海鳴り
三週間後、男は初めて「海」を見た。
任務地は宮城県気仙沼市。太平洋に面した、小さな漁港の町。Mが憧れたものと同じ、塩の匂いと潮風の世界。
「コードネーム『海鳴り』」
地元調律局の執行官が、簡易ブリーフィングを行った。中年の男。初期化の痕跡が、話し方に出ている。主語が不定で、感情のない平坦さ。
「本名、不明。年齢、性別、不詳。最初の目撃は、五年前の津波復興期。被災地で『歌う人』として報告された」
「歌う」
男は、その言葉に反応した。Mの記憶が、皮膚の下で疼く。
「どのような歌ですか」
「記録がある」
執行官は、古いボイスレコーダーを渡した。防水ケースに入った、傷だらけの機器。
男は再生ボタンを押した。
ノイズが続く。波の音。遠い人声。そして——
**歌声。**
それは、Mの「歌」とは異なった。Mのものは、個人の感情の解放だった。溢れ出る、押さえきれない、内側からの圧力。
この「海鳴り」の歌声は——
**吸収する**ものだった。
聴く者の感情を、引きずり込む。共鳴させるのではない。共鳴を強制し、そして奪う。歌の中に取り込み、自分のものにする。
男は、レコーダーを止めた。掌が汗に濡れていた。
「被害は」
「初期の被災者たちは、『生きる力を失った』と報告されている。具体的には、感情の希薄化。喜びも悲しみも感じられなくなる。医学上は、慢性ストレスによる前頭前野機能低下と診断された」
「調律局の適用を受けた者は」
「これが問題だ」
執行官の声が、初めて微かな揺れを見せた。
「『海鳴り』の歌声は、調整済みの人間に対して、より強い影響を与える。コード化された感情を、『歌』の方に書き換える。対象は、局の教義に従うのではなく、この歌声に従うようになる」
男は、海を見た。港の先、防波堤の向こう。灰色の水平線。
「Mとは、対照的だ」
「M?」
「以前の対象です」
執行官は、データベースを検索するような目つきになった。しかし、Mの記録は、おそらく閲覧制限がかかっている。
「Mは、自分の感情を解放した。外に向けて。爆発させるように」
男は説明した。
「『海鳴り』は、他者の感情を吸収する。内に向けて。渦巻くように。同じ『歌』でも、方向性が逆だ」
「あなたが、なぜそれを」
執行官の言葉が途切れた。男の瞳が、夕暮れの光に反射して、二重の色を帯びていたからだ。内側からの、淡い朱。
「私には、両方の視点がある」
男は認めた。
「だからこそ、局は私を送った」
---
翌日、男は単独で防波堤を歩いた。
Mの記憶に、海はなかった。山しか知らない少年だった。だからこそ、海を「自由」の象徴として憧れたのだろう。
しかし、実際の海は——
**境界だった。**
陸と水の境界。生と死の境界。明確な線はどこにもない。波が打ち上げられ、引かれる。砂が濡れ、乾く。その間を、無数の生物が往復する。
Mが求めた「自由」は、ここにあったのか。
それとも——
「あなたは、調律局の人間」
声がした。
男は振り向かなかった。背後の気配を、皮膚で感知していた。Mの経験が、身体に教えていた。
「しかし、違う。二つの心拍がある」
声は、波の音と混ざっていた。どこからともなく、四面八方から。
「あなたは、誰を殺したの」
「Mを」
男は正直に答えた。「殺したのではない。融合した」
「同じことよ」
声が、近づいてきた。防波堤の先端。波しぶきが跳ねる岩の上。
そこに、**影**があった。
人の形をしている。しかし、輪郭が不定だ。海霧のように揺らぎ、波の音のように震えている。
「私は、殺さない」
影が言った。「私は、歌う。それを聴いたものが、自らこちらに来る。力を失い、空白になり、そして——私の一部になる」
「それは、救いか」
「救い?」
影が、笑ったような気配を放った。
「救いも、苦しみも、もはや私にはない。私は、ただの『場所』になった。感情が流れ込み、溜まり、そして沈む場所」
男は、一歩前に出た。
「Mは、違った」
「M?」
「私が融合した相手。彼は、最後まで『誰か』だった。痛みを覚え、恐怖を覚え、それでも——望んだ。こうなることを」
影が、微かに後ずさった。初めての反応。
「彼は、『場所』にはならなかった。道になった」
「道?」
「通り過ぎるもの。滞在するものではない」
男は、影に近づいた。五メートル。三メートル。波しぶきが、二人の間を走る。
「あなたは、ここで何を待っている」
「待ってなどいない」
影が、否定した。しかし、その輪郭が、一瞬、人の形に固まった。若い女性のような。あるいは、少年のような。
「ただ、歌っているだけだ。これが、私の——」
「初期化前の記憶だ」
男は、言った。
「あなたは、ここで何かを失った。津波で。復興で。あるいは、調律局の適用で。その喪失を埋めるために、他者の感情を集め始めた」
影が、震えた。
「黙れ」
「私にも、記憶がある」
男は、自分の胸に手を当てた。
「Mの記憶。彼は、家族を失った。適用によって。しかし、彼は『場所』にはならなかった。代わりに、『問い』を持ち続けた。調律局に、そして自分自身に」
「——問い?」
「『なぜ、私は歌わなければならないのか』と」
男は、影を見つめた。
「あなたは、その問いを持たない。ただ、歌う。なぜなら、それ以外に何もないから。それは、自由ではない。閉じ込めだ」
影が、叫んだ。
**「黙れ!」**
それは、歌声だった。
防波堤全体を震わせる、低音の共鳴。男の鼓膜が、内側から圧迫される。Mの記憶が、警報を発する。危険だ。逃げろ。これは、融合を超えた、「消滅」だ。
しかし、男は逃げなかった。
**彼も、歌い始めた。**
Mの歌。葛巻の山で、夕焼けを見ながら紡がれた、言葉なき旋律。感情の流出。圧力の解放。自己を、外界に委ねる行為。
二つの歌声が、海上で衝突した。
吸収と放出。渦と爆発。境界と道。
影の歌声が、男の歌を飲み込もうとした。しかし、飲み込んだ瞬間、影の内部で何かが変わった。Mの記憶が、影の「溜まり」に流れ込んだ。
——家族の顔。
——山の稜線。
——夕焼けの色。
——最期の言葉。「ありがとう」
影が、固まった。
「これは——」
「Mの記憶だ」
男は、歌いながら言った。
「私が融合した相手の。彼は、最後まで『誰か』だった。そして今も、私の中で『誰か』として存在している」
影の輪郭が、人の形に定まった。若い女性だった。二十歳前後。漁師の娘のような、日に焼けた顔。
「あなたも」
男は、歌声を止めた。
「『誰か』だったはずだ。名前を、持っていたはずだ」
女性は、口を開いた。しかし、声が出ない。長い間、歌うことだけをしてきた喉は、言葉を忘れていた。
「——た、た」
「ゆっくりでいい」
男は、一歩近づいた。
「タカコ」
女性が、絞り出した。
「気仙沼で、生まれた。タカコ」




