同調の侵食
第一節:トレース・ライフ
Mの潜伏先は、新東京市境界線から120キロメートル離れた、第3階層廃棄地区「葛飾−7」だった。ここはかつての工業地帯で、今は不法居住者と、調律局からの検挙を逃れる個体たちが入り乱れる灰色区域だ。
私は無改造の市民車両を使って現地に向かった。執行官専用の追跡車両では、逆に目立つ。Mはまだ私が接近していることを「感じ」ているはずだが、具体的な位置までは把握していないだろう。私たちの「共鳴」は双方向だが、Mの側が常に送信側、私の側が受信側という非対称性がある。
タブレットの地図データには、Mの最後に確認された位置が示されている。アパートメント型住居、部屋番号304。建物名は「メゾン・ド・ヴェルディ」。
その名前を見た瞬間、私の心拍が2拍だけ早まった。ベルディ。緑。あるいは——音楽の旋律。私は医学的な知識として、心拍数の上昇を認識した。しかし、感情としては何も感じなかった。または、感じるための言語を持っていなかった。
建物は予想通りの廃墟だった。外壁の塗装は剥げ、階段室の照明は殆ど機能していない。それでも304号室のドアには、新品同然の電子錠が取り付けられていた。Mの技術的知識の現れだ。
私は局から支給された物理キーを使わず、自分の生体IDチップでドアを開けた。執行官としての権限は、この区域でも有効だった。
室内に入ると、淀んだ空気が全身を包んだ。埃が舞い、窓の外から差し込む午後の光がその粒子を照らしている。だが、そこにある家具の配置が——私は立ち止まった。
本棚の位置。ベッドの向き。デスクと椅子の関係性。すべてが、私の住む216平方メートルのワンルームマンションと、ミリ単位で一致していた。
いや、正確に言えば、私の部屋はここを「再現」しているのだ。初期化前の私——M——が生活していた空間を、局は私の新しい住居として複製したのだ。それが安定化プロトコルの下地になっていた。
「理解した」
私は声に出した。これはトレースの第一歩だった。Mの生活空間に入ることで、私の身体は既に彼の「響き」を受け入れ始めている。
私はカバンから「骨共鳴パッチ」を取り出した。小さな円形の医療用シール。裏面には生体適合性ゲルが塗布されている。これを喉元の甲状軟骨に貼り付けると、対象の生活リズム——歩幅、呼吸数、心拍の微細な揺らぎ——を内部に取り込むことができる。
パッチを貼ると、即座に効果が現れた。
最初は奇妙な違和感だった。自分の歩く速度が、勝手に変わる。普段の私は、秒速1.2メートルで歩く。それが、今は秒速0.9メートルに低下していた。Mの歩き方だ。
私は意図的に抵抗せず、その速度で部屋の中を移動した。キッチン、リビング、ベッドサイド。それぞれで立ち止まり、Mがそこで何をしていたのかを想像する。しかし「想像」ではない。これは再現だ。身体が知っている。まだ初期化されていない、古い神経回路が。
ベッドに腰掛けた。マットレスの沈み具合が、私のものと違った。こちらの方が柔らかい。Mは、私よりも「深く」眠るのだろうか。
次第に、自分の声が自分のものではない響き——倍音を含んだ厚みのある声に変わり始める。骨共鳴パッチが、Mの発声パターンを私の喉に刻み込んでいく。
「……気持ち悪い」
呟いた独白さえ、Mの声と重なり合い、部屋の中に不気味な残響を生んだ。まるで、ガラスの向こう側にいる自分が、同じ言葉を0.3秒遅れで繰り返しているようだった。
私は立ち上がり、次の「トレース地点」へ向かった。キッチンだ。
第二節:記憶の逆流
キッチンに立ったとき、私は無意識に棚の奥へ手を伸ばした。そこには、ラベルの剥がれた透明な瓶があった。私の手が動いた軌道は、まるで磁石に引かれるように正確だった。
指先がその瓶に触れた瞬間、鼻腔を突いたのはコーヒーの香りではない。あの朝に感じた、甘酸っぱくも鋭い——「葛巻のほたるワイン」の芳香だった。
『熱いから気をつけて。そう言って、このワインをグラスに注いだのは誰だ?』
データには存在しない、色彩を持った記憶。私は激しく動揺した。イヤホンは付けていない。中立音がない。骨共鳴パッチはMの感覚を流し込み続けている。
瓶を手に取ると、裏側に小さな文字が刻まれていた。自作のラベルだ。
「2019.8.17 葛巻 蛍祭り」
2019年。私の初期化は2021年だ。つまり、この記憶は「切除」されたはずの期間のものだ。
Mがここに、この瓶を置いた理由がわかった。私を誘い込むための、罠ではない。招きだ。ここに来い、と。忘れたものを、思い出せ、と。
私は瓶を開けた。密封は完全ではなく、微かに酸化した香りが漂う。それでも、葡萄酒特有の複層的な芳香が、私の嗅覚上皮を刺激した。そこから、連鎖的に、他の感覚が蘇る。
——暗い部屋。古い木の机。蝋燭の明かり。そして、誰かの笑い声。
「……誰だ」
私は声を漏らした。部屋に誰かいるわけではない。だが、私の内側に、確かに「誰か」がいた。初期化によって「死んだ」はずの、私自身の過去。
タブレットが振動した。久瀬からの緊急連絡だ。
「真波さん、脳波モニタで異常を検知しました。あなたの感情活性度が規定値を47%超過しています。直ちに中和剤を——」
「不要です」
私はタブレットの電源を落とした。今、外部の介入は邪魔だ。
キッチンのカウンターに凭れ、私はワインの瓶を見つめ続けた。Mはここで何をしていたのか。同じ瓶を手に取り、同じ記憶を呼び覚ましながら、何を感じていたのか。
そして、なぜそれを私に伝えたかったのか。
「海……」
無意識に呟いた。Mのささやきが、タブレット越しに聞こえたあの言葉。
『海へ行こう、恒一。あの、潮の匂いがする赤い夕焼けを見に』
私は窓に近づき、カーテンを開けた。葛飾−7の景色が広がる。廃棄された工場の煙突。錆びたクレーン。そして、遠くに霞む水平線。ここからは海は見えない。だが、Mは海を知っている。初期化前の私が知っていた、海を。
「追跡を続行します」
私は独り言を呟いた。しかし、それは任務継続の宣言ではなかった。Mに会う。それが今の私の目的だった。彼を「検収」するためではない。彼が持っている、私の失われた「何か」を、確認するためだ。
イヤホンを取り出し、今度は右耳にも装着した。左右同時の遮音。生活基底波の二重照射。これは局の規定外の使用方法だが、今は必要だった。
しかし、遮音効果が不完全だった。Mの「歌」は、直接、骨共鳴パッチを通して内耳へと届いている。
『——君は、今の自分が本物だと思っているのかい?』
再び、あのささやきが。
私は答えなかった。答えるための言語がなかった。
ただ、瓶の残り滓を見つめながら、私は初めて「喪失」という感情の輪郭を、微かに感じ始めていた。




