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ジョンの人生は、ずっと不幸続き。
でも、こんなぼくにだって、きっとどこかで幸せが待っているはずだ。
そう思って歩いていくと、たちまち不幸せがやってくる。
いつからずっとこうなのだろう?
ふと考えたジョンは、近いところからさかのぼり、順を追って思い出してみた。
そういえば、昨日は待ちに待ってた給料日。
けれど、一昨日の火事で、勤め先は真っ黒こげに焼け落ちた。
雲隠れした雇い主とは、それきり連絡も取れやしない。
もうすぐ来る月末の支払いを済ませれば、そのあとは食べものも満足に買えるかどうか。
これ以上、思い返しても、もっと悲しくなるばかりなので、もうやめた。
過去から目をそらして、先のことを考えてみたが、ジョンの気持ちは暗くなるばかり。
でも、たとえクヨクヨしていたところで、お腹だけはどんどん減ってくる。
手持ちのお金は少ないけれど、どんよりした気分を変えようと、ジョンは町へ食べ物を買いに行くことにした。
クリスマスを待つ十二月の町は、昼間でもキラキラしていて、とても賑やかだ。
しょげかえっていたジョンだって、なんだか楽しい気持ちになってくる。
でも、ついつい浮かれすぎて、わりと高いほうのハンバーガーを買ってしまった。
安いほうなら二個買えたはず。今日一個食べて、明日もまた一個食べられたのに。
そう思ってもよさそうなものだけれど、そのあたりジョンは違う。
明日、なにがあるかわからないし、せめて今日だけでもおいしいものを食べよう。
ずっと不幸せな目に遭っていると、不安だらけの未来になんて、なんにも期待しなくなる。
せいいっぱいに、生きている。
そういいたいけど、本当は。
生きてるだけで、せいいっぱい。
できたての食べ物が入った紙袋は、まだまだほんのり温かい。
それだけを大事そうに抱えたジョンは、ふと寒空を見上げた。
なんだか雪でも降ってきそうな、どんより重い雲模様。
そこへ冷たい風が、ぴゅうと音を立ててひと吹き。
よりにもよって、ぼつぼつと大粒の雨が降ってきた。
もちろん、傘なんて持ってきていないジョン。
このうえ風邪までひいたらたまらない。
急いで帰ろうと走り出したけれど、幸せそうな賑やかさに誘われて、もうずいぶん遠くまで来てしまっていた。
このままでは、家に着くまでに、すっかりびしょ濡れになってしまうだろう。
なにかアイディアはないかと考えをめぐらせるジョン。
そういえば、近くにあるあの大きな公園には、屋根のあるベンチがあったような気がする。
ひとまず、そこで雨宿りをして、それから先のことはそのあとで考えよう。
雨に追われてジョンが駆け込んだ屋根の下。そのベンチには、先客が一人いた。
ぼろぼろな姿をしたおじいさんが、お腹を抱えるようにして、小さくなって座っている。
「こんにちは。ひどい雨ですね」
ちょっと離れた場所に座って、なんとなく話しかけたジョン。
けれど、なんにも答えないおじいさん。
どんどん強く降ってくる雨で、公園の景色がぼんやり霞んで見えなくなる。
雨宿り。黙ったきりの二人。
まわりでは、なんにでもかんにでもぶつかりまくる雨音ばかりが騒がしい。
「そこの、あんた」
急におじいさんがジョンに声をかけてきた。
「はい。なんでしょう」
びっくりしたジョンはかしこまって答えた。
「この哀れな年寄りに、どうか小銭でも恵んでくださらんかね?」
ジョンは困った。
「それはできません」
なぜなら、小銭どころかお札もなかったから。
実は、持ってきたお金はすべて、さっきハンバーガーを買うときに、ぴったり使いきってしまっていたのだ。
