第4章 業火と雷 -6-
不可視の斬撃が、ブラウンの髪の少女に迫る。
しかし、それが彼女の首に届くことはなかった。
「久しぶりだね、ファーフナー・クリームヒルト」
その澄んだ声は、雨の屋外にも良く通るものだった。それはまるで、独唱曲のように、たった一言で人の心を揺さぶっていた。
瞬間、見えないはずの斬撃は横から受けた何かによって霧散し、消失する。
「馬鹿な……ッ!?」
躱すことさえ困難なそれを、横から打ち消した。それだけで力量差など一目瞭然だった。故に、ファーフナーの顔は驚愕に染まる。
この声と、この力。
彼女に思い当たる人物がいるとすれば、ただ一人なのだから。
「私は君に、無関係な人間の殺傷を許可した覚えはないよ?」
小さく、ぬかるんだ地面を踏み締める音がした。
攻撃を阻害された方向へと、ファーフナーがゆっくりと首を向ける。
そこに、彼女はいた。
鴉の濡れ羽のような漆黒の髪。対照的なほどに透き通った白い肌に、繊細なガラス細工のようにキラキラと輝く大きな瞳。どれをとっても完璧で、まるで作られた人形のように完成された美しさがそこにはあった。
華奢な身体を覆うのは、黒と赤のジャケットとミニスカート。重い色を見事に着こなしてみせたその姿は、ある種の畏怖を背負っているようにさえ見えた。
彼女の姿を、ファーフナーが見間違えるわけがない。
その姿は、絶望の象徴。
戦闘狂を自負するファーフナーが、ただの一度たりとも戦闘を望まなかった少女だ。
「斉藤葵……ッ!?」
驚愕するファーフナーに対し、しかし葵は彼女から目を逸らして茶髪の少女へと声をかけた。――それは、ファーフナー如きでは自分の脅威になりえないと分かっているからだろう。
「……君の名前は?」
「七瀬七海、ですわ」
この場に現れた葵が味方なのか判断できずにいるのか、七海の声からは剥き出しの警戒心が見て取れた。
しかし、気にした様子もなく葵は続けた。
「そう、七海ちゃんね。私は敵じゃあないから安心して。――それで、七海ちゃんに二つ、お願いを聞いてほしいの。今の窮地を助けたお礼ってことにしてほしいんだけど」
「……内容次第ですわね。それに、この程度でわたくしが負けたとも思っていませんわ」
一見強がりのようにも聞こえるが、おそらくこれは七海の本心だろうと葵は思う。
ただの足止めでしかないと言うのに、彼女の瞳に宿る力はとてもそう思えない。絶対に負けられないという覚悟が、そこにはある。
そしてこの瞳を持つ者は、たとえどれほど傷つけられようとも勝利を掴む。
葵は知っている。こういう瞳をしたたった一人の少年を、彼女は何年も孤独と罪悪感に苛まれながら、それでも愛し続けたのだから。
「分かっているよ。その眼は、本当に羨ましいくらい強いんだもん」
小さく葵は呟きながら、葵は人差し指を立てた。
「一つ目のお願いは、今から私がファーフナーを倒すけれど、その手出しをしないでほしいっていうこと。出来るなら自分の身を護るように盾を作るか、少しでも距離を取ってほしい」
戦うのではなく、倒す。
それが確定できるほど、彼女とファーフナーの間には隔絶した力の差がある。
「二つ目のお願いは、柊哉たちには『ファーフナーは七海ちゃんが倒した』ことにしておいてほしいっていうこと。間違っても私の名前を出したりはしないで」
「その理由は?」
「王族狩りの残党は、党首だった私が狩るのが道理でしょ? けれど柊哉たちはきっと、私が外に出てくると混乱するから」
言うだけ言って、葵は七海とファーフナーの間に割って入った。
「……マスター、いや、斉藤葵。何故君が、もう既に釈放されている?」
「この時代、司法取引なんて珍しくもないでしょう? それに政府はソレスタルメイデンを嫌っている。対抗できる人材を確保したいんじゃないかな」
ソレスタルメイデンは、そもそも日本の制度ではない。英国発祥の組織がそのまま世界的に認められ、各国にその権利を認めさせた形だ。
