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おやすみ、子守歌はまた明日

作者: 十浦 圭

twitter上の創作企画、空想の街(http://www4.atwiki.jp/fancytwon)の参加作品「孔雀荘へようこそ」のスピンオフです。

本編を読まなくても内容は分かるようにはなっています。

以下、彼らの登場するお話一覧。


1作目「孔雀荘へようこそ」:https://togetter.com/li/688106

2作目「木下闇」:http://ncode.syosetu.com/n0959cl/

3作目「孔雀荘へようこそ」:https://togetter.com/li/1080035


 窓を開くと、さあっと風が部屋に吹きわたった。波音が鼓膜を撫でる。夜空は晴れ渡り、潮の匂いが鼻孔をくすぐる。いい夜だ。頬を撫でる風が心地よくて、雫は目を細めた。

 この屋敷は海沿いの崖の上に建っている。雫の泊まっている部屋は海側で、窓を開けばすぐ眼前に海が広がる。まんまるな月が海に光の道を作っているのをぼうっと眺めるうち、ふと、雫は波間にきらりと光る何かを見つけた。月光を反射してちらちら瞬く光は、屋敷を目指すかのように水面を徐々にこちらへと近づいてきていて。

「ヨウ」

 思わず漏れた声もそのままに、雫は窓を閉めると、急いで踵を返した。



 海辺のその街は、特産の果実と崖から見る海の景色が売りではあったが、どこにでもある、田舎の小さな街にすぎない。古くからこの街を守り続けてきたという街主の屋敷も、そう大層なものではない。雫が客室である自室を出て、ゆるやかな下り坂を辿り、海岸へと降りるまで、そう長い時間はかからなかった。

 秋の潮風は少し冷たい。紫紺の髪をなぶるそれに目を細めて、雫は海辺に視線を走らせる。すぐに求めていた人影を見つけて、口の端が笑みに綻んだ。

「ヨウ」

 岩肌に腰かける彼女が振り向く。深緑色の長い髪はしとどに濡れ、白い背中に貼りついている。人間ならくるぶし辺りだろうか、岩に腰かけて水面スレスレにふらふらと揺れる尾びれの鱗が、月光にきらきらと輝いて。

 そこにいるのは人魚の少女だった。華奢な体が満月の光を浴びてほっそりと影を生み出している。茫洋と夜の海を彷徨っていた瞳が、振り向くと同時にくるりと雫をとらえる。海より深いエメラルドの輝き。時折金色に澄む美しい二つの瞳。

「シヅク」

「どうしたの、こんな時間に」

 ヨウの発音する「ズ」の音は、いつも少し舌足らずだ。そう珍しくもない散々聞き慣れた自分の名が、妙に特別に思えるのはそのせいだろうか。

 込み上げる笑みを堪えて、飛沫がかからないように注意しながら雫はヨウの座る岩に飛び移った。そのまま隣に腰を下ろす。なるべく乾いた場所を選んだつもりだったが、やはり濡れていたのだろう、じわりと冷たく湿ってゆくズボンに顔をしかめる雫を、ヨウがあどけなく見つめる。

「こんな時間って?」

「人間は普通夜に眠るものだよ。人魚は違う?」

「にんぎょは夜にねむるわ。魚は夜にねむるし、鳥も夜にねむる」

「なら、君も夜に眠るんだろ? 僕はそう思っていた。いつもはまだ眠らない?」

 雫の言葉にぱしぱしと瞬いて、ヨウが瞳を伏せる。表情の乏しい少女の感情はそこからは読み取れない。けれど雫はこの数か月で代わりにヨウの動作からそれを気付くことが出来るようになっていて、だから、それがちょっと憂いを含んだものだと分かった。

「いやなの」

 波音にまぎれて少女がそっと告白する。

「何が?」

 雫も、そっと尋ねた。

「わからない」

「何が嫌なのか分からない? どう言えばいいか分からない?」

「それもわからない」

 唐突に、冷たい指がひたりと雫の手首に触れた。あついね、とヨウが言った。人魚の身体はいつだって冷たい。以前、切り傷を作った時にヨウの手から流れた血も、一見人間のそれにそっくりなのに温度だけが冷たくて、雫は驚いた。それ以来、自分の体温がヨウを傷つけるのではないかと心配で、雫はおいそれと彼女に触れることが出来なくなった。結局、それを補うようにそれまでそんな素振りのなかったヨウから雫への接触が増えただけで、触れあう回数自体は変わっていないのだが。

