第3話 仮面の男(1)
1 強敵
天井の小窓から薄れ日が射していた。
そこは、どう見てもありふれた工場の1室。
だが、少し状況が違っていた。猿ぐつわを噛まされ、後ろ手に縛られた男がパイプ椅子に座らされていたのだ。しかもその部屋は、男が唯一存在するだけで、後は何もない、伽藍とした殺風景な所だった。
すると、その時、突如銃声が鳴った! 縛られた男が倒れ込んだではないか!
――えっ、殺してしまったか?――確かに、別の族が現れ、男を撃ったのだ! そして、
「邪魔者は消す、それがこの世界の掟。我が手に全てをつかむまでお前は眠っておけ」と頭を撃ち抜かれ血に染まる男に向かって、まるで地の底から聞こえてくるような低音の際立つ機械的な声で平然と語った。
――何と残忍な行為よ!――だが、その顔は表情を読み取り難い。何故なら、目元に右半分は寓話的、左半分はメカニカルな左右非対称の仮面をつけていたからだ。そのうえ声質までも、無駄に幅の広い顎紐が首元にかかっていたため、電気的な作用を及ぼした偽の声であった。
ならば、この仮面男はいったい何者であろうか?……
それは、誰も知り得ないのかもしれない。仮面男も自負していた。未来永劫知られることはないと。
そうして次に、己の手で無残にも撃ち殺した人物を弔うことなく、長い廊下をゆっくりと歩き始めた。その結果、辿り着いたのは別の小部屋、そして中に入るなり、「叔父貴が捕まったね」と話しかけた。
そうすると、「いやあ、参った、やられたよ。私もどうにか、偶然鬼頭と一緒になっただけと誤魔化したが」とすぐに答えが返ってきた。同じ場所にいたのは、あの上溝だ。
「まあいい、叔父貴には長い別荘暮らしをしてもらって、さて問題は、東ですねえ」続いて仮面男が、そう言うと、
「頼むよ厳鬼、東を何とかしないと、私の方にも手が回る恐れがあるからね」と不安そうに、上溝は訴えてきた。
だが、仮面男〝厳鬼〟は、慌てた様子の上溝を余所にして、「大丈夫ですよ、先生。もう策は講じていますから」と諭した。
上溝は、それでも、「……そうなのか。あいつはかなりのやり手らしいぞ」とまだ納得がいかなさそうな様子。
すると、途端に厳鬼は口元を緩めて――ただし、その眼差しは冷ややかなまま――
「見ておいてください。やり手をどう料理するか。おもしろいことになりますよ。ふふふふ……」と含みを持たせた口調で答えたのであった。
遂に、厳鬼という族が動き出した。
まさに今、壮絶な戦いが始まろうとしていたのだ!――――
捜査一課第9班の日常は、凶悪犯罪に対処すべく、特訓に明け暮れる日々であった。しかも、彼らは潜入捜査に精通した特殊部隊であるため、軍事訓練までも受けなければならなかった。ただし、そんな彼らにも休息の時があった。
20時10分、東と西村はレストランの1室へ向かっていた。前の事件で救助した吉永が、感謝の印として食事に招待してくれたのだ。
「あの時は本当にありがとう」部屋に着いた途端、吉永と秘書2人の出迎えを受けた。
「いえ、私たちは犯罪者と戦うのが使命ですので」東と西村は、軽く会釈して答えた。
「今日はゆっくりとくつろいでくれたまえ」
「では、遠慮なく」2人は吉永と食事を楽しむことに。
その場は夜景が見える、高層階の超高級レストランだった。
そして食事も進んだ頃、話題は東たちの捜査に関する事柄に及んだ。
「君たちの捜査一課第9班とは、裏組織の潜入を主にやってるのかね?」テーブルを挟んで吉永が訊いた。
「はい、我々の班は警察内でも特殊な任務を請け負っていまして、社会の悪を根絶することを目指しているんです」と東が答える。
すると吉永は、その返答を意外だと感じたのか、
「根絶ですか……。高貴な志だが、現実にはかなり難しい話ですね」と言った。
