表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/9

調律という名の慈悲

現代社会において、幸福とは「振幅のない静寂」を指す。


かつての人間を苦しめた怒り、悲しみ、そして過度な創造性は、今や社会の平穏を乱す不純物――「不協和音ノイズ」と定義されている。二十一世紀半ば、神経振動共鳴技術の飛躍的な発達により、人間の感情活動は電磁波形として可視化されるようになった。そして同時に、その波形を操作する技術もまた、驚くべき精度で洗練されていった。


我々『調律局』の使命は、これら社会の調和を乱す個体に対し、その波形を完全に打ち消す**逆位相アントファズ**を照射することにある。


原理は単純だ。対象が発する不快な感情の波形に対し、全く同じ振幅で正反対の位相を持つ波を重ね合わせる。


数式がゼロに帰結するのと同様、対象の精神もまた「なぎ」の状態へと導かれる。そこに痛みはない。ただ、余計な響きが消え、世界が少しだけ快適な無音に近づくだけだ。


正しい調律こそが、我々に残された唯一の慈悲なのだ。


それでも、私は時折思うことがある。


無音という「完璧」の向こう側に、本当に何も残らないのだろうか?


――真波 恒一


━━━━━━


第一節:安定化プロトコル


06:15:起床。


目覚めは唐突だった。遮光カーテンが自動で45度開き、窓ガラス越しに差し込む早朝の光は、ちょうど網膜表面に許容範囲の刺激を与えてくる。体温センサー搭載のベッドからは「起床適温」の通知が届き、寝室の空調が微細に調整される。私の肉体は、それら全てを予測済みのように素早くシフトチェンジする。


枕元には、青いライトバーの点灯した調律端末。昨夜の睡眠波形はフラットで、ノイズ指数0.27%。規定値内だ。「おはようございます。安定化レベル81.3%。標準より+0.7%の偏差があります」合成音声が、淡々と診断を告げてくる。


「承認」

私は短く答えた。


安定化プロトコル。私が執行官として活動を始めて以来、八年間欠かすことなく維持してきた自律調整手順だ。この儀式がある限り、私は自らの内側から生まれるかもしれない、まだ名前を与えられていない感覚の芽吹きを封じ込められる。


まずシャワー。温度36.8℃。水圧は2.0バール。排水口が銀色の髪と皮膚の鱗屑を吸い込む様子を眺めながら、意識を空っぽにしていく。


次に、脱衣所の体重計。64.8キログラム。身長176センチ、BMI値は20.4。誤差±100グラム以内――許容範囲だ。裸の胸板には、四日前に移植されたばかりの新しい生体IDチップが青く浮かんでいる。型番LC−VOX453:調律局の中央サーバーとリアルタイム接続可能な、超高帯域通信デバイス。


朝食。食パン一枚、全粒粉クラッカー三枚、オリゴ糖入りヨーグルト。炭水化物25グラム、タンパク質10グラム、脂質8グラム、食物繊維5.9グラム――栄養計算は頭の中で瞬時に完了し、数値だけが脳裏を通過していく。味蕾は鈍磨剤を日常的に投与しているせいでほとんど作動せず、どの食材にも共通した薄い塩辛さしか感知しない。それで十分だ。必要なエネルギーさえ補給できれば、美味いとか不味いといった曖昧な基準に惑わされることはない。


テーブル脇に置いたデスクトップ端末を起動すると、「今日のスケジュール」ウィジェットが表示された。


07:30\健康チェック(呼吸・脈拍・波動)

08:00\技術研修「波形強制同期理論」

12:00\昼食摂取(推奨カロリー600kcal以下)

13:00\業務打合せ「調整対象個体B−102に関する最終決定」

15:00\心理評価(担当:久瀬博士)

17:00\帰宅・休息プログラム実行


私はそれらを確認すると、画面上で一つずつチェックマークを付けていく。まだ実行していないのに、完了する予定のことはすでに過去の出来事のように感じる。これもプロトコルの一部だ。「未来を計画することで、不確実性を殺す」という発想は、私の精神構造を整えてくれる。


