共鳴の臨界点
葛巻は、新東京から北へ鉄道で六時間の距離にある。かつての鉱山町で、今は人口減と高齢化が進む、調律局の網が薄い区域だ。
私は朝一番の列車に乗った。市民としての移動だ。執行官の追跡システムは使用しない。局との連絡も、最低限の位置報告のみ。
車窓から見える景色は、次第に緑が濃くなっていく。新東京のコンクリートの森から、本物の森へ。山が近づく。空が高くなる。
隣席の老人が、私に話しかけてきた。
「観光ですか、若いの」
「……仕事です」
「へえ。葛巻に仕事が? もう、何もないところでさあ」
老人は笑った。無邪気な、歯の抜けた笑顔。調律局の適用を受けていない、旧い世代の表情だ。私はその笑顔を観察した。感情の波形が、顔の表面に直接現れている。防御のない、赤裸々な表出。
「あんた、顔色が悪いよ。大丈夫かい」
「平気です」
「そうかい。でもさ、上着持っていきなよ。夕方は冷えるからさ」
私は頷いた。礼節として。
列車はトンネルを抜け、山間の盆地へと降りていった。窓の外に広がるのは、牧草地と林の緑。遠くに連なる奥羽山脈の稜線が、夕暮れに染まり始めていた。
私はスマートフォンで葛巻の地図を確認した。ここは海から遠い。太平洋まで直線距離で30キロはある。Mの言った「葛巻港」とは何のことだろう?
ホームに降り立つと、湿った草の匂いと木材の香りが混ざった風が吹いた。駅前の看板には「ようこそ 葛巻へ — 丘の上の牧場と葡萄の里」と書いてある。港らしいものは見当たらない。
改札を出たところで、若い女性が私に声をかけた。
「真波恒一さんですね?」
彼女は調律局の服ではなく、シンプルなTシャツとジーンズを着ていた。しかし、その目つきは訓練されたもののそれだ。
「誰です」
「M……いえ、あなたの古い名前では『陽菜』と言っていたようです。あなたの妹です」
「妹?」
私は記憶を探った。データベースに「陽菜」という名は登録されていない。
「兄さんは忘れてしまってるでしょうね。私もずっと名乗っていませんから」彼女は苦笑した。「兄さんが調律局に入る前、家族と一緒に葛巻に住んでいたんです」
衝撃だった。家族がいた記憶は初期化されて抹消されたはずなのに、「陽菜」という名の妹が生きていたとは。
「Mはどうやって私と繋がっていたんですか」
「兄さんの『共鳴』を利用して。Mは兄さんの骨共鳴パッチに干渉していました。私たちは兄さんが来るのを知っていました」
彼女は駅前のレンタカーの鍵を取り出した。
「時間がないんです。Mは今日の夕方五時に『港』で待っている。一緒に行きましょう」
「でも葛巻には港なんてありません」
「あるんです」彼女の目に決意が宿った。「私たちが作った『港』が」
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車は山道を登っていった。途中、小さなワイナリーが見えた。屋根に「ほたるワイン」の旗が翻っている。記憶の断片が蘇る。ここだ。あのワインはここで作られていた。
さらに上がっていくと、突然視界が開けた。
そこは崖の上の牧場だった。眼下に広がるのは広大な牧草地と、谷間に沈む夕陽。茜色に染まった雲が浮かび、稜線が金色に光っている。
「これが『海』なの?」私は思わず尋ねた。
「Mは昔から言っていました。ここから見る夕焼けは海みたいだって」陽菜が答えた。「特に冬至の時期は雲が低くて、まるで大海原のようなんです」
時計を見た。四時五十五分。あと五分で五時だ。
ふと、前方の展望台に人影を見つけた。背の高い男性。風で揺れる濃紺のジャケット。
Mだ。
彼はこちらに気づき、ゆっくりと手を上げた。その動作は私が普段使うものとは違い、自由奔放で、明確に「意志」を持っていた。
「ようやく来たね」Mの声は、今度は直接、鼓膜を通して届いた。「待っていたよ、恒一」
二人の「真波恒一」が、赤い夕焼けの「海」を前に、初めて真正面から向き合った。
