凪のあと
回収班が到着したのは、光の爆発から二時間後のことだった。
新東京から派遣されたVTOLが、牧草地に着陸する。久瀬が、初めて現場に降り立った。彼女の手には、現場監視ドローンからの生データが流れるタブレットがある。
「状況報告」
彼女は、展望台に立つ一人の男に近づいた。濃紺のジャケット。同じ顔。しかし——
久瀬は足を止めた。
展望台の床に、何か白いものが散らばっていた。灰のような。塩のような。円形に分布し、中心から放射状に薄くなっている。男の立つ位置は、その円の中心だった。
「これは」
「Mの身体です」
男が答えた。声のトーンが一言ごとに変わる。低く落ち着いた響き。平坦な抑揚。交互に、あるいは同時に。それは既に統合されていない。
「分解された」
男は足元の「灰」を見つめながら言った。
「エネルギー解放の瞬間、彼の身体は構造が崩壊しました。量子レベルで振動数が超過し……つまり『蒸発』した。炭化でも焼却でもない。分子結合が解放され……」男は言いよどんだ。「……光になった」
久瀬は膝をついて「灰」を採取した。微量の蛍光性粒子が含まれている。調律局の標準的なエネルギー放出では見られない特徴だ。
「医学的に言うと、Mの細胞は全て破壊されました」
男は続けた。「彼のDNAも、組織も。物理的には存在しません」
久瀬の視線が鋭くなった。
「では、今のあなたは?」
「私は残りました」
男は右手を見つめた。指先が震えている。Mの身体から受け継いだ神経の痙攣だ。これは訓練で矯正できるものではない。
「しかし——」
男は拳を握りしめた。その掌に、ほのかな青白い光が滲んだ。Mが得意としていた非言語発信——感情の波を電磁波に変換する技術だ。初期化前の彼だけが持っていた能力だった。
「—彼の一部は、私の中にあります」
久瀬は無言で男の脳波モニタを確認した。表示される波形は二重の構造。二つの基本周波数が干渉しながらも、奇妙な調和を形成している。
「あなたは、個としての統一性を保っていますか」
「保っています」
男は静かに答えた。「ただ、層が増えただけだ。Mは私の中で眠りながらも……応える」
久瀬は「灰」を真空サンプル管に入れながら質問を続けた。
「Mの『本体』はどこにあると考えますか」
「私の中」
「具体性を求めてよろしいでしょうか」
「三箇所です」
男は指を折った。
1. **肉体的痕跡**
男の骨髄にはMの幹細胞が少量残留している。血液中に極めて希薄なMの抗体が検出される。
2. **神経系共有**
彼の小脳半球に「Mニューロン」が形成された。記憶回廊の一部分として。特定の情動体験時には活性化する。
3. **精神的アバター**
前頭前野にMの人格モデルが投影されている。完全自律ではない。質問に対する応答形式で対話可能。
「彼はいますか」
久瀬が尋ねた。
「います」
男は瞳孔を拡張させた。目の奥で淡い朱色の火花が一瞬見えた。Mの代謝パターン。紫杉醇耐性に関連する光学的特徴だ。
「ですが、私の意志の下に」
「どこまで信用できますか」
久瀬の問いに男は微笑んだ。二人の笑顔が重なるMと執行官の顔。
「信用の問題ではありません。観測の問題です」
久瀬はタブレットにデータを入力しながら、男の微笑みを記録した。それは調律局のデータベースに存在しない表情パターンだった。
「仮承認します」彼女は言った。「あなたを『真波恒一』として、任務に復帰させます。ただし——」
「監視下に置く。週次の脳波検査」
男が先を越した。
「知っています。Mの記憶にありました。同じ言葉を、彼の担当官に言われたことが」
久瀬の指が一瞬止まった。これは機密情報だ。Mの担当官の存在は、局の内部資料でも閲覧制限がかかっている。
「どの程度、Mの記憶にアクセスできますか」
「断片的に」
男は正直に答えた。「感情に色濃く結びついた記憶ほど鮮明です。手続きや暗号の類は曖昧です。しかし——」
彼は久瀬の目を見た。そこにはMの洞察力が宿っていた。
「あなたが、彼を最後に追った官であることは知っています」
沈黙が落ちた。山の風が、二人の間を吹き抜ける。床の「灰」が、微かに舞い上がった。
「2019年8月」
久瀬が突然言った。
「彼が初期化前に最後に訪れたのが、ここだということも知っていますか」
「知っています」
「なぜ、ここに戻ったのか」
男は、Mの記憶を検索するように目を細めた。そして、自分の記憶と重ね合わせた。
「ここが、彼にとって『自由だった場所』だからです」
「自由?」
「適用を受けていない人間たちの中にいた場所。調律局のコード化から外れた時間」
男は床の「灰」を指差した。
「彼はここで、初めて『歌う』ことを許されたんです。家族の前で。コード化されていない言葉で。誰も混乱しなかった。誰も凪化されなかった。ただ、彼の声を聞いただけでした」
久瀬は、初めて言葉を失った。
データにはあった。Mの初期化前の適用履歴。葛巻町での短期滞在。家族との時間。しかし、それが「重要な変数」だとは、誰も判断しなかった。
「私たちは」
久瀬は言いかけてやめた。局の評価基準を説明しても意味はない。眼前の存在は、もうその基準の外にあった。
「帰還します」
彼女はVTOLへと向かった。背中で、男の声がした。
「久瀬官」
振り返らない。
「Mは、最後にこう言いました。『彼女に謝っておいてくれ』と」
足が止まった。
「『最後まで、私を人間として扱ってくれて、ありがとう』と」
久瀬は、三秒ほど静止した。そして、タブレットを強く握りしめながら、応答せずにVTOLの搭乗口へと歩いた。
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男は、一人、展望台に残された。
床の「灰」に膝をつき、指先で触れた。冷たい。生命の痕跡はない。しかし、指先に触れた瞬間、骨共鳴パッチが反応した。
微かな残響。Mの最期の感情。恐怖ではない。安堵でもない。
——期待。
彼は、こうなることを期待していた。自分の終わりと、新しい始まりを。二人の真波恒一が一つになることを。
「馬鹿だ」
男は、自分でもどちらの声か分からない呟きを発した。
「私は、お前の期待に応えなければならないのか」
風が答えた。葡萄畑を揺らす、潮のようなざわめき。
男は立ち上がり、空になったワインの瓶を拾い上げた。ラベルの裏に、誰かの走り書きがある。
「いつか、海を見に行こう」
それはMの字ではない。もっと古い、幼い筆致だ。陽菜の、あるいは——男自身の、初期化前の字だ。
「海か」
男は、遠くの稜線を見た。そこに海はない。しかし、Mは見ていた。この夕焼けを、海として。
「行こう」
彼は、自分に言い聞かせた。
「いつか」




