第4章 業火と雷 -5-
ざっ、と音がした。
水のランスが大地に突き刺さる。
それは、七瀬七海が膝をついた瞬間だった。
「――はっ、はっ……」
どうにか荒い呼吸を整えようとするが、空気は喉を回るばかりで身体に入っているように思えない。
降り出した雨は勢いを増し、足元の芝のように生える雑草の上に小さな水たまりを作っている。その冷たさが心地いいと感じるほどには、彼女の身体はエネルギーを消費し過ぎて火照っていた。
「息巻いた割には、その程度か」
目の前に立つファーフナーは、息一つ切らしてはいない。
「残念だよ。中々に君はいい動きをするのだがな」
「貴女の身体が、馬鹿みたいに堅いだけですわ……ッ!」
事実、七瀬の攻撃をファーフナーは躱すことなく、全てをその身に受けていた。だが彼女の身体はそれ自体が盾であるかのように彼女にダメージが通らない。
対するファーフナーの攻撃を、七瀬は全て躱さなければならない。いくら超能力者と言ってもその身体はただの人とそれと同じだからだ。
攻撃してもダメージは与えられない上に、こちらは全て躱さなければならない。体力も集中力も一方的に消費するばかりだ。
「殺す気で来い。でなければ、君が死ぬぞ?」
ファーフナーはそう言うが、これでも七瀬は全力を出している。
元々彼女は一撃の威力に欠ける。通常の殺傷能力に関しては十二分ではあるのだが、それ以上ではない。それは、液体操作能力者そのものが海上戦闘を想定して作られているからだ。
個人対個人の戦闘において、液体操作能力者の真価は発揮されない。
(奥の手はある……。けれど、それが通用するのはおそらく一度きりですわ)
賭けるには余りに分が悪い。だがそれでも、七瀬の手数はそれに頼らないで済ませられるほど多くない。
「どうした? 万策尽き果てたというのなら、君の首を刈るが?」
「余り、油断はなさらない方がいいですわよ?」
ぐっと力を込めて、七瀬は立ち上がる。
「能力者を、甘く見ないで下さい」
同時、七瀬は大地を蹴る。
先程と同様に水のランスを握り締めて、愚直にそれを振りかざす。
「それは通用しないと、まだ分からないか?」
彼女は防ぐ素振りも躱すそぶりもなく、呆れたように七瀬へとそのクレイモアを向ける。
その刹那を、七瀬は狙う。
「終わりですわ」
勝利を確信し、七瀬は笑みを浮かべる。この至近距離で七瀬が攻撃を外すことは絶対にない。――そしてそれは、当たれば必殺。自分よりも高位の能力者である東城も柊も、かつてこれを繰り出したときは避けるか攻撃自体を打ち消すしかなかった。
水のランスが、姿を消した。
瞬間、七瀬の右手から放たれた不可視の斬撃が、ファーフナーの胸元へと襲いかかった。
余りの威力に立っていられなかったのか、ファーフナーはそのまま後方へと数メートル吹き飛ばされ、雨にぬかるんだ大地へと叩きつけられた。
「高圧水流。形状操作が苦手な私が、たった一瞬だけ生み出すことの出来る必殺の刃ですわ。たとえどれほど分厚い鋼板を用意した所で、これを防げるはずがありません」
雨に濡れた髪を掻き上げて、七瀬はようやく安どのため息を漏らす。あの防御力だったのだから流石に死んではいないはずだが、それでも軽傷だったとは思えない。
――なのに。
「なる、ほど……。流石に今のは、堪えたよ……ッ!」
七瀬の視線の先で、ファーフナーの身体が動く。
ゆっくりと、まるで屍が蘇るかのように彼女が起き上がる。
「な――ッ!?」
確かに七瀬の攻撃は当たった。だというのに、ファーフナーはその一撃すら耐えきって見せたのだ。
その特徴的な黒いイブニングドレスは、胸の谷間を中心にノの字に大きく裂けている。その下の皮膚も当然斬られたせいで血を流している。
だが、所詮はその程度。
七瀬の刃は骨にも肉にも届かず、彼女の皮を浅く裂いた程度だったのだ。
「だが奥の手だったのだろう……っ? どうやらこれで、私の勝ちは確定したようだ」
ゆっくりとファーフナーはそのクレイモアを構える。だがその間にも、七瀬には何も出来ない。
水のランスも、高圧水流も通用しない。霧による空間制御、周囲を水で満たした圧殺。他にも七瀬には手があるが、それが高圧水流よりも彼女に有効だとは到底思えない。
万事休す。
「いや君は実によく戦ってくれた。せめて君には、私の本気の一撃を見せておこう」
クレイモアを試し斬りでもするように空気を斬りながら、ファーフナーは言う。
その瞬間彼女を中心に烈風が巻き起こる。それは七瀬にどうしようもない不安を駆り立てる。
(この距離では、クレイモアの間合いの外ですわ。いったい、何を――)
思考を張り巡らす間も与えず、ファーフナーはクレイモアを振りかぶる。
放たれた殺気は紛れもなく本物だった。――この距離で、この一撃で、ファーフナーは七瀬を仕留める気だ。
とっさの判断でその場から飛び退こうとする七瀬だったが、そこでがくりと膝が折れた。
「足が……ッ!」
元々一方的に体力を消費させられていたが、挙句にこの雨だ。
基本的には水の影響を受けない七瀬でも、ぬかるんだ地面には足を取られるし、濡れた身体では体力の消耗も増していく。七瀬の体力は、彼女が想定していたよりも遥かに早く底をついていた。
「終わりだな」
その様子をファーフナーは哀れんだように一瞥し、しかし躊躇することなくクレイモアを振り下ろす。
見えない何かが、しかし、確かな速度で七瀬の首へと迫る――