私は言葉を選びながら、ゆっくりとMに近づいた。五メートル、三メートル。執行官としての訓練が、即座に最適な「検収」位置を計算する。背後の陽菜が動きを封じ、正面からの接触で逆位相を照射。完了時間は四秒。
しかし、骨共鳴パッチが疼いた。Mの心拍が、私の心拍と完全に同期していた。打ち消せば、私も同じ衝撃を受ける。双方向凪化——久瀬の言葉が蘇る。
「やめなさい」Mが笑った。私と同じ顔で、私とは異なる表情。「計算するのは君の仕事じゃない。僕の方が長く生きているんだから」
「生きている?」私は反論した。「あなたは逃亡者です。調整を拒否し、感染性の不協和音を周囲にばら撒いている。これは生存ではない。単なる——」
「単なる何だい?」
Mは一歩踏み出した。夕日が彼の輪郭を赤く縁取る。私は後退した。無意識のうちに。
「崩壊? 暴走? 病気?」Mの声に揶揄が混じった。「君は調律局の辞書しか持っていない。だから言葉がないんだ。これは何なのか、説明できない」
彼はジャケットのポケットから何かを取り出した。小さなガラスの瓶。ラベルはないが、中身は暗い赤色の液体だ。
「ほたるワイン。2019年のもの。君が飲んだ最後の一杯だ」
私は瓶を見つめた。昨日の夜、葛飾-7のアパートで開けたものと同じ形状だ。しかし、あれは空だった。これは未開封だ。
「覚えているかい」Mは瓶を傾け、夕光に透かした。「あの日、家族四人で葡萄畑を歩いた。父さんは酔っ払って転んだ。母さんは笑いながら写真を撮った。君は——」
「私は」
言葉が出てこない。データはない。しかし、身体が反応していた。喉の奥に甘酸っぱい記憶が渦巻く。Mの骨共鳴パッチが、私の神経に直接、映像を流し込んでいる。
——緑のトンネル。葡萄の葉がこすれる音。誰かの笑い声。そして、背中を押す小さな手。
「陽菜に、背中を押されたんだ」
Mが代わりに言った。「『早く行け、お兄ちゃん』って。君は走り出した。母さんの元へ。それが、僕たちの家族で最後の——」
「黙ってください」
私は遮音イヤホンに手をかけた。しかし、それを外すことはできなかった。外せば、Mの「歌」が直接流れ込む。付けたままでも、骨共鳴パッチを通じて侵食される。
「どっちにしても同じだよ」Mは優しく言った。「僕たちはもう、同じ周波数で共振している。君が遮音したところで、僕の心臓の鼓動が君の心臓を動かしているんだ」
それは正しかった。私の胸は、Mの呼吸に合わせて上下していた。二人で一つの肺を使っているような錯覚。
「なぜ、私を呼んだんですか」
私は核心を問うた。執行官としてではない。Mと同じ「真波恒一」として。
Mはしばらく黙り、夕焼けを見上げた。雲が燃えている。山の稜線が、まるで波のように連なって見える。
「海に行きたかったんだ」
「ここは海じゃない」
「僕には海に見える」Mは平然と言った。「君にはどう見える?」
私は視線を移した。眼下の牧草地は夕陰に沈み、谷間だけが黄金色に浮かび上がっている。奥羽山脈の稜線が重なり合い、遠くに霞む地平が、水天境界のように曖昧になっている。
——確かに、少しだけ、海に見えた。
「初期化前の僕は、ここにいたかったんだよ」Mが続けた。「調律局に引き取られる前、家族と一緒に。でも、選ばれちゃった。共鳴適性が高いからって。君と同じように」
「私は選ばれた記憶がありません」
「あるさ。ただ、消されただけだ」Mは振り返り、私の目を覗き込んだ。「君は本当に、あの白い部屋で目覚めた時からの記憶しかないと思っているのかい? それが本当なら、なぜワインの味を覚えている? なぜホタルの光を数えた? なぜ——」
「データの漏洩です」私は抗弁した。「あなたからの侵食」
「そうかもしれない」Mは認めた。「でも、感じるだろう? ここが正しい場所だって。ここにいたかったって。それはデータじゃない。身体が覚えているんだ」
私は黙った。Mの言葉は、私の思考防御を迂回していた。論理的な反論を試みるたびに、身体の感覚がそれを否定する。
「僕は逃げ出したんだ。初期化の途中で」Mは告白した。「感情を殺す薬を吐き出して。記憶を消す装置から逃げて。そしたら、ここに帰ってこれた。陽菜に、畑に、夕焼けに」