シャワー室を出て、リビングに移動する。216平方メートルのワンルームマンションは、私一人の住居としては規格外の広さだが、調律局の執行官に与えられる標準的な待遇だ。壁一面に埋め込まれたモジュール式の収納棚には、30着の同一デザインのスーツが整然と並んでいる。色は濃紺。素材は通気性と防汚性を両立させたナノ繊維。仕様は局の制服規格に厳密に準拠。


私はそのうちの一着を選び、身に纏う。


その時、奇妙なことが起きた。


シャツの第二ボタンを留める瞬間、指先が偶然襟元を擦った。ナイロンの繊維が肌に触れた感触が、脳のどこかで別の感覚に変換された。まるで砂地を裸足で歩いた時の、粗い抵抗とそれに伴う微かな痛みのような、あるいは繭のできた手のひらが乾いた紙に触れた時のような――


「……?」


私は動作を止め、指先をじっと見つめた。白い皮膚。整備された爪。調律局標準の医療検査を毎月受けている身体。何も異常はない。先ほどの感覚は、もう完全に消えていた。


「バグ」


私は声に出してそう断定した。直近の脳波スキャンで、局の医療AIは「シナプス接続の局所的な再編成」と診断していた。これは時々起きる。長年の調整業務によって、私自身の神経回路も細かな損傷を受けているのだ。それは仕事上のハザードとして許容され、時々生じる感覚の「ノイズ」は自己診断と鎮静プロトコルで管理される。


私は左耳にだけ装着したカナル型イヤホンを、深く奥まで押し込んだ。


そこから流れてくるのは、音楽ではない。厳密に言えば、音ではない。周波数40ヘルツの単音。その周波数で精密に制御された振動パターンが、鼓膜を通じて直接蝸牛神経を刺激し、大脳辺縁系に働きかける。これは「生活基底波」と呼ばれる、感情の振幅をゼロ近くに保つための自己治療用のノイズキャンセリングだ。


イヤホンを装用して四秒後、世界が再び無色になった。


私は時計を見た。06:43。プロトコル遅延三分。


慌ててキッチンに向かい、コーヒーの準備を始める。


マンデリンの豆。正確に18グラム計量。電動ミルは600回転で4秒間稼働。中細挽き。濾紙は円錐型の01サイズ。湯温92度。30秒間の蒸らしの後、300ミリリットルを同心円状に注ぐ。


この手順は、私が執行官になった初年に確立したものだ。当時の上司だった久瀬から、「あなたは感情の起伏が激しいタイプだ」と指摘を受け、それを沈めるための処方箋として導入されたルーティンだ。以来、私は朝のコーヒー抽出を一日の安定点として機能させてきた。


挽く音は思考のノイズを削り落とすやすりの音だ。お湯を注ぐ際、指先の震えはゼロミリ秒以内に収まる。目の前のハンドドリップサーバーに溜まっていく褐色の液体は、私の制御下にある領域の象徴だ。


しかし、今日は違った。


湯気が立ち上る中、私は再びあの感覚を捉えた。鼻腔をかすめる、かすかな甘酸っぱさ。熟した果実の、あるいは発酵したブドウの、鋭くも柔らかな芳香。


記憶がない。データベースに存在しない。私は執行官になる前の個人史を、局の医療部門によって「初期化」されている。それ以前の私は存在しない。存在してはいけない。それが調律局の執行官としての資格だ。


にもかかわらず、その香りは確かに「何か」を想起させようとしていた。岩手の山奥。冷涼な気候。夜にしか咲かない、淡い光を放つ花。


「……葛巻」


私は無意識に、その地名を口にしていた。


自分の声に驚き、慌ててイヤホンのボリュームを上げる。中立音が膜を張り、外界を遮断する。だが、今度は遮断が不完全だった。どこかに隙間があり、そこから不可視の風が吹き込んでくるような、そんな感覚。


