1.2:日常
自宅にある道場の中央に正座で座っていた八神士郎はふと瞑想から覚めた。
春らしい暖かな風が道場の開け放たれたドアから桜の花びらを運ぶ。春は士郎の一番好きな季節だった。あの桜の花びらが流れる様を見るのはいくつ年を経ようが飽きるものではない。
ゆっくりと腰を上げ道場から立ち去り稽古の汗を流すためにシャワーを浴びる。
まだ先生は起きていないようだった。
制服に着替えた士郎は朝食を作るためにキッチンへと移動した。朝食を作り始めてしばらくすると、食事の匂いに誘われて先生が起きてくる。仕事の時はコンタクトをつけているが今は寝起きのため先生はメガネをかけていた。パジャマ姿で化粧気の無い顔は学園一のマドンナと呼ばれている名物教師の本来の姿である。
「いい匂いがする。」
キッチンにやってきた先生を見て士郎は苦笑した。
「富樫先生。そろそろ朝食の準備ができるので顔洗ってきてください。それと今日から学校だってこと覚えていますか。準備をしないと間に合わなくなりますよ。」
士郎が指摘すると富樫は目を見開き、大慌てで仕事の準備を始めた。
先生と暮らし始めて早いものでもう三年がたつ。両親が他界し親戚をたらい回しにされそうだった所を当時担任だった富樫に引き取られ暮らし始めた。
ご飯を茶碗に装いながら士郎はふと感慨深げに思い出す。月日が流れるのは早いものだ。
「士郎早く~。学校遅れる~。」
始業式があるせいだろうか。どうやらいつもより早く出勤するつもりらしい。
「はいはい、今行きます。」
これじゃあどちらが親かわからないな。生活力の無い女教師に飽きれながら朝食を運ぶ。
「いただきます。」
ご飯、味噌汁、鮭の塩焼き、昨日の残りの肉じゃが、そして自家製の漬物。全ての料理が運び終わり挨拶をした士郎の横で、先生が勢いよく自分の分の料理を平らげていく。その様子は獣のようである。
「・・・こりゃあ今年も彼氏はできないな。」
「何か言ったかな士郎君?」
「言ってないです。」
「そういう士郎君はどうなのかな。私に何か言う前に彼女の一つくらい作ってみなさいよ。」
少し漬け過ぎただろうか漬物が塩辛い。
「彼女ねぇ。俺あんまり女の子に興味無いんですよね。」
「士郎ちゃんは奥手よね。男ならもっとこうガツガツいかないと。」
先生みたいに肉食過ぎるのもどうかと思うと指摘をしたかったが、これ以上話をすると墓穴を掘りかねない。
自分が女好きでは無い人間だと自覚したのは思春期を過ぎた頃からである。あろうことか同性の幼馴染に恋心を抱いてしまい自分が同性愛者だということを理解した。そしてそれから苦難の日々が始まった。正直言って両親が事故で死んでしまったという事実以上に、少年だった心に衝撃を与えた。
誰に話していいかわからない。誰にも話せない秘密を抱えずっと生き続けなければならない。告白できたらどんなにすっきりするだろう。しかし社会というコミニティーで生活する上で人の目というものがどういう役割を担っているかを士郎は理解していた。特に学校などという小さいコミニティーでは、噂などすぐに広まってしまう。
思春期の悩みや苛立ちを他者に向かって吐き出す人間はどこにでもいるもので、そういう人間に目をつけられないためにも、自分の恋心は墓までもっていこうと思っていた。
「それに引き換え鬼道君はワイルドでいいわよね。あれはいい男になるわ。女の私の勘だけど。」
「またその話ですか。先生の年下好きにも困ったものです。今年で三十・・・。」
「待ちなさい士郎。それ以上言ったら私の必殺技が飛ぶわよ。」
「はいはい。先生そろそろいかないとまずいんじゃないですか。片付けもしておきますので早く準備して行ってください。」
「は~い。晩御飯はカレーがいいな~。」
「帰りに材料買って帰りますね。昼食は各自でいいでしょうか。」
