家庭人
私は、一般的な家事ができる。家事とはなかなかに奥が深いものだから、究めるにはまだ長い時間がかかりそうだが、土曜日の今日は出勤する妻と部活に向かう娘、野球の練習試合に参加する息子に弁当を作った。同時に朝食の用意も整え、食後には掃除機をかけている間に洗濯機を回して。一つ一つの事柄に個別に取り組むのでは時間が足りない。複数の作業を同時進行ですすめる手際に、初めの頃は思わぬ難しさを感じた。かつて妻は幼く手のかかる二人の子供の面倒を見ながら、今日の私と同等の仕事量を、年に一度の休みもなくこなしていたのだと思い至り、今さらながらに尊敬の念を抱く。仕事内容が違うのだから比べようもないけれど、会社勤めの方が実のところ簡単かもしれない。実際、会社勤めをし始め、愚痴もこぼさずいきいきと働く妻を見て、そう思う。
結婚当初から、家事を手伝っていたわけではない。家庭を顧みず、家事をする労力を見くびって…見下していた。その代わり仕事には手を抜かず、だから出世も収入もそれなりに、専業主婦の妻子を養えるだけはあったと思う。その「それなり」の地位を社内で勝ち取るために、家族との時間は犠牲になった。闘争心をむき出しに歯を食いしばった日々も過ごした。抜きつ抜かれつの環境下、おそらく何人もの同僚や後輩や、時には先輩までをも蹴散らしたことも否めない。沸騰しかねない熱さの瞬発力を保って気持ちを張りつめていられたのは、若さのせいもあったと思う。
昔みたいには無理が効かなくなり老眼を意識し出したり関節が痛み出したりといった、健康上の取るに足らない小さな変化に伴って、闘争本能は勢いをなくし、代わりに心が丸くなり視点は高まった。40代も後半になって、今までのがむしゃらな努力に相応の肩書がついた。社内での自分の立ち位置、役割に関しても改めて思いが至る。ただ猛進するばかりではいられない立場に置かれた。部署を一つのチームとしてさらに強化するために、弱点強化に回りバランスを図りつつ舵の微調整をして、目指す進路から軌道が反れないように監視していかなければならない。血気盛んで力自慢の若い船員をうまいこと鼓舞させ束ね上げる、経験豊富な老船長のように。密かなる意識のマイナーチェンジを遂行していた私は、不意の病に倒れた。心筋梗塞だった。
手術と闘病の後、仕事復帰に際して、医師からの指示で仕事時間の大幅な削減を迫られた。営業部から今の部署に移り、早出残業休日出勤は免除。残業手当分の収入は丸ごと減った。下の子も小学生になっていたから、状況に対応すべく妻はパートに出はじめた。結婚以来ずっと専業主婦をしていたのが、ほどなくして正社員へと登用されるほどにがんばっていたから、必然的に家事負担は私にも回ってきた。
洗濯機の回し方が、分からない。妻は仕事で不在。仕方なしに子供から教わる。「お父さんはこんな基本的なことも知らなかったの?」口にこそ出さないが、必要最小限の手順を口早に説明し、去っていった娘の目はそう語っていた。思春期を迎えかけの娘の観察力に、下手なごまかしは効かない。息子の方はまだ無邪気だ。まとわりつきつつ、興味深そうに私の手順を観察する。
「あのさ、お父さん、洗剤入れてないよ。大学ってすごく難しいって聞いたけど、洗濯機を知らなくても大丈夫だったの?」邪気がないゆえに遠慮も知らない小学校低学年の息子の言葉は、時に鋭すぎるクリティカルヒットとなって真実を突く。
夏休みは子供と3人で過ごす時間も多かった。母親が今まで難なくこなしていた家事に、手間取った上に失敗することが多かった私は、子供から不審の目で見られた。が同時に、妻が子供たちに常日頃「お父さんはたくさん勉強して今の職に就き、会社に入ってからもたゆまず努力を続けたから、会社内で高い地位を維持している」だの「お父さんが働いてくれるからお金を得られ、家族が不自由なく生活してゆける」だのと伝えていてくれた事実を、息子との会話の中で知った。家事が思っていたより重労働なことも知った。妻のことを、私はもっと労わっておくべきだった。