私はコーヒーカップを手に取り、一口飲んだ。味はない。ただの褐色の液体だ。だが、喉を通過する感触の中に、私は確かに「別の味」を幻視していた。甘くて、少しだけ苦くて、体温よりも少し温かくて、誰かの笑顔とセットになった、赤い液体。


「……バグだ」


もう一度、短く吐き捨てた。そして残りのコーヒーをシンクに流し、朝食を中断した。食欲は完全に失われていた。


代わりに、私はリビングの窓際に立ち、45度開いたカーテンの隙間から外を眺めた。第7新東京市の朝の光景が広がっている。ガラスとコンクリートと、自律走行する無音の車列。空は曇り。湿度65%。不快指数は低い。


誰も叫んでいない。誰も泣いていない。誰も笑っていない。


凪の街。


私はその一部として、ここにいる。


第二節:執行人の業務


調律局中央第3支局は、新東京ビッグサイトの再開発地区に位置する。外観は普通のオフィスビルだ。ガラス張りのエントランス。AI受付。顔認証ゲート。しかし、地下5階から地下12階にかけては、厳重な生体認証を要する隔離区域が広がっている。


私はそこに向かう地下エレベーターに乗り、B8階の執行部フロアで降りた。


「おはようございます、真波執行官」


通路のAI秘書が合成音声で挨拶する。私は無言で頷き、自分の執務室へ向かった。部屋番号804。12平方メートルの個室。窓はない。白い机、白い椅子、白い壁。唯一の色彩は、モニタースクリーンの青白い光だけだ。


着席すると、デスクトップに業務リストが自動表示された。


【本日の調整案件】

案件番号:TK−2045−089

対象個体:B−102(通称:山本健太)

年齢:23歳

職業:データエントリー業務員

検収理由:公共空間における「感情過剰露出」

症状:通勤電車内で無断哭泣。周囲12名の精神安定度に悪影響。感染指数0.47。


私は対象の脳波スキャンデータを開いた。三次元表示された波形図には、異常な高振幅のデルタ波が確認できる。悲しみの特徴的パターンだ。中心周波数は4ヘルツ付近。この個体は、何らかの喪失体験に起因する重度の抑うつ状態にある。


「調整は可能」


私は診断を下した。対象の波形はまだ「特定可能」な段階にあり、逆位相照射による完全相殺が理論上可能だ。


調整の手順は確立されている。まず対象を隔離施設へ「招待」する。次に、高精度な脳波スキャナーで感情の中心周波数を特定。そして、調整室の照射装置から、正反対の位相を持つ電磁波を照射する。


結果はいつも同じだ。対象は穏やかな微笑みを浮かべ、これまでの「ノイズ」を一切覚えていない状態になる。そして社会に復帰し、再び「凪」の一部として機能する。


私がやっているのは殺害ではない。社会というオーケストラの中で、一人だけ違う調性で演奏を始めてしまった楽器の弦を、優しく緩めてやるだけだ。弦が切れることはない。ただ、余計な振動が止まる。


私は人間ではない。この世界を快適に保つための、透明な機能だ。


その認識を保つことが、私の精神の安定に不可欠だ。


業務報告書を作成し、送信ボタンを押す。承認待ちの表示。通常なら数秒で承認が下りるはずだ。だが、今日は違った。表示は「承認保留」のまま、一分、二分と経過した。


私は眉を顰めた。これは異常だ。


「真波執行官」


インターコムから、上層部の直通回線が開通する音がした。画面には、久瀬局長補佐の顔が映し出された。年齢不詳の女。白髪混じりの黒髪を後ろで束ね、鋭い眼鏡の奥で細い目を細めている。彼女は私の直属の上司で、同時に私の「調整」も担当している医療責任者だ。