「うんうん。そうして頂戴。また冷蔵庫の上の貯金箱に、私の分の生活費をいれとくからそれも使ってね。親御さんの残してくれた者はなりべく使わないようにしなさい。」
「わかりました。」
仕事へ向かう富樫先生を見送りキッチンへ膳を下げる。冷蔵庫の上の豚さんの形をした貯金箱を見ると何枚か札束が入っていた。食費や光熱費を抜いてもお釣りがくる。小遣いのつもりなのだろうか。前にも家に入れてくれる額が多いことを指摘していたが、どうやら先生はそのことを聞き入れてくれなかったようだ。先生も嫁入り前なのだから貯金をしておかないと駄目だろうに。
皿洗いをしてしばらくすると呼び鈴がなった。
もうこんな時間か。
急いで手を拭き自分の部屋から通学鞄をとってくる。今日は始業式なので荷物は春休みの宿題しかない。玄関に鍵をかけ屋敷の門を開くと幼馴染の鬼道力也が門の前にたっていた。鳥居高校2年柔道部所属。士郎が密かに慕っている相手だ。
「よお、久しぶり。」
士郎が顔を見せると青年はにかりと笑みを浮かべ手を掲げた。その笑顔にどきりとする。それだけで学校が始まってよかったなと思えた。我ながら単純な頭である。
「おっす、元気そうだね。」
久しぶりに見た青年はまた逞しくなっているようだった。県大会優勝という大きな目標をかかげ、柔道を頑張っているからだろう。直向に頑張っている姿には憧れるものがある。
「元気だけが取り柄だからな。休みはどうだった?どっか行ったか。」
「家に篭って修行と受験勉強。後はバイトばかりしてたな。」
「俺も似たようなもんだな。学校が始まって少しほっとしている。」
力也はこの地域では有名な由緒ある家の息子だった。本来なら義務教育の後家を継ぐことになっていたのだが、自分のやりたいことをするために家を飛び出し鳥居高校に通っていた。
他愛の無い話に花を咲かせていると桜並木に差し掛かった。真ん中に川がありそれを挟んだ両サイドに桜が一列に並んで咲き誇っている。
「すげえ、綺麗だな。」
思わず感嘆のため息をつく。ぼんやりと立ち止まりその光景を眺めていたい衝動にかられる。それを見た力也が少し呆れた表情をして見せた。
「さすがに始業式は出なきゃ駄目だぞ。」
ぐいっと肩を抱かれ無理やり引っ張られる。何かの香水の匂いだろうか。木の匂いがする。力也が無理やりにでも連れていこうとしたのには訳がある。昨年桜の花を眺めていたら時間を忘れ、知らない少年に怒られたのことを話していたのだ。名残惜しいが仕方が無い。半ば諦めたかけた時になってようやく自分のおかれている状況を理解した。
「ひゅ~ひゅ~、朝からお暑いわね。」
背後から突然声をかけられ士郎と力也は振り返った。
高校で仲良くなった西村恵子がいつの間にか二人の背後に立っていた。文芸部所属で昨年同じクラスだった少女である。快活そうなショートヘアにすらっとした肢体。文芸部よりも運動部に向いているんじゃないだろうか。士郎と席が近かったころから話すようになり、高校に入ってからは3人でよくつるむようになった。
「何だ西村か。性懲りも無くまた現れたな。」
士郎を抱きながらしっしっと犬を追い払うように力也は手を振る。
「何だとは何よ。随分な言い方ね。おはよう士郎君。」
「おはよう西村さん。」
「普通久しぶりに会った友人には、こうやって挨拶をするもんじゃないの。全く力也は・・・。」
「へいへい、おはようおはよう。」
「そういう態度なら宿題をもう見せてあげないわよ。」
「すいませんでした。春休みの宿題見せてください。」
「よろしい。」
「おまえ宿題やってきてないのかよ。」
「士郎も手伝ってくれよ。部活とバイトが忙しくて宿題なんてやってる暇が無かったんだよぉ。」
「いいけど丸ごと書き写すのは駄目だからな。富樫先生そういう所は目ざといから。」
