーナだが、新しい学びは楽しく、肌に合った。元は公爵家令嬢にして王太子の婚約者。コツコツと地道に努力することが得意なのだ。そういう性分は、魔術と相性がいい。
少しずつ、それでも確実に新しい何かが出来るようになっていく毎日は、ひどくやりがいがある。特に魔法薬については、手先の器用なセリーナは、リオとネッドから大いに喜ばれた。
これまでも彼らは、調合した魔法薬を人里で売って生活の足しにしてきたらしい。だが、肝心のグレイフィールが魔法薬の調合を好きでなく、さらには人形であるリオとネッドは味覚がわからない。そのため、時たま効力はピカイチだがとんでもないゲテモノを生み出してしまったり苦労していたそうだ。
「いや〜、セリーナちゃんが来てくれて助かった! グレイ様と違って仕事が丁寧だし、味覚も繊細だし!」
「まったくです。スプーン一杯入れるはずが大ボール一杯ほどを適当に入れたり、時間をかけて煮詰めるところを炎の魔術で蒸し焼きにしたり。そういう大雑把を、セリーナ様はなさりませんし」
「失敬な。僕はそこまで大雑把じゃない」
ムッとしたように、グレイフィールが眉根を寄せる。だが、それがよくなかった。従者二人がすかさず猛反撃に出た。
「あっれあれ~!? 調合ミスって部屋吹っ飛ばして、がれきの山の真ん中でしょんぼり項垂れていたのはどこのどちらさんだっけ~!?」
「それをいうなら、伝説の『無限ヘドロ事件』も忘れ難いですねえ。回復薬を作るはずが、腐臭たっぷりのねばねばが鉄鍋から三日三晩湧き続けた悪夢……。何を混ぜたらああなるのか、ぜひ当事者にお話を伺いたいところですが」
「助けて。二人が僕を虐める」
旗色が悪いと察したのだろう。ひょろりと背高の体を縮めて、グレイフィールがセリーナの影に隠れる。どうやら、グレイフィールの調合下手は筋金入りらしい。
とはいえ、三大魔法使いのひとりであるグレイフィールと自分を比べるなんて、さすがにおこがましい。おろおろと手を振って、セリーナは否定した。
「あ……あの、本当に……。私はただ、リオに教えてもらった通りにしているだけですから」
「いやいやいやいや」
謙遜した途端、二人にものすごい勢いで首を振られた。
「実際、セリーナちゃんが来てから薬の評判いいんだって! 作ってくれた分まわしたらさ、すぐに『こないだと同じ質でまた作って欲しい』って連絡がきたりさ」
「魔法薬の調合は、繊細な技能と精神が求められます。完成させるだけで難しいのに、さらには質を高めるとなると……。それがきちんと出来るあなたは、もっと自分を誇るべきです」
ネッドに次いで、隣でリオも腕を組む。――そんなやりとりが、なんだか無性に嬉しく、むず痒い。出来て当然、やるなら完璧に。生まれてこの方、そのように育てられてきたセリーナは、他人に褒められ慣れてないのだ。
どう反応すべきはセリーナが口ごもっていると、頭にぽんと手を乗せられた。
手の主は、案の定グレイフィールだ。
「二人の言葉、素直に聞けばいいと思う。嬉しかったら、笑顔を返せばいい」
「!」
細められた黄金色の瞳は優しく、響く声は甘い。とくんと胸が跳ねて、セリーナは慌てて目を逸らした。すると、目を逸らした先で、リオとネッドも同意するように大きく頷く。
(本当に、この方たちは……)
胸が熱くなるのを感じて、セリーナはきゅっとスカートを握った。つんと鼻の奥が痛むのは、なんとか我慢をした。嬉しくても涙は流れるものだが、優しさには笑顔で応えたい。
そう思えるほど大きなものを、彼にもらったから。
「――はい。よくできました」
セリーナを覗き込んで、グレイフィールが頭を撫でてくれる。
あなたのおかげですよ、と。セリーナは心の内で答えた。