「……そうかね」
これみよがしに溜息をつくおじいさん。お腹の虫が、ぐうと鳴く。
「でも、食べる物ならありますよ。半分こ(シェア)しましょう」
「いやあ、そいつはありがたい」
ジョンは雨ですこし濡れた紙袋から、まだ温かいハンバーガーを取り出して包みを開いた。
美味しそうな匂いがするそれを半分にちぎる。
つもりだったのだけれども。
ぜんぜん上手くいかなくて、片っぽがずいぶんと小さくなってしまった。
「はい。どうぞ」
ジョンは大きいほうを包み紙ごとおじいさんに渡した。
「ありがとう。それじゃあ、遠慮なくごちそうになるよ」
そういうなり、おじいさんはあんぐりと大きな口を開けて一口でそれを食べてしまった。
ごくりと飲み込む音の大きさに、ジョンはまたびっくりしてしまう。
「ごちそうさま。ところで、あんた」
一息ついたおじいさんがまた話かけてきた。
「はい?」
「神様はいると信じとるかね?」
見ず知らず同士のちょっとした世間話にしては、なかなかきわどい話題だった。
「聞いたことはありますけど、会ったことはないですね」
「みんなそうさね。だが、それでもいると信じる者はいる。それなら、悪魔は信じるかね?」
「同じですよ。やっぱり悪魔にも会ったことはないですし」
「いいや。あんたはもう会った」
ジョンはきょとんとなった。
「わしこそが、その悪魔さね」
ごくりとつばを飲み込んだジョン。もちろん、口の中のハンバーガーも一緒に。
「信じないのも無理はない。こんな身なりをしているからな」
おじいさんの自信ありげな態度は不思議な威厳に満ちていた。
きっとお腹がいっぱいになったからだろうなあ。
話半分に聞きながら、そんな風にジョンは思った。
「ほれ。ここから見えるあのビル、あれを建てた男を知っとるか」
おじいさんがそういうと雨がすこし弱くなって、遠くのビルがうっすら見える。
「ええ。急成長したあの有名な会社の社長さんですよね。そういえば、ずいぶん前から、音信不通だとか聞きましたが」
「そう。それが、この姿の元の持ち主さ」
これまでいったいどんな不幸な目に逢ってきたのだろう。
おじいさんは頭がおかしくなってしまったらしい。
けれども、ジョンはこう思った。
せめて雨が上がるまでのあいだ、この気の毒なおじいさんの話相手になってあげよう。
「元の、といいますと?」
「この男、わしと契約して願いを叶えたのさ。まずは会社を大きくした。その次に、まるで釣り合わない若くて美しい女と結婚までした。ところがだ。最後の三つ目を使うのがおそろしくなって、すべてを捨てて逃げ出したのさ。もちろん。逃がしはしないがね」
「でも、願いどおりに物事が進むなんて、いいことばかりじゃないですか。いったい、なにがそんなにおそろしいんです?」
「ああ。それか。悪魔との契約で、三つの願いが叶った者は死ぬのさ」
「え……? 死ぬんですか……?」
「そうだ。そして、絶望した魂は地獄へと落ちていく。真っ逆さまに、どん底まで」
「魂のことはよくわかりませんけど、死ぬというのはあんまりでは……」
「だがな。一生を費やしても得られないほどの成功が、確実に手に入ると聞けば、どうだね。成果が出ない努力を無駄と笑われ続けながら、失意のなか、無為にだらだらと過ぎていく日々。どちらがマシな人生だ? 悪魔の力を借りたから、それがなんだというんだ。どの道、いずれ人間は死んじまうのさ。たった一度きりの人生、なにひとつ楽しまずに、死後のことなんぞ気にしてどうする?」
「でも、あなた――いえ、その人は逃げ出したんでしょう?」