「ええ、それは分かっています。けれど、可能性はあると信じます。我々の目標がいかに遠くとも、犯罪のない社会を作りだすことを使命とし、日々悪と戦う決意です」となおも東が真顔で語った。その目の中に大きな理想を掲げて。
ただし、彼の表情が余りにも真剣だったためか、吉永たちが圧倒されたみたいだ。紛れもなく強張った顔に変わった。よって、少々場違いな空気が漂い始めたか?……
だが、そこに、「まあまあ、東さん。今夜は硬い話は、止めておきましょうよ。せっかくのお招きじゃあないですか」と西村が牽制してくれたことで場が和む。
そして東の方も、「ああ、すまない。いつもの癖が出てしまった」と自分が熱くなり過ぎたことを素直に詫びた。
これで何とか、気まずい雰囲気を払拭できたようだ。とはいえ、その一方で……彼の真摯な姿は吉永を感心させたみたいだ。
「東警部、あなたは本当に正義を貫くことを心情とされているんですね。いやあ、ご立派」と呟いた。
東は、その声を聞いて唯々恐縮するのであった。
ところがその後、今度は西村の方が――今、上手くフォローしてくれたと感謝したところなのに――おかしなことを言い始めたか?
「でもねえ、大変なんですよ。ついてく者からしたら、完全無欠の上司を持つということは。なんせ無言のプレッシャーを感じるんですから」どうやら東の熱意に多少なりとも疑問があるらしく不平を洩らしたのだ。
ただこれは、全くの寝耳に水だったため、すぐに口角泡を飛ばして抗議した。
「おい西村、私は誰にも強制などしてないぞ! 何を言いだすんだ?」と。
そうすると信二は、ばつが悪そうに、
「ははは、分かってます。俺たちが勝手にそう思っているだけですよ」と速やかに弁解した。……とは言うものの、部下たちが東に触発されていることは事実のようだ。やはり、東九吾という男は仲間の目からしても常人ではないと思われているらしい。それも当然なのかもしれない。彼はどんな時でも隙を見せず、常に周りを警戒し、不穏なことが起こっていないか注意を払っているのだから。寧ろそうすることで彼の日常が成り立っていたという。何故なら、彼の根底には犯罪者への憎しみがどくどくと溢れていて、悪を叩くことこそが彼の使命だと感じていたからだ。そのため、いつからか記憶にないが、悪人を目にするとまるで血が沸騰するかのごとく怒りが湧き出たのだ。されどそれも因果の為せる、確かな理由があってのこと。東九吾の生い立ちに関わる重大な出来事が存在していた。――それは遠い過去に起こった激甚な体験だ。ある事故に遭ったのちに病院で輸血を受けた話まで遡る必要がある。その時から彼は、新たな人生を歩みだしたと言っても過言ではない――とはいえ、今はまだ語るタイミングではなかった。
「東さん。もう一杯いかがかね」そんな中、吉永が東にワインを勧めてきた。
だが、彼は、「いえ、お言葉は嬉しいのですが、これ以上酔うといざと言う時に支障をきたしますので」と言って断った。
それに対して西村の方は、「ほらね。そうくるでしょ……。東さんはいつも真面目に、先々の事件を考えては警戒を怠らないんですから。でも、俺は頂きますよ。遠慮なくね」と言ってグラスを傾ける。
明らかに対照的な態度の2人……。そして、その様子を微笑を浮かべて眺めている吉永だった。
時がゆるりと過ぎていった。今日ばかりは、羽目を外す精鋭たちであった。
そうして1時間後、会もお開きとなる。東たちは帰宅の途につくことにした。
レストランで西村と別れ、東は1人、通りを歩き始めた。
そこは人気がない寂しい道で、しかも何となくざわついた夜だった。東の靴音だけが遠くまで響いて、その音を聞いているだけで今夜は不穏な出来事が起こる気がした。
すると、その時! 「キャー!?」絹を切り裂くような女の悲鳴が聞こえてきた!