「そして、他の人に危害を加えた」
「危害?」Mは眉を上げた。「君が言うのかい? 調律局がやっていることの方が、よっぽど——」
「あなたの『歌』は人を狂わせる」
「人を『目覚めさせる』んだ」Mは訂正した。「調律局の適用を受けていない古い人間たちには、何も起こらない。彼らには、僕の歌はただの歌だ。でも、『調整済み』の人間には、封印された何かが蘇る。それが怖いのかい?」
私は答えられなかった。怖いのか。それとも——
「君を呼んだのは」Mは声を落とした。「僕を止めてほしいからだよ」
驚きが走った。
「何を言っているんです」
「僕はもう、長くないんだ」Mは自分の胸に手を当てた。「感情を解放しすぎた。波形が自己増幅のループに入っている。これ以上続ければ、本当に『感染』する。周囲のすべての人間を、僕と同じ状態に引きずり込む」
「なら、なぜ——」
「なぜ、増幅を続けているか?」Mは苦笑した。「止められないんだよ。一度解放した感情は、もうコード化できない。これが、調律局のやっていることの真の代償だ。抑圧すればするほど、解放時の爆発は大きくなる」
彼は未開封のワインの瓶を、私に差し出した。
「だから、君に頼む。僕を凪にしてほしい。でも、僕のまま消えてほしい。調整されたままの、空白の僕じゃなくて」
「それは——」
「双方向凪化だよ、知っている」Mは頷いた。「君も僕も、同じ衝撃を受ける。でも、それでいい。二人で一つの波形を作って、それをゼロにする。僕の記憶と感情のすべてが、君の中に流れ込む。そして、君がそれを保持するか、捨てるかは、君の自由だ」
私は瓶を見つめた。そこに映る夕焼けが、血のように赤い。
「私は執行官です」
「君は真波恒一だ」Mは訂正した。「それが先だ」
背後で陽菜が息を呑む音が聞こえた。彼女は知っていたのだろう。Mの目的を。だから案内したのだ。
時計を見た。五時十七分。任務の猶予時間は、あと十三分。
「十九時までに完了報告を」久瀬の声が、遮音イヤホンの奥で蘇る。「そうでなければ、局は強制介入を——」
私はイヤホンを外した。
初めて、外部の音が、そのまま鼓膜に届いた。山の風。遠い牛の鳴き声。そして、Mの呼吸。私と同じリズムで、しかし少しだけ乱れた、生きている人間の呼吸。
「始めましょう」
私は言った。
Mは微笑み、ワインの瓶を開けた。コルクが抜ける音が、夕暮れの空気に響いた。
「乾杯」
彼は一度口をつけ、私に渡した。私は躊躇わず、同じように飲んだ。甘みと酸味と、そして、確かに潮のような——いや、山の空気のような——礦物的な後味。
「味がするかい?」
「……します」
「それが答えだよ」
Mは私の手を取った。骨共鳴パッチが、二人の接触点で灼熱になった。
「共鳴を開始する」
Mは囁いた。それは調律局の公式マントラと同じ言葉だったが、まったく異なる響きを持っていた。
「波形を合わせて」
私は、無意識に、続けた。
「凪の中で——」
「——私たちは一つになる」
Mが最後の言葉を補った。それは局の教義にはない、古い、家族の、あるいは恋人たちの言葉だった。
夕焼けが、頂点に達した。
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夕陽が、ちょうど山の稜線に触れた。
その瞬間、Mと私の間に可視化されたものがあった。空気の揺らぎ、あるいは熱エネルギーの集中——いわゆる「感情の光」だ。調律局の理論では、高度に同期した人間の脳波は、周囲の電磁場に干渉し、局所的な光学的異常を生じさせるとされている。
私たちの間に立ち上ったのは、赤い柱のようなものだった。夕焼けの色を濃縮したような、脈動する光の帯。それは私たちの心拍に合わせて膨張と収縮を繰り返し、まるで巨大な血管のように、二人を結んでいた。
「見えるかい」
Mの声が直接、内耳へと届く。もう遮音など意味をなさない。私たちは同一の共鳴腔を形成していた。
「見えます」