「ああ。なにが気に入らないのか、まるでわからんがな。あっという間にとっ捕まえて、詰め寄っても脅しつけても、頑として願いを言わん。だから、身体を乗っ取ってやったのさ。これでもう、どこにも逃げられん。四六時中、あの立派なビルの見えるこの公園をうろつきまわって、こいつが捨ててきたものを見せつけてやっていたのさ。もうやめてくれと願うまでな」
おじいさんの心はジョンが思っていた以上に大変なことになっていたようだ。
悪魔というのが妄想だとしても、万が一、それが本当だったとしても。
「……そんなの、あんまりじゃないですか」
おじいさん自身が痛めつけられていることには、なんのかわりもない。
「ところがさ。あんた」
また雨がはげしく降ってきて、公園の風景を隠してしまった。
「すみっこに追いやったこの男の心が、近頃はうんともすんとも言わなくなってな。なにしろ、わしは悪魔なので、人間の身体の扱いには慣れておらん。さては腹でもすかしているのかと、あんたに近付いたわけなのだが」
どうしてか、おじいさんの声だけは、こんなどしゃ降りのなかでもよく聞こえる。
「どうやら、この男。もう、死んじまっているらしい」
またまたジョンはおどろいて、おじいさんをまじまじと見る。
「でも、おじいさん。元気そうにみえますよ」
ちょっと顔色が悪いような気もするけれど、きっとこの天気のせいだろう。
「そりゃあ、わしが無理矢理に動かしてるからさ。さっきの腹の音は、ひさしぶりにしゃべったんで、腹にたまった空気が鳴っただけのようだな。試しに食ってはみたものの味もせんかったし、食い物を入れたのに腹のなかがまるで動いてない」
おじいさんは深くため息をついた。
「あの戦争以来、魂のない人間がずいぶん増えてはきていたが、まさか契約途中の魂まで消え失せちまうなんざ、予想外もいいところだ。とんだ悪魔の恥さらしさね。わしは久しぶりに地獄に戻って、怖い上司どもにこっぴどく叱られにゃならん。だが、契約を果たせなかったせいか、どうにもこの男の身体から抜け出ることができん。そこでだ」
ジョンを見るおじいさんの目が光ったようにみえた。
「あんた、この男が残した願いの使用権、ひとつ貰ってくれんかね?」
おじいさんの話は真にせまっていて、ジョンもだんだん怖くなってきた。
「……いえ、結構です」
するとおじいさん、さらに身を乗り出してくる。
「仕方ない。タネを明かすか。実はな、願いは三つと決まっているわけではないのさ」
「……?」
「小さな願い、ささやかな望みなら、何度でも使えるのさ。願い全体のうちから何割を使うか、本当はそういう話なんだよ。ところが、三度きりといえば、不可能に近い大きな望みをかけて、あっという間に限度を超える。勝手に自滅してくれるわけだ。もっとも、悪魔になにか頼むような人間は、大それた願いしか持っていないがな。だが、どっちにせよ、願いの要求が全体量がオーバーすれば、死ぬことにかわりはない」
「……」
「これは契約ではない。わしのヘマをごまかすための、ちょっとした手伝いみたいなもんだ。だから、あんたの魂に手出しはせんよ。わしは、この身体から自由になりたいんだ。あんたはこの願いを使ってもいいし、もちろん、使わないまま、人生をまっとうしても構わん」
「……」
「持っていてくれるだけでいい。別に使わなくてもいいんだ。頼む。助けてくれ。このままでは、ずっとこの地上をさまよい続けることになりかねん。とっくに死んじまった、この男の姿で」
ジョンの人生は、ずっと不幸続き。
でも、死んでまでさまよい続けるなんて、そんな不幸はまるで想像もつかない。
「本当に、持つだけで、いいんですよね?」
「そうとも。それだけでいいのさ」
「使わなければ、死なないんですよね?」