自国の中を他国の組織が引っかき回すことを快く思うわけがない。しかし、ソレスタルメイデンの力がなければどうしようもないほど、天装の力は危険だ。
だから、斉藤葵のように元ファーレンの人間を政府が雇うというのはありがちな話ではあった。もちろんそのほとんどが、週刊誌のゴシップ記事のようなレベルではあったが。
「と言っても、政府の特殊機関なんかじゃなく、一応ソレスタルメイデン扱いだけどね。ソレスタルメイデンの方も私くらいの力が政府に就くのは嫌みたいで、早々に私の見習い免許を復活させているし」
つまり今の葵は政府とソレスタルメイデンの間で奪い合われている、と言ったところだ。あるいはそうなるように誰かの手引きがあったのかもしれない。二組織が取り合うとなれば、罪状を無視してでもその処遇は必然的に良くなるから、誰かがそれを狙ったのだろう。
とは言えどちらの側に就くにしても、二度とファーレンとしての悪事を働かないことを前提とされているのは確かだ。故に彼女はこうして王族狩りの残党を狩ることで、自らが改心したことを証明しなければならない。
「自らの自由の為にかつての同胞を売った、と? 随分と非道な真似をするな」
「同胞? 面白いことを言うね」
口元に手を当てて、少し上品に葵は笑っていた。
そして彼女の瞳が、僅かばかりの殺気で満たされる。
「――私は一度だって、君たちを仲間だなんて思ったことはないのに」
ぞくりと、背筋が凍るような声だった。
葵自身は、ファーフナーを脅すようなつもりで言ったわけではない。その声音も、きっとどこにでもいる女子高生が喫茶店で会話を交わすような、平凡なものだったかもしれない。
だが、だからこそ恐ろしい。
これほど冷徹なことを、彼女自身が全くそう思わずに言えてしまう。それはもう彼女の中の何かが、決定的に壊れている証のように思えた。
「……くく、なるほど。ならば私も、何の遠慮もなく君を叩き伏せていい訳だな?」
チキ、とファーフナーの握るクレイモア型天装――バルムンクが動く。
その切先は、真っ直ぐに葵の喉元へと向けられていた。
「君は自分の力を誤解しているようだ。事の顛末は既に報道されているぞ? 君が元いた王族狩りの党首を殺したのではなく、ただ偶然その場にいただけだと」
「それが、どうかした?」
「君の実力では、王族狩りの党首には立てなかったという話さ。我々が恐れ、崇めたのは『党首を殺し、炎帝・迦具土神を奪った斉藤葵』だ。前提も崩れ、肝心の王族神器も剥奪された君を、どう恐れろと?」
ファーフナーの浮かべた余裕の笑みを嘲るように、葵は小さくため息をついた。
「なるほど、確かに私は君たちが思っていたより弱いかもしれない。――でも、ね」
葵が腰に手を回す。
そこから取り出したのは、一丁の拳銃だった。
「君が私より強いなんて言うのは、哀れ過ぎる妄想だよ」
真紅に輝くその大きな銃を、葵は真っ直ぐにファーフナーへと向けた。
その銃の名は『サジタリウス』
葵が迦具土神を手に入れる前に彼女が使っていた天装であり、彼女が最も愛した天装だ。
「王族神器を持たない君が、私に勝てると?」
「飼い犬に手を噛まれるほど、私は天然じゃないつもりだよ?」
言葉と攻撃が交差したのは、ほぼ同時だった。
葵の頬を不可視の斬撃が掠め、紅の火球がファーフナーの左太ももを撃ち抜く。
「――ぐ……ッ!?」
物理的に立つことを不可能にされ、ファーフナーはその場に膝を突く。
だが葵が受けたダメージは、頬に残る一文字の微かな切り傷だけだった。
「いつも言っていたでしょ? D型の補助天装に頼り過ぎているとそうなるって」
だが、七海が放った高圧水流でさえ大したダメージを与えられなかったというのに、たった一撃で太ももを貫通したのだ。それだけの威力の差を考慮しろ、と言う方が無茶だ。