 ヨウはいつも控えめに雫に触れる。控えめという自覚も、もしかしたらそういう概念すら持たないだろうヨウのその仕草が、けれど雫にはいつも可愛くてしょうがない。

 やわらかな指先をゆるく握り返す。

「ねむるのがいや」

 ぽつりとヨウが呟く。真っ暗な沖を見る眼差しは遠く、まるで途方に暮れた迷子のように雫には見える。

「眠るのが嫌? 夢が嫌?」

「ゆめ?」

「眠る時のもう一つの世界。前に言っただろ?」

「もうひとつの海。ウユラカナタ」

「そう。そこが怖い?」

「わからない」

「ヨウは何にも分からないんだな」

 数週間前に言われた言葉を真似て雫が笑う。シヅクはなんにも知らないね、あどけない様子で言われたそれを案外自分は根に持っていたらしい。大きな声ではない、けれど無人の海岸に少し響いた明るい笑い声に、ヨウがムッと薄い眉をよせる。

「それでいいって言った。シヅクが言った」

「わからなくていいって?」

「言ったわ。わたしも言った。おしえてあげるって」

 わからないこと、おしえてあげる。

 ふいに、雫の耳に澄んだ声がリフレインする。今夜みたいな満月とは真逆の、新月の夜。スケッチブックを持って呆然と立ち尽くす人間の青年と、美しい目を見張って驚く人魚の少女。

 どうやって生きていけばいいか分からないんだ、そんな言葉を思わず溢してしまったのはいつの夜だっただろうか。じゃあおしえてあげる。そうヨウが答えたあの夜は。分かるまで教えてくれるの? そう聞いた雫に、おかしそうに、初めてヨウが笑ったあの夜は。

 シヅクがわたしに声をおしえてくれたように、わたしもシヅクにおしえてあげる。

 生きること、おしえてあげる。

 雫がヨウという人魚の少女を、心底から愛しいと思ったあの夜は。

 ざぶん、と足元で波が弾ける。ひやりと冷えた裾に我に返って、雫はゆっくりと繋いでいた手をほどいた。ぬるくなってしまったヨウの指先を岩肌に下ろして、その頬をそっと拭う。

「そうだった。教え合おうって、約束したんだった」

「シヅクのあほんだら」

「待って、僕そんな言葉教えたか?」

「知らない。でもわたしはこの言葉を知ってるわ」

「忘れた方がいい」

 なんだか脱力して笑って、雫は夜空を見上げる。月は頂点からもう少し傾いてしまった。正確な時刻は分からないまでも、随分夜が深くなってしまったのは間違いないだろう。ヨウなら季節と夜空だけで、今から夜明けまで何時間かかるか正確に分かるだろうか。

 けれどそれは尋ねずに雫は黙って笑みを落とす。

「今日はもう眠った方がいい。明日に差し障ってしまう。眠れない訳ではないんだろう?」

 拗ねたように唇が少しだけ結ばれて、けれどヨウは素直にこくりと頷いた。その小ぶりな頭をなだめるように二度、三度と雫は撫でる。

「明日子守歌を歌ってあげる。海の底は無理だけれど、此処で、この場所で。君の安らかな眠りのための歌を歌ってあげる」

「ウタ?」

「人魚にはないのかな。ローレライやセイレーンの伝説もあるのに」

「さあ、わたしは知らない」

「知らないことは教えてあげる」

 そうして雫が立ち上がれば、勢いをつけてヨウがざぶりと海へと体を潜らせる。ぱしゃりと目を閉じたまま頭から水をかぶって、いつもこの瞬間のヨウが心底心地良さそうで、雫は微笑ましく思うと同時に少し海が妬ましかった。

「それじゃあ、おやすみ。ヨウ」

「おやすみ、シヅク」

 子守歌はまた明日。

 そう言い合って、二人は分かれる。雫は海へ、ヨウは陸へと背を向ける。別々の場所を目指し、隔たれた場所で眠りながら、それでも雫にはヨウとの約束がある。それがあればいつだって、雫は前を向いて歩いてゆける。生きることを、恋を、雫に教えてくれた、たった一人の少女のあどけない声は、これから先、幾度も雫の耳をこだまする。

 おやすみ、また明日。またここで。

 おやすみ、子守歌はまた明日。


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