「そうとも。その通りさ」
「そうすれば、おじいさんは助かるんですね?」
「そうとも。大助かりさ」
おかしくなってしまったおじいさんの気が、それですこしでもまぎれるというなら。
「……わかりました」
「おお。貰ってくれるかね。ありがとう、ありがとう」
よっぽど嬉しいのか、おじいさんは握手を求めて右手を差し出してきた。
ジョンはぎこちない笑顔でその手を握り返す。
途端にビリリと電気のようなものが走る。
「いいい痛いっ!」
すぐにジョンは手を離そうとした。けれど、おじいさんがすごい力で握ったままだ。
「念のために、使い方も教えておこう。願いごとを思い浮かべたら『ここで使う』と口に出すだけでいい。ただし、その願いの大きさを決めるのは、あんた自身の価値観。つまり、心ひとつさ」
痛みからジョンが手を振りほどくと、もうおじいさんがどこにもいない。
「あ、あれ? おじいさん? どこですか?」
きょろきょろまわりを見回すと、あんなに降っていた雨もいつの間にか止んでいる。
しばらくあたりを探してみたが、おじいさんはどうしてもみつからなかった。
家に帰ろうと道を引き返したジョンは、町の賑わいのなかに戻ってきた。
雨があがった通りを、幸せそうな人がいっぱい行き来している。
さっき食べたばかりのジョンだったけれど、またお腹が減ってきた。
半分よりすくないハンバーガーだけでは、やっぱり大人には物足りない。
もうすこし、なにか食べたいなあ。
とは思ってみたものの、いまはもうお金を持っていない。
そこで、おじいさんから聞いたさっきの冗談話を思い出した。
そんなことあるわけもないけれど、ジョンは冗談まじりにやってみることにした。
よく食べている安いほうのハンバーガーを頭に思い浮かべる。
それだけで、お腹が鳴ってしまった。
「ここで使う」
恥ずかしいので、小さな声でいってみる。
特になんにも起きやしなかった。なんだか余計に恥ずかしい。
ははは、と笑って歩いていくと、駐車場に張られたテントの前を通りかかった。
「さあさあ、お客さん。くじのチケットはお持ちじゃないかね。この通りの商店で買い物するともらえるチケットだよ。あるなら、ここでくじを引いていっておくれ」
太ったおじさんの前には、手回し式のビンゴマシンみたいなものがある。
でも、ジョンはチケットを持っていない。なので、通り過ぎようとした。
「ちょっと、あんた。待ちなよ、そこのあんただよ」
それなのに、どういうわけだろう。おじさんはジョンを呼び止める。
「はい? ぼくですか?」
「そうとも。あんただよ。あんた、チケットをお持ちだね?」
「いえ、ぼくは……」
すると、おじさんはウィンクしてジョンの靴を指さした。
ぐちゃぐちゃになった紙切れが靴の裏に張り付いている。
はがしてみると、それはくじのチケットだった。
「でも、これ、ぼくのじゃないですよ」
「いいんだよ、いいんだよ。誰かが落としたのか、それとも捨てたのか。そいつはわからないが、いまはあんたが持ってるんだ。せっかく拾った幸運だよ。こっそり使っちまったって、別に誰も構いやしないさ」
そういうとおじさんはジョンの手から、よれよれのチケットをもぎ取った。
「さあ、こいつを一回まわしてくれ。こいつは、ニッポンでフクビキと呼ばれてる年末の伝統行事みたいなもんで、出てきた玉の色で賞品が決まるんだ。ビンゴみたいにもったいつけたりなんかしない、サムライらしく一発勝負だぞ!」
ちょっとうしろめたい気もするジョンだったが、せっかくなのでハンドルをつかむとガラガラと一回転。
すると、申し訳なさそうにポトリと白い玉が転がり出てきた。
「はずれ、ですね?」