思った通りか。これは間違いなく犯罪の臭いがする。彼はそう予感し、急いで声がした方へ走って行った。
そうして目にしたのは、ビルの間の細い通路に佇む、1人の女と3人の男たちの姿だ。どうやら、女が男たちに絡まれている光景のようだ。
「やめて! 放して。私に構わないで」
「いいじゃねえか、ネエちゃん」
そのうえ、嫌がる女の腕を掴んで連れて行こうとしていた。
大変だ! このまま放って置いたらこの女の身が危険になる。そう思った途端――否、それ以前から攻める気でいたが――女の手を持つ暴漢を、〈うぐっ!?〉殴りつけていた! 口より先に、東の強拳が物を言ったいう訳だ。男はその場に倒れ込む。
何とも荒々しい、東の登場だったのだ! これには、残りの悪党も驚いたに違いない。
「て、てめえ、何すんだ!」そのため、この攻めを見たリーダーらしき男、豪が、怯んだ様子を窺わせながらも真っ先に叫んでいた。ところが、後に続く邪魔者がいないことを知るや否や、奴らは即刻強気に変貌したか?
「おい、誰だ? 俺たちに喧嘩をふっかけるとは、いい度胸だな」と粋がる態度を示した。
片や、東の方は挑発されようとも全く相手にしなかった。
「お前たちなど、名乗る価値もないわ」と言って、まるでゴミを見るような目つきで男たちを睨んだ。
ただし、その無礼な振る舞いが、結果的にさらなる怒りを買うことになってしまった。
「何だと、このやろう、俺たちを馬鹿にする気か? いいだろう。おい、先にこいつをやっちまえ!」と奴らは、意気込んだ。
とうとう戦いの始まりだ。
男が3人、東は1人、男たちの方が断然有利な状況だ。豪は真中で拳を構え、もう1人の男はナイフさえ出した。倒れた男もどうにか立ち上がって相対する。
それに比べ、東の方は全く自然体で動きに無駄がない。それでも、闘志は胸の中に潜めている。
……と、その直後、突然、空を切る音がして男がナイフで突いてきた!
東は素早くナイフをかわし、その手を受け止め抱え込んだ。続いて腕を締め上げ、「いてててー!?」男の悲痛な声と刃物の落下音を耳にした途端、男の腹を蹴り上げた! 次に連続技、豪の顔に肘打ちをあびせ、残りの男に後ろ蹴りを見舞った。
3人は呻き声を出し、痛々しい姿でその場に崩れ落ちた。
何と見事な強拳を見せつけたではないか! 男たちは苦痛に絶えて伏せるしかないようだ。そしてその間に、東は女に近づいて、
「大丈夫ですか?」と声をかける。悪人どもに注意を払い、女を庇うように後ろ向きで接近したのだ。東にとってチンピラ3人等、敵ではないが、怖がる女性は気がかりだった。
そして案の定、女は不安そうに東の真後ろで、ピッタリと隠れるように寄り添ってきた。
東は、これでどうにか彼女を救えたと思った。
ところが、そう安心した直後、「んっ!?」一瞬首にチクリとした痛みが走った? しかも、それと同時に、「残念ね、私は大丈夫なんだけど」という女の声が彼の耳元で囁かれたではないか!
「何?……」つまりそれは、唐突な裏切りの声? 「ま、まさか」東は、瞬時に後方を顧みた。
するとそこには、〝注射器〟を手にする女の姿があった! その顔に微笑みを浮かべ、「御免ねえ、騙して」と呟きながら……
何てことだ! 不覚にも、一瞬の間に首元へ注射されていたのだァー!
それでも……東は懸命に正気を保とうとした。
……が、駄目だ! もうどうしようもなかった。
そして、遂に彼は、為す術なく、その場に倒れ込んでしまったのであったァー!