海の座標
夜になった。
葛飾-7の電力供給は不安定で、午後十時を過ぎると建物の大半が暗闇に沈む。私はMの部屋に留まることを選んだ。タブレットの電源は切れたままだ。局との連絡を遮断することは、執行官としての規律違反だが、今はそれが正しい選択に思えた。
窓から見える景色は、新東京の光の海とは対照的な、濃密な闇だった。街灯のない道路。星すら見えない、工業用煙霧に覆われた空。だが、その闇の中に、微かな光の粒が見えた。
ホタルだ。
葛飾-7の外れには、かつての工業用水路が残っている。そこに、夏の終わりのホタルが、まだ残っていた。一筋、また一筋。規則性のない、乱れた明滅。まるで誰かの感情の波形を可視化したような。
私は窓際に立ち、その光を見つめていた。Mの記憶が、断片的に蘇る。
——暗い林の中。石畳の道。子供たちの歓声。そして、誰かの手。小さくて、温かくて、少し汗ばんだ、大人の手。
「……母親」
私は呟いた。初期化前の私に、家族がいたのだろうか。Mはその記憶を保持している。そして、それを私に伝えようとしている。
骨共鳴パッチが、Mの感情のリズムを流し込んでくる。静脈を流れる血液のように、それは私の全身を巡り、古い神経回路を活性化させていく。痛みがある。頭蓋の内側で、何かが再生長しているような、鋭い違和感。
タブレットを再起動し、局のデータベースにアクセスした。承認コードを入力し、自分自身の「初期化記録」を検索する。これは厳密には禁止されているが、執行官の権限で閲覧可能な領域だ。
ファイル名:MANAMI_KOICHI_2021_INIT
開封。
そこにあったのは、短いビデオログだった。白い病室。拘束ベッド。そして、若い男の顔。私だ。Mだ。区別がつかない。
「被検体は感情抑制剤を拒否。強制投与を試みる」
医師の声。画面の端に、若い頃の久瀬の姿がある。
「待ってください。被検体が自己申告を——」
「時間がありません。周波数の暴走が始まっています」
針が腕に刺さる。画面の男——私——が叫ぶ。何を叫んでいるのか、音声は削除されている。ただ、口の動きだけが残っている。
「……巻…戻……せ…」
そして、意識が途切れる。
ログはそこで終わっていた。だが、私は読んだ。唇の動きから。あの言葉を。
「巻き戻せ」
初期化を、やめろ。という意味だろうか。あるいは——
私は窓の外を見た。ホタルの光が、一瞬、規則正しい点滅を見せた。モールス信号だ。私は即座にデコードした。執行官の訓練の一環として、あらゆる通信形式を習得している。
「明 日 午 後 五 時 葛 巻 港 赤 い 夕 焼 け」
Mからの、直接的なメッセージだった。
私はタブレットを閉じ、部屋の暗がりに身を委ねた。骨共鳴パッチはまだ貼ったままだ。Mの心拍が、私の心拍と重なり合っている。二人で一つの鼓動を打っているような、錯覚。
「海へ、行くのか」
独り言が、闇に吸い込まれる。
明日の午後五時。葛巻港。赤い夕焼け。
私は約束を、既に心の中で承認していた。