「いいや、当たりだよ! おめでとう! 白は五等、あそこの店の無料券だよ。まあ、額面こそは少ないが、ひとつくらいなら食えるんじゃないかな」
おじさんに手渡されたそれは、まさしくハンバーガーショップの商品券。
手のなかの商品券をまじまじとみつめるジョン。
あの公園のおじいさんのいってたことは、もしかして本当だったのかな。
お店で券を引き換えてもらうと、安いほうのハンバーガーちょうど一個分だった。
新しい紙袋を抱えたジョンは、家へ向かって歩いている。
はらぺこだったことも忘れて、歩きながら考えた。
大金持ちになって、美人の奥さんをもらったというあのおじいさんは、次の一回で死ぬかもしれないと思って逃げ出した。
願いごとがささやかなら何度でも使える。
そういわれたけれど、それってどんな望みのことなんだろう。
たとえば、ハンバーガーでいえば、いったい何個分くらいなんだろうか。
なにしろ、ジョンは不幸続き。未来にまるで期待してない。
だから、想像力だってちょっと伸ばせば手が届く、それくらいの範囲内。
毎晩、夢は見ているけれど、持ったことは一度もない。
安定した新しい仕事が欲しいなんてのは、ちょっと高望みすぎるかな。
わりと誰でも考えてそうなことだけれど、ジョンは大真面目に考えた。
生活のために、いい仕事を得た。でも、大きな願いがかなったので、死んだ。
なんだか本末転倒だけれど、絶対にないともいえない話だった。
やっぱり最初におじいさんにそういったように、使わないのが正しいような気がする。
よし。もっと、困ったことが起きてから、使うかどうかを考えよう。
はたからみれば、いまもかなり困った状況のように思えるが、なにしろジョンは不幸続き。
希望を持てない未来だけれど、望まないことが起きるのだけは予想出来る。
なにしろずっと、そんな経験ばかりしてきたものだから。
手にあまるものを手に入れてしまって、ちょっと怖くなってきたジョン。
別に盗られるようなものでもないし、実際に持っているものはといえば、ハンバーガーの紙袋ひとつだけ。
だけれど、ちょっと遠回りして、もっと人が多い大通りを横切って帰ることにした。
せかせかと足早に、よそみもせずに、ジョンは急いで通り過ぎる。
そのつもりだった。
突然、なにかがぶつかる激しい音が大通りに響き渡る。
路地に入ろうとしていたジョンも、つい足を止めて振り向いた。
大通りの真ん中で、自動車同士の交通事故だ。
それも正面衝突どころではない。
乗り上げたトラックの重い前輪が、高級そうな車の運転席をほとんど潰してしまっている。
驚きに身をすくめていた人々が、大事ななにかを思い出したかのように、いっせいに事故現場へと走り出した。
「あれは、かなりマズいぞ……!」
「誰か、警察と救急車に連絡して!! はやく!!」
「エアバッグが動いてないぞ! 乗ってる人は無事なのか!?」
口々に上がるさまざまな言葉の不穏さが、クリスマス前の浮かれ気分を吹き飛ばしていく。
ジョンもまた、いてもたってもいられなくって、みんなと一緒に走った。
トラックのドアが開いて、若い男が道路にぴょんと飛び降りる。
事故を起こしたショックのせいか、ふらふらとすこし歩くとその場にへたりこんでしまう。
「おい、あんた! さっさとこのトラックをバックさせろよ!!」
動かない運転手を怒鳴りつけるやせたおじさんに、高級そうな車のほうをのぞいている白髪のおじさんが答えた。
「いや、駄目だ! これ以上、動かしたら、この人が潰されちまうぞ!」
ゆがんだドアを力まかせに引っ張ると、バキンと根元からもげて、白髪のおじさんはドアごと後ろにひっくり返る。
高級そうな車を運転していたのは、まだ若いきれいな女の人だった。