「久瀬さん。承認保留は何かのエラーですか」


「いいえ、意図的なものです。真波さん、あなたに新しい案件をお願いしたい」


画面が切り替わった。そこに表示されたのは、私と瓜二つの顔だった。


年齢:28歳

名前:真波恒一

状態:逃亡中/検収対象


私は呼吸を止めた。画面上の男は、私と同じ顔の造形を持っていた。同じ眉の形。同じ目尻の下がり具合。同じ鼻の高さ。同じ、薄い唇。


「これは……何のエラーですか」


「エラーではありません」


久瀬の声は、いつもの穏やかな、そして冷徹なトーンを保っていた。


「真波さん。あなたは優秀すぎる執行官でした。感情の制御という点で、歴代最高の適性値を記録しました。しかし、その適性を得るために、あなたは自らの過去をかなりの程度『切除』しなければなりませんでした」


「そのことは承知しています。初期化は私の意思でした」


「ええ。しかし、技術的には完全な消去は不可能でした。あなたの脳の物理的構造から、『旧い自分』を完全に切り離すことはできなかった。そこで局は、あなたの『残渣』を、新たな個体として培養・育成することを決定しました」


「……培養?」


「クローンではありません。あなたの脳のスキャンデータから、初期化前の人格パターンを再構築し、別の肉体に転写したのです。彼こそが、画面に映る『M』――あなたの元の自分、あるいは、あなたが捨てた可能性です」


私はモニターを凝視し続けた。画面上の男は、私と同じ顔をしていた。だが、何かが違った。目の輝きが。口角の緩み具合が。生き方の「振幅」が。


「彼は現在、民間の非合法居住区に潜伏しています。そして、あなたと驚くべきレベルで『共鳴』しています。あなたの脳波と、彼の脳波は、距離にかかわらず一定の相関を示しています」


久瀬は資料を送付した。グラフ表示には、二つの波形が重なり合っている。私のものと、検収対象「真波」=コードネーム「M」のもの。それらはまるで鏡に映したように、正反対の位相を保ちながら、完璧なシンクロを示していた。


「この共鳴が続けば、あなたの精神安定度は崩壊します。そして、彼の存在そのものが、調律局のシステムにとって重大な脅威となります」


「彼は、何をしたのですか」


「何もしていません。それが問題なのです」


久瀬は、珍しく眉を動かした。


「彼は『調整』を拒否しています。自分の感情を、自分のままで保持し続けている。そして、その『不協和音』が、周囲に感染しています。あなたの中の『バグ』も、実はこの共鳴の影響です。葛巻のワインの幻覚、覚えていますね?」


私は黙った。あの感覚は、監視されていたのか。


「彼を検収してください。そして、あなた自身の『逆位相』として、彼を消去してください」


久瀬の言葉が、イヤホンの中立音を突き抜けて脳内に響く。

「自分自身を打ち消すことで、あなたは真の『無』になれる」


その瞬間、イヤホンの隙間からささやきが聞こえた。


『――君は、今の自分が本物だと思っているのかい?』


それは、紛れもない私自身の声だった。しかし、口を開いたわけではない。思考として生成されたわけでもない。外部から、直接、鼓膜を通さずに内耳へと届いた、電磁的な共鳴。


私は慌ててイヤホンを外した。中立音が消え、オフィスの空調音が現実として戻ってくる。しかし、あの声は残っていた。脳の引き出しの奥に、ちりちりとした余韻が焼き付いている。


「聞こえましたね、真波さん」

久瀬の声がインターフォンを通して続く。

「あれが『M』です。あなたの古い部分、初期化に耐えられずに分離された、まだ『生きている』あなたの一部分」


「……あれは私ではありません」

「いいえ。遺伝子レベルでは別人ですが、情報的同一性では、あなたは二人とも『真波恒一』です。だから、同じ名前で呼んでいるのです」


「名前も実験の一部だと?」


「いいえ、効率の問題です。複製品に新たに名前を割り当てるコストを考えれば、元の識別子を使用するのが合理的でしょう? ただし、局内のコードネームは『M』に統一しています。Morphing(変容)、Memories(記憶)、あるいは——Mimic(模倣)。あなたを参考にして作られたので」


