第35話 家宝の剣と影の気配──青年が渋々伸ばした手
領主邸の門をくぐった瞬間、ドロルは眉をひそめた。
空気が重い。湿った魔力が肌にまとわりつくような、嫌な感覚だ。
窮奇が低く唸る。
「主殿……この屋敷、何者かが侵入を試みておるぞ」
「……だから来たくなかったんだよ」
ドロルは肩をすくめた。
領主家と関わるのは面倒だ。迷宮都市がどうなろうと構わない。
危険になれば窮奇と逃げればいい──それがドロルの本音だった。
兵士に案内され、二人は領主代理アランの部屋へ向かう。
扉が開くと、アランが深く頭を下げていた。
「ドロル殿……来てくださり、本当にありがとうございます」
ドロルは淡々と答える。
「話だけ聞きます。護衛を受ける気はありません」
アランの肩がわずかに震えた。
青年らしい弱さが滲む。
「……父は暗殺されました」
アランは静かに語り始めた。
「毒か、魔術か……方法すら分かりません。
主治医は行方不明。侍女は突然辞め……
屋敷の結界も破られかけました」
ドロルは表情を変えない。
「お気の毒ですが、私には関係のない話です」
アランは唇を噛む。
それでも続けた。
「あなたが商人を護衛してくれなければ……
私は治療薬を受け取れず死んでいました」
「幻肢痛も……あなたが治療してくれた。
私は……あなたに命を救われたのです」
ドロルは軽くため息をつく。
「商人の依頼を受けただけです。あなたを助けるつもりはありませんでした」
アランは一瞬、言葉を失った。
それでも、必死に続ける。
「商人から聞きました。
窮奇殿が隣領の兵士を無力化したと」
ドロルは内心で眉をひそめる。
(本当は俺だけど……まあ、言う必要はない)
アランは続けた。
「兵士たちは森で魔獣に殺されたと……森は危険な場所ですから」
「ですが──兵士が商人を襲ったのは“自然”ではありません。
誰かが動かしているのです」
ドロルは短く答える。
「……それは否定しません」
アランは深く息を吸い、震える声で言った。
「どうか……私を守ってください。
あなたしか頼れないのです」
ドロルは即答した。
「断ります」
アランの顔が青ざめる。
「……っ」
ドロルは淡々と続けた。
「私は迷宮都市がどうなろうと構いません。
この都市の住民ではない。
危険になれば窮奇と逃げます。
あなたを守る理由はありません」
アランは絶望したように俯いた。
その手が震えている。
やがて、アランはゆっくりと箱を開いた。
中には、古い銀の光を放つ宝剣があった。
「……これを」
アランは震える手で差し出す。
「父が保持していた家宝の宝剣です。
どうか……これを報酬として受け取ってください」
ドロルは宝剣を一瞥し、静かに言った。
「宝剣だけでは受けません」
アランは息を呑む。
それでも、必死に続けた。
「……金貨も支払います。
護衛の間、依頼を受けられず収入が途絶えるのは理解しています」
アランは少し言い淀む。
毒殺の恐怖があるのだろう。
慎重に言葉を選んでいる。
「食事は……その……」
「私と同じ物を。
毒の心配がないようにして……同じ料理を出します」
「寝床は……私の寝室の隣の部屋を使ってください。
護衛のためにも、その方が……良いでしょう」
窮奇が鼻を鳴らす。
「主殿、これは悪くないぞ。
宝剣、金貨、食事、寝床……依頼として十分じゃ」
ドロルは少し眉を寄せた。
面倒事は嫌いだ。
本当に嫌いだ。
だが──条件は悪くない。
そして、アランの必死さは本物だった。
その時だった。
窓が黒く染まり始めた。
影がじわりと広がり、部屋の空気が冷たくなる。
アラン
「な、なんですか……これ……?」
窮奇
「影じゃ!迷宮の魔獣の気配!」
ドロル
「……アラン殿を狙っている」
影は窮奇の咆哮で弾けるように消えた。
アランは震えた声で言った。
「本当に……私を……?」
ドロルは静かに答える。
「ええ。あなたは“影の標的”です」
部屋に静寂が落ちた。
アランは震えながらドロルを見つめている。
ドロルは深く息を吐いた。
(……面倒だ。本当に面倒だ)
(だが、この状況で放置すれば、アランは確実に死ぬ)
ドロルはゆっくりと口を開いた。
「……分かりました。護衛を引き受けます」
アランの目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます……!」
ドロルは肩を落とした。
「……本当に面倒事は嫌いなんだよ」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、青年の姿をした老練な冒険者の、静かな本音だった。