ジョンよりすこし年上くらいだろうか。その人は、頭から血を流して意識を失っていた。衝撃で変形した車のなかで押しつぶされるギリギリのところだった。
「おい! あんた! 大丈夫か!?」
誰かが呼びかけたが、女の人は答えない。
その誰かが女の人の肩をつかんだ。
すると力なくガクリと首が下がった。まるで糸の切れた人形のように。
そういえば、女の人の顔色は、まるで温かみというものが感じられない。
「おい、まさか……!」
他の誰かが、誰とはなしにそう聞いた。でも、誰ひとり答えない。
「……ママ? ねえ、ママ、どうしたの?」
後ろの座席の毛布から、か細い声が聞こえた。
高級そうな車に乗っていたのは、若い女の人だけではなかった。
急いで誰かが後ろのドアを開けると、他の誰かが小さな男の子を毛布ごと抱きかかえて車から降ろす。誰もが目配せして、うなずきあって、よけいなことを話さずに、子供を若い母親が見えないところへと運んだ。
「ケガないかい、ぼうや。そのう、ちょっと事故があってね」
「ママは……?」
「ああ、うん。大丈夫。ショックで気絶してるだけさ。すぐ、救急車が来るからね」
不安そうなぼうやをなんとかなだめようとする人たち。
そのあいだに何人もの人たちが力を合わせて、若い母親をなんとか車から引っぱり出した。
人また人の壁のすきまから、それを見てしまったぼうやが叫んだ。
「ママ! ママーっ!!」
泣きながら呼ぶ声にも、ぼうやのママはぴくりとも動かない。
けたたましく鳴り響くサイレンの音が近付いてくる。
とめる人たち振り切って、寝たきりのママのもとへ駆け出すぼうや。
けれど、やってきたパトカーと救急車が親子の間に割り込んだ。
ただただずっと、おろおろしているばかりで、ジョンはなんの助けにもならなかった。
「おや、あんた! あんたも来てたのかい?」
申し訳なさそうにしているジョンに声をかける人があった。
振り返るとそこには、さっきのフクビキの太ったおじさんがいる。
「あの人も気の毒になあ。金持ちじいさんと結婚して、やっとこさ子供もできたってのに、旦那はどっかに消えちまうわ、あげくに事故にまで遭うわ。まったく、なにが幸福かなんてわからんもんだね」
「あの……その話って」
「ああ、知らなかったのかい。あの人は、ほれ、あそこのビルの持ち主の若奥さんだよ」
おじさんが指さす先は間違いない、公園のおじいさんがいっていたのと同じビルだ。
「あんたみたいに幸運を拾う人もいれば、いくら金持ってたってデカい不幸にぶち当たる人もいるってこった。まあ、人生、そうそう上手くはいかないもんさ」
それだけいうとおじさんは、ジョンの肩をぽんと軽く叩いて去っていった。
ジョンの人生は、ずっと不幸続き。
ずっとずっと目を背けていた、思い出したくない不幸のはじまり、それは。
小さな頃、たった一人の家族だったお母さんが死んでしまったこと。
あなたのママは天国からあなたを見守っているのよ。
そんなことをあちこちいろんな人からずいぶんと聞かされてはきたけれど。
それで寂しさや悲しさが紛れたりはしない。
あの頃、何度も考えて、ずっと忘れていたことを、ジョンは思い出した。
もしも、ぼくに魔法のチカラがあったら、お母さんを死なせたりなんかしなかったのに。
そしていま、ジョンには願いをかなえる力があった。
それも、もともとはあの若い女の人の夫、あのぼうやのお父さんのものだった。
しかもまた、それは高いほうとはいえハンバーガー半分と交換したようなもので、たまたま手にした幸運でしかない。
でも、大きな願いに使ったら、ぼくが死んでしまうんじゃなかったっけ……?