後悔しても過去は変えられないから、今できることは何か。できそうならとりあえず挑戦してみた。はじめて弁当を作ってみたら娘に「ほうれん草に味付けがなかった。それに、時間をかけてたから豪華弁当を期待してたのに、おかずが3品だけしか入っていなかった」と苦情を言われた。でも苦情を言ってくれるまでに心が開きかけたのが、嬉しかった。思春期女子とお父さんの関係は難しく、今までの接点が希薄だっただけになかなか打ち解けてくれないだろうと長期戦を覚悟していたのだけれど。今では「お父さんの作るササミチーズカツが、私の一番の大好物。今度作り方教えてね」と、娘は空の弁当箱とともに屈託ないまっすぐの笑顔をくれる。本音で話をして時には意見の衝突もし、でもいつの間にか仲直りできる関係が築けた。
娘との会話で知った若者の趣味嗜好は、職場でも役立ち。話せるオジサンとして相談事を持ちかけられたりもし、若い子に混じって談笑しながら食事する私の姿は、社内食堂でたまたま会ったかつての同僚を驚かせたりもした。そりゃあ驚くだろう、今なお闘争心を奮い立てて仕事を続けているあいつなら。そして、かつての私なら。昔から知っている相手でもあるから、彼の価値観も分かる。私は病気になってから、方針転換をせざるを得なかった。今までの価値観は、ほぼ180度ひっくり返った。どっちがいいとかの選択ではなく、それしかないという一択だったから、その道を歩んだだけ。病気をする前の私にとったら、考えられないような生活だ。娘だとしてもおかしくはない歳の女の子達とも冗談を言い合え、実の父のように慕ってもらえて、年代の垣根なく仲がいい。なんて温かい職場環境だろう。抜きつ抜かれつの猛スピードで進む爽快感もいいが、穏やかな速度の充足感もまた格別だ。どちらかというと、和気あいあいとしたこっちの方が好きだと思うのは、まさに隠居老人の心境だなと一人笑いをしてしまう。
一度心筋梗塞を患った者には、常に再発のリスクがつきまとう。
その日は朝から暑く、蝉の声がにぎやかだった。いつも通りに食事の支度は妻が、後片付けは子供たちが行い、私は洗濯物を干してから出勤した。薬も飲み忘れていない。午前の仕事を済ませ食堂へと向かいかけた歩行中、突然の胸痛に立ってさえいられず、思わずその場にうずくまってしまったところまでは、覚えている。
次に目を覚ましたのは、…どこかの病室。心配し憔悴した顔の家族が揃っている。かつても経験があるが何度も体験したくはない、発作後の一連できごとの再生。ただひとつ前回と違うのは、見える風景が俯瞰だということ。ベッドに横たわる自分の姿をも、見下ろせる。
ああ、そういうことなのか。聞いてはいたが、体験するのはもちろん初めてだ。意外とあっさり来たもんだな。
できることなら、娘の花嫁姿を見たかった。成人した息子と酒を酌み交わし、人生観を語り合ってみたかった。老いた妻と互いに支え合うように暮らしながら、俺たちの生き方は間違っていなかったなと二人の生き様を懐かしく振り返りたかった。それが叶わないのならせめて、残された最後の時間を家族と過ごし、妻になってくれて、私の娘・息子として生まれてくれてありがとうと、感謝の気持ちを伝えたかった。
心残りを数え上げたら、キリがないけれど。それでも総じて幸せな人生だった。
大病をしたことは、人生の躓きかもしれないが、それが不幸なことだとは思わない。躓いたからこそ、視点が変わった。視点を変えて学びがあり、心豊かに過ごせた。失ったものもあるけれど、得たものの方が多い。
充足感のある暮らしの果ての、100点満点とはいかないまでも充分に幸せな最期。惜しんでもらえる幕引き。それを手にできた私は幸せだった。我ながら、いい人生を送ったな。ありがとう、お前たち家族のおかげだよ。
アラフィフという年齢で、急に会社人間から主夫になる。ここまでの転身は実際可能なのかな?と疑問に思いながら、書きました。
凝り固まった考え方を覆す柔軟性や環境適応力って、歳とともに失われがちなものだと思うのですが、こんな風にいつまでも新たな分野に挑戦する気持ちを失わずに生きていたいと思う、私です。
頑固ばあさんになって新たな世界を自らシャットアウトしてしまうのは、もったいないことですからね。