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二つの真波

調律局新東京本部、最上階。


執行官会議。局長代理を含む、十二名の前に、男は立っていた。


「報告を」


局長代理が命じた。


「コードネーム『海鳴り』事象、終結。対象は『還化』し、現在は気仙沼にて、地域社会復興支援活動に従事」


「凪化ではないのか」


「凪化ではありません」


男は、正直に答えた。


「対象の感情構造は、維持されました。ただし、局の適用範囲からは外れました」


「それは、失敗だ」


「いいえ」


男は、否定した。


「局の目的は、『感情の安定化』です。対象は、安定しました。ただし、局の方法ではない方法で」


会議室に、ざわめきが起こった。


局長代理が、手を挙げて静寂を求めた。


「あなたは、『共鳴融合体』だ。Mの遺伝子情報を含む、異常存在だ。その特殊性を、局にどう貢献できると考える」


男は、一瞬、目を閉じた。


Mの記憶。最期の感情。期待。


そして、自分の記憶。執行官としての訓練。義務。効率。


二つが、重なり合った。


「私は、『問い』を持ちます」


彼は言った。


「対象に対して、『なぜ歌うのか』と。そして、自分自身に対して、『なぜ凪化するのか』と」


「それは、局の教義に反する」


「いいえ」


男は、微笑んだ。


「局の教義の根源に、立ち返るものです。調律とは何か。安定とは何か。私たちは、それを忘れかけていました」


沈黙。


局長代理が、久瀬を見た。彼女は、無表情で、頷いた。


「——仮承認する」


局長代理は、言った。


「あなたを、『特別執行官』として任命する。通常の適用対象以外の、『還化可能性あり』対象のみを担当。報告は、直接、局長代理室へ」


「感謝します」


「ただし」


局長代理は、鋭く見据えた。


「あなたが、『還化』の対象になった場合——」


「自分で凪化します」


男は、即座に答えた。


「それが、できれば、の話だが」


「できます」


男は、胸に手を当てた。


「Mと、練習しました」


---


夜。新東京の、局の宿舎。


男は、窓から街を見下ろした。無数の窓。無数の灯。それぞれに、コード化された感情が、流れている。


その中に、Mはいない。


しかし、男の中にはいる。


「今日は、何をした」


Mの声が、聞こえた。


「会議に出た。任命された。そして——」


男は、言葉を探した。


「あなたの『灰』を、確認しに行く約束を、果たした」


*「消えていたな」*


「消えていた」


*「それでいい」*


男は、頷いた。


「次は、海を見に行く約束だ」


*「ああ。タカコと一緒にな」*


「一緒に」


*「お前は、変わったな」*


「あなたが、変えた」


*「違う」*


Mの声が、初めて、明確な笑いを含んだ。


*「お前が、選んだんだ。私を取り込んで、私を超えて。それが、『道』というものだ」*


男は、窓ガラスに、自分の顔を映した。


そこには、二人の顔があった。執行官の、そしてMの。


しかし、もう区別はつかない。


「おやすみ、M」


*「おやすみ、真波」*


二人の声が、重なり合って、消えた。


窓の外では、新東京の夜が、深まっていく。



**【完】**



【エピローグ:海の見える丘】


十年後の春。


気仙沼の、海の見える丘に、小さな建物が建っていた。木造の、瓦葺きの、調律局の建築基準からは大きく外れた構造。窓が多く、扉は常に開いている。


表札には、**「還化相談所」**と書かれていた。


中庭では、白髪混じりの男が、若い女性と向かい合って座っていた。男の顔には、年月の皺が刻まれている。しかし、瞳だけは、十年前と変わらず、二重の色を帯びていた。


「——だから、私は歌いたいんです」


女性は、声を震わせていた。二十歳前後。調律局の適用を受け、感情のコード化が進行している最中だった。


「しかし、歌うと、周りの人が困るんです。コード化された感情が、乱れるって」


「それは、歌のせいではない」


男は、静かに言った。


「周りの人々が、自分の感情に、向き合っていないからだ」


「どうすれば——」


「あなたの歌を聴けばいい」


男は提案した。


「ただし、押し付けないように。強制しないで。彼らが、自分から寄ってくるまで、待ちなさい」


「待ち続けるなんて——」


女性が俯いたとき、隣の部屋から歌声が聞こえてきた。優しい、伸びやかなメロディ。かつて「海鳴り」と呼ばれた声よりも、ずっと透明で、温かい。


「タカコさんの歌声だよ」

男は言った。「彼女も、昔は君と同じ悩みを持っていた。十年かけて、少しずつ学んだんだ。歌の伝え方を」


女性は、立ち上がって障子を開けた。縁側の向こう、桜の咲く丘の上で、白髪の老婆がギターを弾きながら歌っていた。その傍らで、三人の子どもたちが踊っている。調律局の規格から外れた自由な動きで。


