二つの凪化
タカコの「凪化」は、Mのそれとは異なった。
Mは、自己を解放した。外へ向かって、爆発するように。
タカコは、自己を取り戻した。内へ向かって、凝縮するように。
男は、彼女の手を取った。物理的な接触。Mの経験では、これは危険だった。双方向凪化は、感情の共鳴が前提だ。しかし、タカコの場合——
「あなたは、歌うのをやめてほしいの」
タカコが、初めて「問い」を発した。
「歌わなければ、私は——何も、ない」
「違う」
男は、彼女の手を握りしめた。
「歌は、あなたのものだ。他者を吸収するための道具ではなく、あなた自身を表現する手段だ。それを、思い出してほしい」
「思い出す?」
「初期化前の、あなたの歌を」
タカコの目に、涙が滲んだ。長い間、感情を「溜まり」として蓄えていた目が、初めて「窓」として機能し始めた。
「——父が、船を出す日」
彼女は、言った。
「朝早く、港で歌った。出航の祝い。漁の安全を祈る。それが、私の——」
声が、途切れた。
男は、待った。Mが教えてくれたことを。押さないこと。急がないこと。相手の時間を、尊重すること。
タカコが、歌い始めた。
今度は、**違う歌**だった。
吸収する歌ではない。祝福する歌。送出す歌。境界で、別れを告げる歌。
その歌声に合わせて、男も歌った。Mの歌を。二重の旋律が、海上に広がる。
これは、凪化ではなかった。
**「還化」**だった。
失われたものを、取り戻す。閉じたものを、開く。溜まったものを、流す。
タカコの身体が、光を帯び始めた。しかし、それは爆発ではなく、**灯**だった。港の灯台のように、一定の場所で、一定の明るさで、存在を示す光。
「あなたは——」
タカコが、男を見た。
「誰なの」
「真波恒一」
男は答えた。「調律局執行官。そして——」
少しの間、ためらった。
「Mの、道筋だ」
タカコは、頷いた。彼女の目に、もう「溜まり」はなかった。代わりに、「問い」があった。
「私は、どうすればいい」
「歌い続ければいい」
男は言った。「ただし、自分のために。自分の言葉で。誰かを吸収するためではなく、誰かに——届けるために」
「届ける?」
「Mは、届けたんだ」
男は、海を見た。
「私に。そして今、あなたに」
---
久瀬は、防波堤の遠くで、すべてを観測していた。
データは、局に送信済みだ。「海鳴り」事象の終結。対象の「還化」。そして、男——「共鳴融合体」の、新たな能力の確認。
彼女のタブレットに、局からのメッセージが表示された。
**「標本化の指示。至急」**
久瀬は、メッセージを消去した。
一度だけだ、と自分に言い聞かせた。Mにも、そうした。最後まで、人間として扱った。
今度は——
今度は、違う。
久瀬は、防波堤を歩き始めた。男とタカコのもとへ。
「任務完了を、報告する」
彼女は、事務的に言った。
「タカコさんは、以降、局の監視下に置かれる。しかし、『還化』を認められた者として、適用対象からは外れる」
「ありがとう」
タカコが、頭を下げた。
「歌っても、いいのね」
「歌ってください」
久瀬は、初めて微笑んだ。微かに。ほとんど気づかない程度に。
「ただし、音量には注意を」
男が、笑った。Mの笑い方と、執行官の笑い方が、重なり合う。
「久瀬官」
「何だ」
「約束を、思い出しましたか」
久瀬は、一瞬だけ目を細めた。そして、頷いた。
「葛巻への帰還許可。承認する」
「今、ですか」
「今」
久瀬は、時計を見た。
「VTOLを手配する。二時間後に出発できる」
男は、タカコを見た。
「あなたも、来ますか」
「私が?」
「Mの『灰』を、見に行く」
男は説明した。
「彼が、最期を迎えた場所。そして、私が始まった場所」
タカコは、海を振り返った。そして、頷いた。
「——行きましょう」
葛巻町の展望台は、秋の終わりを迎えていた。
男は、一人で、あの場所に立った。タカコは、麓のワイナリーで、陽菜と話している。二人の「歌う人」同士、何かを共有できるかもしれない。
久瀬は、VTOLで待機していた。感情のない、効率的な配置。
男は、床を見た。
**灰は、消えていた。**
雨風で、散らされたのか。あるいは——
「地面に、還ったのか」
男は、つぶやいた。
胸の奥で、Mの反応があった。悲しみではない。安堵だった。
「あなたは、ここにいない」
男は、空を見た。冬の、澄んだ青。
「でも、あなたは、いた」
風が吹いた。葡萄畑の枯れ蔓が、乾いた音を立てる。
男は、ポケットから小さな瓶を取り出した。気仙沼で、タカコから受け取ったもの。海の水。砂。小さな貝の破片。
「M」
彼は、名前を呼んだ。
「私は、あなたの道筋を歩く。まっすぐではない。曲がりくねっている。時に、あなたの記憶に引きずられる。時に、自分の意志で踏みとどまる」
瓶を、胸に当てた。
「しかし、歩く。あなたが、歩けなかった先へ」
遠くで、タカコの歌声がした。陽菜との、二重唱。山の空気を震わせる、新しい旋律。
男は、微笑んだ。
「そして、あなたの『灰』は——」
彼は、地面に膝をつき、土を握りしめた。
「ここに、還った。これでいいんだ」
Mの声が、聞こえた。骨共鳴ではなく、心の中で。
*「ああ。これでいい」*