「そういえば、今日は富樫先生と一緒じゃないのね。まだ寝てるのかしら。」
「今日はもう学校へ向かってる。始業式だから色々と準備があるのかも。」
「うちの学校は始業式と入学式が同じ日に行われるからな。初日から先生は忙しそうだ。」
「その点生徒は午前授業だから楽よね。お勤めご苦労様です。」
ここにいない富樫先生に恵子は合唱をしてみせた。
歩いているうちに徐々にほかの生徒たちの姿がちらほらと現れ始めた。3人が喋りながら桜並木を抜けると学校の正門にたどり着く。正門には初日だというのに腕に規律の腕章をつけた校風委員の姿が見えた。3人が近づくとその中の一人がこちらに向かって乙女走りで走ってくる。少女マンガのお姫様が左右に腕を振るうとても効率的ではない走り方だ。
「もうあんた達、登校時間ぎりぎりじゃない。何かあったんじゃないかって心配したんだから。」
オネエ口調の少年が3人に声をかける。校門を通ろうとした生徒がその大声にぎょっとしてこちらに視線を向けた。しかしそれが校内でも有名な平林拓也だとわかると何事もなかったかのように去っていく。彼、いや彼女は色んな意味で変わっていた。
「何かあったのか。」
「あんたニュース見てないの?」
「ニュース?」
「拓也君。それって最近波際市を徘徊している通り魔の話だよね。」
「たっくんって呼んでって言ってるでしょ。そうなのよ、今日生徒会連絡網で非常召集がかかってねん。通学路にも生徒会が見回りに出てるの。」
「なんだ荷物チェックじゃないのか。」
力也が欠伸をかみ殺して会話に加わる。
「あら、リッキーったらまた体つきが良くなったわね。今年は優勝行けそうじゃない。」
「もちろん。任せとけ。」
「にしても通り魔とは物騒だな。後で詳しく話を聞かせてくれよ。」
「わかったわ。とりあえず中に入っちゃいなさい。少しでも遅れたら生活指導の保高に怒鳴られるわよ。」
去り際にウィンクをされたがどう反応していいかわからず、ただ手を振って平林と別れた。
予鈴の鳴る音が学校から響く。
そういえばこの鐘の音は、もともとはウェストミンスター宮殿の時計塔が奏でるメロディだったという薀蓄を富樫先生にされたことがった。
そのことを聞いたとき当時中学一年だった自分はたいそう驚いた。
知らないというのは恐ろしい。ほぼ毎日聞いていればそれが普通になりいつの間にか違和感など感じなくなってしまう。今回の通り魔にしてもそうだ。知らずにそいつに遭遇していたらと思うとぞっとする。
玄関口は登校してきた生徒達であふれていた。鳥居高校は一年から三年まで同じクラスでクラス変えが無いためクラスを確認する必要が無い。それなのに何故か玄関に人だかりが出来て一心不乱に生徒たちは案内掲示板を見ていた。おそらく先ほどの通り魔についての注意書きでもでているのだろう。靴を履き替えた後に確認しなければ。
「士郎君の靴箱開きっぱなしになってる。」
「ほんとだ。何でだろう。」
恵子に指摘されて疑問を感じながらも靴箱を覗き込む。中は空で別段変わったことは無い。誰かが間違えて開いてそのままにしてしまったのだろうか。
「士郎、ちょっとの間動くなよ。」
同じように隣で靴を履き替えていた力也が不意に声をかけてきた。何事かと靴を袋から取り出した上体で固まる。士郎が動かない間にさっと力也は士郎の足元に落ちていた画鋲を拾い上げた。
「危ねえな。誰だよこんな所に画鋲なんて落とした奴は。」
「力也、ありがとう。」
「おやおや力也さん、これは好感度上昇ですぞ。ポイント高いですぞ。」
「うるせえぞ西村。べ・・・べつに好感度を上げようなんて思ってやったんじゃねえんだからな。」
恵子に指摘され力也が顔を赤らめた。そんな幼馴染の表情を見て可愛いなぁと思う。
できればこの些細な幸せが続きますように。
新しく新学期を向かえた少年はそう願うのだった。