「なぜ彼は逃亡しているんですか」

苛立ちを抑えながら問うた。

「Mは、私がかつて経験した初期化の過程を辿っています。その段階で感情の抑制剤を服用せず、むしろそれを積極的に排除し始めたのです。つまり——」

「抗う選択をした、ということですね」

「そうです。彼は感情の制御方法を理解しながら、あえて解放を選んだ。その結果、彼は他の被検体への影響力を持つようになりました。感染性を持つ不協和音、言うならば『歌』を歌い始めたんです。あなたが最近体験した『バグ』も、その歌詞の一部と考えてください」


「なぜすぐに抹消しないんですか」

「できないからです」

久瀬は淡々と言った。

「彼の波形があまりにもあなたと酷似しているため、下手に逆位相を当てると、あなたの精神安定度にも影響が出る可能性が高い。共鳴が深い故の副作用です。しかも——」

彼女は画面を切り替え、ある波形グラフを表示した。

「これが今のMの状態です。ご覧ください。彼は自分の波形を調整するどころか、意図的に増幅しています。そして面白いことに、増幅した波形はあなたに向けられているんですよ、真波さん」


私は息を詰めた。グラフは明らかに指向性を持っていた。Mの感情振幅は私への伝播を想定した形状をしている。


「……私を誘っているんですね」

「そうです。あなたに会うことを望んでいます」


「なぜ、私がやらなければならないんです?」


「他に手段がないからです」

久瀬の語尾がわずかに緊迫した。

「あなた以外の執行官が接触すれば、Mの波形に飲み込まれる危険性がある。彼の音色を知るのはあなただけ。あなたは唯一の『共鳴器』であり、唯一の『キャンセラー』なんですよ」


そして追加した。今度は沈痛な様子で。

「Mは執行官の資格も持っています。あなたの知識、技術、さらには特定の暗号キーまで、部分的に引き継がれています。逃げ隠れの歴史がありますが、公式に行動すれば、あなたとしての潜入も可能でしょう。彼の危険性は、あなたが想像する以上です」


「彼の目的は何ですか」

「わかりません。ただ、私たちが傍受した断片情報によると——」

久瀬は音声ログを再生した。


ノイズの混じる中、確かにあの声があった。私の声が。

『……海へ行くんだ。潮の匂いがする、赤い夕焼けを見に。そこで待っている。君自身に会いに』


私は目を閉じた。中和音のない静寂の中で、あの声は脳内を反響していた。

『葛巻』という地名も。ワインの香りも。すべてMからの「歌」だったのだと理解した。


「分かりました」

目を開け、私は答えた。

「検収任務、承認します」


「正解です、真波さん」

久瀬の口元がわずかに緩んだ。計算された慈愛の笑み。

「ただし、この任務には特殊な準備が必要です。対象があなたと同一である以上、あなたの現在の精神構造を維持しながら接触することは不可能です。Mに追跡される前に、あなた自身が『Mになる』必要がある」


「……波形トレースの許可を請求します」


「承認します。限界までMに近づいてください。そして、その末に——」

久瀬の言葉が、調律局の公式マントラと重なり合った。

「——逆位相で、お互いをゼロにしてください」


私は承認ボタンを押した。


承認番号:TK-2045-090-CONSTANT

対象:真波恒一(M)

処分方法:自己共鳴型逆位相照射

予測結果:双方向凪化


「関連書類はタブレットに送付しておきます。任務開始は、明日の朝、あなたの『生活基底波』が安定した時点で」

画面が暗転した。


私は執務室に一人残された。


机の上には、未だに43℃で温かいはずのコーヒーがあった。一口も飲んでいない。褐色の液体は、観察者不在の水面に微かな波紋を刻んでいる。


その波紋を見つめながら、私は初めて「自分」という概念の曖昧さを意識した。


私は誰か。

Mは誰か。

そして、明日の朝、凪の中で消えるのは、どちらの「真波恒一」なのか。


イヤホンを取り出し、左耳に装着する。しかし、今度は電源を入れなかった。ただ、カナル型のシリコンが鼓膜を塞ぐ感触を確かめるように、指で固定した。


その向こう側で、もう一度、ささやきが聞こえた気がした。


『海は、まだ赤いよ』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