第三十ニ夜:零れた星と、錆びた楔
深夜の帳が、王都をすっぽりと覆っていた。
人通りの途絶えた路地を、ひとりの青年がふらふらと歩いている。
ローブの裾は泥に汚れ、袖には焦げ跡が残っていた。
その青年――エリオットは、何度も足を止めながら、それでも一つの灯りを目指していた。
BAR『白の記憶』。
カラン。
扉のベルが鳴る。
「……いらっしゃいませ」
カウンターの奥にいた蓮が顔を上げた。
エリオットは返事をしなかった。
そのままカウンターまで歩いてくると、椅子に身体を投げ出すように腰を下ろした。
「マスター……」
「はい」
「一番強い酒をくれ」
蓮は静かに青年を見る。
「何か、ございましたか?」
「……何もないよ」
乾いた笑いが漏れた。
「何も、なくなったんだ」
エリオットは自分の手を見つめた。
細く、傷だらけの指。
その指先には、かつて何度も魔法陣を描いた痕が残っている。
「俺は、王立魔術研究所でずっと研究してた」
誰に話すでもなく、青年は呟いた。
「新しい術式を作ろうとして……失敗した」
「……」
「魔力をほとんど失った」
エリオットは笑った。
笑おうとして、失敗したような顔だった。
「研究所からも追い出されたよ」
しばらく沈黙が続いた。
「もう魔法が使えない」
その言葉だけが、静かな店内に落ちた。
「だったら……俺には、何が残ってるんだ?」
蓮はすぐには答えなかった。
棚から一本のスコッチ・ウイスキーを取り出す。
平らなロックグラスに、大きな氷を一つ。
そこへ琥珀色の液体を静かに注ぐ。
続いて、蜂蜜とハーブの香りを持つドランブイを少量。
ステアする。
氷が、カランと鳴った。
「お待たせいたしました」
グラスを青年の前へ置く。
「『ラスティー・ネイル』でございます」
エリオットはグラスを見つめた。
「……錆びた釘、か」
「ええ」
「今の俺には、ぴったりだな」
自嘲しながら、グラスを持ち上げる。
そして、一口。
スコッチの力強い煙。
その奥から広がる、蜂蜜のような甘さとハーブの香り。
苦みと甘みが重なり、最後には静かな余韻が残った。
「……苦い」
「そうですね」
「でも……甘い」
「ええ」
エリオットはもう一口飲んだ。
「なんだよ、これ……」
グラスの中で、氷がゆっくりと溶けている。
「最初は強いのに……時間が経つと、少しずつ味が変わる」
「お酒も、人も同じなのかもしれません」
蓮は静かに答えた。
「強さだけでは、最後まで味わうことはできませんから」
「……」
「魔力を失ったからといって、あなたが積み重ねてきたものまで消えたわけではありません」
エリオットの指が止まった。
「研究者として過ごした時間も、失敗した実験も、書き残した術式も」
蓮はグラスを磨きながら続ける。
「それらは、魔力とは別の場所に残っています」
「……でも、魔法が使えなければ研究なんて――」
「本当に?」
短い言葉だった。
エリオットが顔を上げる。
「あなたが失ったのは、魔法を使う力です」
蓮の声は穏やかだった。
「知識まで失ったわけではありません」
「……」
「ならば、まだ研究者を辞める理由にはならないでしょう」
エリオットは何も言わなかった。
ただ、グラスの中の琥珀色を見つめている。
やがて、震える手で懐から一冊の古びたノートを取り出した。
表紙には、何度も書き直した術式の名前が並んでいる。
「……これ」
「はい」
「失敗した術式の記録なんだ」
エリオットはページを開いた。
「何百回も書き直した。魔力が足りなくて、最後まで完成しなかった」
「では」
蓮はノートを指差した。
「魔力を使わずに、その術式を研究してみてはいかがですか?」
「……魔力を使わずに?」
「ええ」
エリオットの目が、わずかに動いた。
「理論だけなら、紙の上でも追えます」
「……」
「失敗した理由を探すこともできる」
青年の呼吸が、少しずつ変わっていく。
「そして、いつか誰かがあなたの研究を引き継げるかもしれません」
エリオットはノートを握りしめた。
何度も捨てようとしたものだった。
何度も、自分自身の失敗の証だと思った。
けれど今は――
そこに残っている文字が、別のものに見えた。
「……俺」
小さな声が漏れる。
「まだ、研究者なのかな」
「それを決めるのは、魔力ではありませんよ」
蓮は微笑んだ。
「あなた自身です」
長い沈黙のあと。
エリオットは、残った酒をゆっくりと飲み干した。
「……もう一度、最初からやってみる」
立ち上がった青年の顔には、先ほどまでの絶望が少しだけ薄れていた。
「魔法が使えなくても、研究はできる」
「ええ」
「失敗した理由を、全部調べ直す」
「それがよろしいかと」
エリオットはノートを抱え直した。
そして、扉の前で一度だけ振り返る。
「マスター」
「はい」
「……今度は、成功したら一番に見せに来るよ」
蓮は静かに頭を下げた。
「楽しみにしております」
カラン――。
ベルの音が響く。
青年の姿が、夜の向こうへ消えていった。
蓮はしばらく閉じた扉を見つめていた。
やがて、カウンターへ戻る。
空になったグラスの底には、一滴だけ琥珀色の液体が残っていた。
その一滴が、店の灯りを受けて静かに揺れる。
失ったものは、戻らない。
けれど――
残ったものから、新しい何かを始めることはできる。
カラン。
店の奥で、氷が小さく鳴った。
夜は、まだ続いていた。