「幸いなことに、私のサジタリウスと君のバルムンクの主力天装の価値は、まったくの同列だよ。この意味が分かるよね」
ファーフナーの顔が歪む。それは、自身の力を侮辱されたからに他ならない。
「機動力を奪ったつもりか……。だが、私のバルムンクに間合いなど関係ない」
「なら、斬ればいい」
葵は笑って言う。その笑みはどこまでも嗜虐的に見えた。
「でも君にはそれが出来ない。分かっているはずだよ、ファーフナー。かつて君が私の怒りを買ったときに、君はもうこの結末を察していたはずなんだから」
強者との戦闘を彼女は望んできた。それだけがファーフナー・クリームヒルトの存在理由だと言わんばかりに、彼女は戦闘に飢えていた。
それは勝利への渇望ではない。現に彼女は、自身より遥かに強い柊哉の母――高倉美穂との戦闘にさえ喜んでいたのだから。
だがその彼女が、ただ一度その身を引いた。葵に戦いを挑むと同時それは戦闘にすらならずにただ虐殺されることを、彼女は本能的に理解していたのだ。
「チェックメイトだよ」
銃口をファーフナーの頭蓋へと向け、葵は宣言する。
「図に乗るなよ。斉藤葵!」
ファーフナーは叫びながら、そのバルムンクを幾度となく振り回す。
無数の不可視の斬撃が、躱す隙間さえなく葵へと向かう。
だが葵はそれが向かうと同時に、空中へと飛んでいた。
サジタリウスを地面へと向けて撃つことで、ロケットエンジンのように爆発的な推進力を得たのだ。
追いかけるようにファーフナーが宙へと斬撃を飛ばすが、葵は元の太刀筋から軌道を予測し、その全てを躱していく。
紅の炎が尾を引く中で、斉藤葵は空を舞う。その姿には、どこか神秘的にさえ見えるほどの美しさがあった。
「チェックメイトっていうのは、王手じゃなくて詰み――どう足掻いても命が次の手で取られる状態を言うんだよ。僅かな抜け道だって、そこにありはしない」
見えないはずの斬撃にさえ、葵は反応できていた。
それは彼女の持つ補助天装がF型であるから――すなわち五感全ての増強に特化しているからだ。ファーフナーの僅かな動きの際さえ彼女の瞳にはしっかりと映る。故に、彼女は攻撃に当たることはない。
もし彼女の目から逃れることの出来る人間がいるとしたら、それは高倉柊哉や鹿島メイのような、自己加速に特化したソレスタルメイデンだけだろう。
「君の負けだよ、ファーフナー・クリームヒルト」
くるりと空中で一回転し、ファーフナーの頭上から彼女はその引き金を引いた。
直径五メートルを超える業火の塊が撃ちだされる。
それは竜の唸りのような音と共に触れる雨粒を瞬時に蒸発させながら、ファーフナーの身体を呑みこんだ。
D型の補助天装の防御力など紙切れ同然だった。彼女の身体は焼かれ、その圧力を前に押し潰される。それでもなお原形を留めているどころか微かとはいえ息をしているのだから、ファーフナーの堅さには驚かされるだろうが。
「……圧倒的、ですわね」
「それでも、柊哉の足元にも及ばないんだけどね」
地面に降り立った葵に、七海が声をかける。その眼差しには羨望と共に、嫉妬が混じっているように見えた。
「私はこれで帰るよ。ファーフナーは回収しておくから、ここら辺の焦げ跡を隠しておいてくれないかな?」
「構いませんわ。――けれど、会わなくてよろしいのですか?」
小さな妬みを振り払うように頭を振って、七海は問いかけた。
七海もここに来る前に、柊哉たちから王族狩りの話は聞いている。その間にあった感情の渦を知っていればなおさら、葵は柊哉と話をするべきだと思ったのだ。
けれど、葵は小さく頷いて答えた。
「私が柊哉にしたことは、そう簡単に赦されることじゃない」
雨音にさえかき消されてしまいそうなほど、弱く、儚い声だった。
「だから、ね」
しかし葵は、笑みを浮かべていた。
「いつか、柊哉から私に会いに来てくれるまで、ずっと、私は待つって決めたから」
その微笑みはどこまでの少女らしい、可憐に輝くものだった。