ジョンはちょっと考えた。
いくら不幸続きのジョンだって、もちろん死にたくなんかない。
そもそも自分の願いの全体量なんて、自分自身わかるわけがない。
ジョンは深く考えた。
使うか、使わないか。
結局はただそれだけの話だった。
ジョンの人生は、ずっと不幸続き。
だからといってジョンは、他の誰かも不幸であれと願ったことはない。
人目につかないせまい路地に入ったジョンは冷たい壁に背中を預けた。
目を閉じて、思い浮かべてみる。
いままで自分に起こったこと、それからさっき起こった事故のこと。
死んだ母親、泣いている子供、それと――。
それで、もう全部。
「ここで、使うよ」
つぶったジョンの目の端から、涙が一粒こぼれ落ちた。
持っているものはといえばハンバーガーの袋だけ。
それだけ胸に抱えたまま、ジョンはずるずる崩れ落ちていく。
まるで疲れきった子供が、仕方なくその場に座り込むように。
「おい、見ろよ! 奥さんが意識を取り戻したぞ!」
「奇蹟だ……!」
群れ集った人たちの歓声がどよめく。
「ママーっ!!」
人でできた壁は扉のように開かれて、そのあいだをぼうやがまっすぐ駆けていく。
みんなの笑顔に囲まれながら、生きている母親のもとへ。
「ねえ、いまの見た?」
たまたまそこを通りがかった若い女の人が、なにもない頭の上に話しかける。
「ええ、マリー。ちゃんと見ていましたよ」
そこにはマリーにしか見えない、光を背負って輝く羽の生えた天使が浮いていた。
「あれって、あんたたちのいう奇蹟ってヤツじゃないの?」
「いいえ、マリー。すこし様子が違うようですが、あれは悪魔と契約した者が使う伝統的な魔法、偽りの奇蹟です」
「でも、人が助かったじゃない!?」
「たとえ、どんな目的のためであっても、手段を選ばないのであれば、それは善でも正義でもありません」
「あきれたケチな了見ね。ずっと前から聞こう聞こうと思ってたんだけど、あんた、ホントに天使なの?」
「はい。わたしは天から遣わされたあなたの守護天使ですよ」
天使を引き連れたマリーは、ある路地の横でふと足を止める。
「ねえ、守護天使さん。いまがまさにあたしの信仰の危機よ」
その路地を入ったすこし先、そこにはもう動かなくなったジョンがうずくまっていた。
「どういうつもりかしらないけど、この人は魔法を使って、あの子のお母さんを助けて死んだ。なのに、あたしの守護天使はそれを悪いことだっていうの。ところで、あんたの神様は、あの親子をいったいどうするつもりだったわけ?」
「それは神のみぞ知ることです、マリー」
「見捨てるつもりだったの? 昔から、たくさんの人を、ずっとそうしてきたように?」
「マリー。そうではありません」
「もう、奇蹟でも目の当たりにしないことには、あんたの神さまなんか、これっぽっちも信じられないわ。なんにもしないあんたたちのかわりに死んだも同然のこの人を、いますぐにでも救ってみなさいな」
それを聞いて守護天使は溜息をついた。
「マリー。わたしたちの長い歴史のなかでも、天使にそんな命令をした人間は、おそらくあなたがはじめてでしょう。けれど――あなたの行いは正しい」
マリーにしか見えない天使が、マリーの目のなかでいっそう輝きを増していく。
「わたしはあなたの守護天使であったことを誇りに思います。ですが、これでお別れです。さようなら、マリー。あなたのこれからの人生に幸多からんことを」
「じゃあね。よそでも元気でやってよ。あたしの守護天使さん」
まばゆい光とともにマリーの天使はどこかへと消え去った。
ふと目覚めたジョンが最初に感じたのは、背中とおしりに染みわたる壁と地面の冷たさだった。
「あ、あれ……? ぼく、生きてる!! 死んでないぞ!?」
「そうみたいね。でも、そんなとこで寝てたら、風邪くらいはひくかも」
知らない声に、はっと顔を上げる。
するとそこにはジョンをのぞきこんでいる知らない女の人がいた。
「ところで、それ。なにを大事そうに持ってるの?」
「あ、ああ、これ? ハンバーガーです。さっき券が当たって、それで」
「あら、いいわね。実はあたし、ちょうどお腹が減ってたとこなの」
「あの、これ、一個しかないんですけど、半分でよければ」
「ありがとう。それじゃあ、飲み物はあたしがご馳走するわ。そういえば、まだ名前を聞いてなかったわね。あたしはマリー」
「ぼくはジョンといいます」
はじめて出会ったばかりの二人は、いつでもどこでも食べられるさして珍しくもないハンバーガーを、ふたつに分け合った。
もうすっかり冷え切っていたけれど、それはたとえようもなくおいしい味がした。