「美しいでしょう」

男は女性の肩に手を置いた。「あれが、『還化』の形だ」


「あなたは——」

女性が振り返った。「真波恒一さんですよね? あの『双方向凪化』の——」


「噂になっているらしいな」


男は苦笑した。「私は単なる窓口係だ。本当の奇跡は、タカコさんたちが起こしている」


女性は深く息を吸い込んだ。海の匂い。潮の香り。十年間、避けてきた自由の香り。


「私も——やってみたいです」

「まずは、君の好きな歌を見つけなさい」

男は勧めた。「焦らないでいい。時間は、たくさんある」


---


夕暮れ時。


相談所の裏庭で、男——真波恒一は一人佇んでいた。沈みゆく太陽が、太平洋に赤い線を描いている。Mが憧れた海。今は自分の日常となった海。


胸の奥で、声がした。


*「久しぶりだな」*

「最近は忙しくてね」

男は、海に向かって答えた。

*「たくさんの『歌』を聞いてきた」*

「君の指導のおかげで」

*「私の教えなんて、大したことじゃない」*

Mの声は穏やかだった。

*「お前が見つけたんだ。自分の道を」*

男は海風に目を細めた。

「それでも——時々思うよ。君は今も、ここにいるべきだったんじゃないかって」


*「過去に囚われるな」*

Mは厳しい口調で言った。

*「私が囚われていたようには、なってくれるな」*

「……分かってる」

男は自分の掌を見た。Mの形見である紫杉醇耐性の爪が、少し伸びていた。


ふと、建物からタカコが出てきた。七十を超えてもなお、若々しさを感じさせる姿勢で。


「客が帰った?」

タカコが聞いた。

「今さっき」

「良かった」

彼女は男の隣に立ち、海を見つめた。

「今日の夕焼けは、葛巻みたいね」

「そうだな」

男は同意した。

「行くの?」

「ああ。一年ぶりだ」

「私も行くわ」

タカコが唐突に言った。

「……冗談だろう?」

「本気よ」

彼女は笑った。

「十年経ったら行きたいって言ってたのに、あなた一度も誘わないんだもの」


男は空を見上げて笑った。二重の笑いが自然に溶け合った。


---


深夜。


気仙沼港に停泊する小型クルーザー。あの日、男が「海鳴り」に向かうために使った船の改良型だ。調律局の予算からは外れ、純粋な民間資金で建造された。


操縦室には二人と、木箱が一つ。


葛巻の土が入った箱。男が毎年持ち帰り、毎年還す、巡礼の品。


「本当に必要なの? その土」

タカコが訊いた。

「象徴だ」

男はエンジンをかけながら答えた。

「あるべき場所へ、帰らせるという意味で」

「詩的ね」

「Mの影響だ」

クルーザーは静かに港を出た。月明かりの道を、北へ。岩手へ。


四時間後。


かつての展望台は、もう展望台ではなかった。地元のワイナリーが管理する「祈りの場」に改修されている。夜間でも、遠目にわかる灯りが常備されている。


男は、灯りの下に立った。


「ここで、君は終わった」


Mの記憶が、鮮明に蘇る。紫杉醇の匂い。臓器停止の瞬間。それでも歌い続けた喉。最後の光。


*「ここで、お前は始まった」*

Mの声が、付け加えた。


男は木箱を開け、土を手に取った。冷たい。夜露に濡れている。


「あなたは——」

タカコが、後ろで見守りながら尋ねた。

「何を見ているの?」


男は答えなかった。ただ、土を握りしめ、目を閉じた。


Mの「灰」はもうない。十年前に消えた。しかし、ここには別のものがあった。


**記憶の層。**

無数の訪問者が、ここに残した感情。Mの名を呼び、自分の歌を捧げ、そして去っていく者たちの。還化された者たちの。凪化を免れた者たちの。


男は、それら全てを感じ取ることができた。Mの能力と、自分の訓練が融合した、第三の感覚で。


「私は——」

男は、ついに言った。

「何も見ていない。ただ、聴いている」

「何を?」

「声を」

男は微笑んだ。

「すべての、歌われた声を」


タカコは、彼の横に並び立った。二人で、山の稜線を見つめた。遠くに、朝焼けが始まっている。


Mの声が、最後に響いた。


*「お前の歌は、どんなだ?」*

「私には、歌はない」

男は答えた。

「ただ、問いがある」

*「それでいい」*

Mの声が遠ざかっていく。

*「問いがある限り、お前は生きている」*

「そして、あなたも」

*「ああ——」*

声が、風に溶ける。

*「私も、生きている」*


男は、土を地面に還した。


一年の巡礼が終わった。しかし、問いは終わらない。永遠に。


タカコが、そっと手を握った。


「帰ろう」

「ああ」


二人は、クルーザーへと歩き始めた。背後で、朝日が山の端を染め上げていく。


葛巻の空は、十年前と同じように、赤く燃えていた。


---


**【エピローグ二:碑文】**


さらに五十年後。


調律局は存在しなくなっていた。2040年代の「感情再定義革命」により、その機能は公的医療システムに統合された。


かつての葛巻町は、「還化の里」として知られるようになっていた。世界中から、感情のコード化に苦しむ者たちが訪れる。そして、多くは変わらずに帰り、一部は新しい生き方を見つける。


丘の「祈りの場」には、小さな石碑が建てられていた。


**銘はない。**

**ただ、二つの爪型の彫刻がある。**


年配のガイドが、訪問者に説明していた。


「これは、二人の人物を表しています。一人は、調律局の執行官。もう一人は、適用対象。彼らはここで融合し、新しい道を開きました」


「名前は?」

訪問者の少女が尋ねた。


「残されていません」

ガイドは微笑んだ。

「名前は、歌の中にしかありません。それぞれの人が、それぞれの歌で呼ぶ名前です」


少女は、石碑に触れた。朝露に濡れた石は、微かに温かかった。


遠くで、誰かが歌い始めた。


その声は、男のものでも、女のものでもなかった。しかし、どこかで聞いたことがあるような——二重の、重なり合う——


少女は目を閉じた。


風が吹き抜けた。


葛巻の空は、いつもと同じように、青かった。



**【完全終了】**

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