「これが、僕らの『逆位相』の前兆だ。まだ同調している。完全に重なっている」
Mの手が、私の手を強く握る。骨と骨が触れ合い、骨髄液を通じて、神経信号が直接交換される。痛みと快楽の境界が曖昧になる感覚。調律局の訓練で一度だけ体験した、危険な実験のそれだ。
「なぜ、私に任せたんですか」
私は問うた。光の柱の中で、Mの顔が重なり合う。私の顔と、私の顔と、区別のつかない輪郭。
「君だけが、僕を殺せるから」Mは静かに言った。「他の誰も、同じ波形を持っていない。同じ記憶の断片を、同じ身体の感覚を。僕を理解できるのは君だけだ。だから、僕を終わらせられるのも君だけだ」
「終わらせる、ではなく——」
「凪にするんだろう? 知っているさ」Mは笑った。「でも、僕にとっては死だ。今のこの僕という波形が消える。君の中に吸収される。それは死と何が違う?」
私は答えられなかった。調律局の教義では、凪化は「調和への回帰」だ。個の執着を解き、集合的な平穏に還る。しかし、Mの言葉は、その教義に根本的な亀裂を入れる。
「違いは、記憶が残るかどうかだ」
私は、自分でも驚くような言葉を発していた。
「双方向凪化では、生き残った側に、消えた側のすべてが流れ込む。あなたの記憶、感情、感覚——すべてが私の中に残る。それは、あなたにとっての存続ではないですか」
「パラドックスだね」Mは感心したように言った。「君は僕を殺して、僕を生かす。僕は死んで、君の中で生き続ける。二人の真波恒一が、一つの容器に収まる」
「矛盾しています」
「感情というものは、元から矛盾しているんだよ」
光の柱が、さらに強く脈動した。周囲の空気が熱を帯び、草の匂いが強くなる。陽菜が後方で何か叫んでいるが、その声はもう届かない。私たちの共鳴腔は、外部から遮断されていた。
「時間だ」Mは告げた。「逆位相を照射するには、僕らの波形が完全に重なっている必要がある。今が、そのピークだ」
私は承認コードを唱える必要があった。執行官としての、最後の手続き。
「任務番号TK-2045-090-CONSTANT。対象、真波恒一——」
「Mだ」彼は訂正した。「この瞬間だけは、Mと呼んでほしい。僕が僕であるための、最後の名前だ」
「——対象M。処分方法、双方向凪化。実行者、真波恒一」
「承認する」
Mは微笑んだ。そして、私の耳元で、最後の「歌」を囁いた。
『海は、まだ赤いよ。君が来るまで、ずっと——』
私は、調律局の教えに反する方法で、逆位相を「照射」した。機械を使わず、自分の身体をアンテナとして。Mと完全に同調した心拍を、意図的に乱す。二人の鼓動の位相を、180度ずらす。
それは、まるで自分の心臓を引き裂くような痛みだった。
Mの表情が、安らかになった。光の柱が、収縮を開始する。私たちを包み込み、圧縮し、一つの点へと収束させていく。
最後に、Mの口が動いた。声はもうない。ただ、唇の動きだけが、読める。
「ありがとう」
そして、光が爆発した。
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葛巻の山々に、音もなく、光の波が広がった。夕焼けを上書きするような、真紅の閃光。それは牧草地を駆け抜け、ワイナリーの葡萄畑を撫で、遠くの集落まで到達した。
陽菜は目を覆ったが、光は目を貫通した。彼女の中に、何かが流れ込んだ。兄の記憶。二人の兄の、重なり合った記憶。
光が消えた時、展望台には一人の人間が立っていた。
濃紺のジャケットを着た、背の高い男。しかし、その表情は、どちらでもあった。Mの安らぎと、私の緊張が、同居していた。
「……兄さん?」
陽菜が恐る恐る声をかけた。
男は振り返った。そして、迷うように、二つの名前を口にした。
「恒一……M…」
最終的に、彼はこう言った。
「私は、真波だ。ただ、それだけだ」
彼の手には、空になったワインの瓶が握られていた。ラベルには、誰かの書いた文字があった。
「2019.8.17 家族で」
彼はその文字を読み、初めて、自分でも理解できない涙を流した。




