第9話 契約と本音
掌に残る火傷しそうな熱の余韻を握りしめながら、私は夜の玄関ホールに立った。
重厚な扉が閉まる音が、背後で重く響く。
外にはまだ、ウィンズレット公爵家の馬車の車輪音が残っている気がした。
漆黒の馬車。扉に刻まれた黄金の鷲の紋章。
それを見送った門番の驚愕した顔と、恭しすぎる敬礼が、今の私の立場を雄弁に物語っていた。
——終わった。
長い、長い一夜が。
私は大きく息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜こうとした。
けれど、それは許されなかった。
「……セシリア」
階段の上から、抑揚のない、しかし隠しきれない興奮を帯びた声が降ってきた。
見上げると、ガウンを羽織った父が立っている。その後ろには、目をらんらんと輝かせた義母の姿もあった。
まるで獲物を見つけたハイエナのようだ。
「お帰りなさい、お父様。……ただいま戻りました」
私はスカートの裾を摘み、完璧なカーテシーをした。
まだ「公爵子息のパートナー」としての魔法は解けていない。背筋を伸ばし、堂々とした態度を崩してはならない。
父が階段を降りてくる。その足取りは、いつもの威圧的なものではなく、どこか浮ついていた。
「見えたぞ。……あれは、ウィンズレット公爵家の馬車だな?」
父は私の目の前まで来ると、私の顔を覗き込んだ。
今まで一度も向けられたことのない、期待と、そして下卑た計算の色が浮かんだ瞳。
私は視線を逸らさず、静かに微笑んだ。
「ええ。ルーカス様が、夜道は危ないからと送ってくださいましたの」
「ルーカス様……様呼びか! しかも、あの『氷の公爵令息』がわざわざ送ってくるとは……」
父が感嘆の息を漏らす。
義母が横から口を挟んだ。
「信じられないわ。あの方は女性を寄せ付けないことで有名でしょう? まさか、セシリアが何か……不躾な真似をして無理やり乗り込んだりしたんじゃないでしょうね?」
義母の言葉には、あからさまな懐疑と嫉妬が含まれていた。
自分の娘であるリサではなく、私が選ばれたことが面白くないのだ。
その反応に、私の胸の奥が冷える。
「まさか。……あちらから、お誘いいただいたのです」
嘘ではない。
「盾になれ」という命令に近い誘いだったけれど。
「会場でもずっと一緒だったそうじゃないか。ダンスも一曲踊ったと、知り合いから早馬で知らせが来たぞ」
父の声が弾む。情報の回りが早すぎる。貴族社会の噂好きには吐き気がする。
父は私の肩に手を置いた。その手は、まるで高値がついた競走馬を撫でるような手つきだった。
「で、どうなんだ。あの方とは、どのような話をした?」
核心を突く問い。
ここで「契約結婚のようなものです」と言えば、全てが台無しになる。かといって「愛されています」と言えば、すぐに嘘だとバレるだろう。
私は、ルーカスの言葉を思い出した。
『君の冷めた目がいい』
私は伏し目がちに、言葉を選んだ。
「……多くは語れませんわ。ただ、ルーカス様は静かな場所がお好きで……私の『騒がしくないところ』を気に入ってくださったようです」
曖昧な肯定。
けれど、父の脳内では勝手に都合の良い解釈へと変換されていく。
「そうか、そうか! やはりお前のその控えめな性格が、あの方の琴線に触れたのだな!」
父は満足げに頷き、そして独り言のように早口でまくし立て始めた。
「ウィンズレット家といえば、王家に次ぐ名門……いや、実質的な権力と資産は王家をも凌ぐと言われている。あそこに食い込めれば、我が家の借金など一瞬で……」
醜い。
実の娘を前にして、金の話しか出てこないのか。
ふと、父が顔を上げ、真顔になった。
「セシリア。ギルバート殿下からの誘いはあったか?」
心臓が跳ねる。
私は表情筋を総動員して、無表情を保った。
「……ご挨拶程度には。ですが、ルーカス様がいらっしゃいましたので、深くはお話しできませんでした」
「それでいい」
父は即答した。
「殿下には近づくな。あの方は……少々、女性関係がお派手だという噂も絶えん。王妃になれるならまだしも、側室や愛人止まりでは旨味がないからな」
驚いた。
父は、ただ権力に盲目なだけではなかったのか。
ギルバートの軽薄さを、リスクとして冷静に天秤にかけていたのだ。
一度目の人生で私を彼に押し付けたのは、他に選択肢がなかったからに過ぎない。
「ウィンズレット家の方が堅実だ。……いいか、セシリア。今のこの機を逃すな。ルーカス様の関心を繋ぎ止めろ。殿下の誘いは、体調不良とでも言って断り続けろ」
父の命令。
それは、私が喉から手が出るほど欲しかった「処刑回避」への許可証だった。
本来なら、飛び上がって喜ぶべき状況だ。
ギルバートとの婚約フラグは、父公認でへし折られたのだから。
けれど、私の口から出たのは、乾いた承諾の言葉だけだった。
「……はい、お父様。仰せのままに」
◇
自室に戻り、重いドレスを脱ぎ捨てた私は、冷え切ったシーツに身を投げ出した。
天井を見上げる。
助かった。
とりあえず、第一関門は突破した。
父の方針が変われば、無理やり夜会に行かされることも、王子に媚びる必要もなくなる。
——でも。
胸の奥に広がる、この鉛のような重さは何だろう。
私は自分の手を見た。
ルーカスと繋いだ手。彼に「盾」として利用され、父には「駒」として再評価された手。
結局、私は何も変わっていないのではないか?
自分の力で運命を切り開いた気になっていたけれど、ただ「ギルバートという飼い主」から「ルーカスという飼い主」に首輪を付け替えようとしているだけではないのか。
「……情けない」
独り言が、暗い部屋に吸い込まれる。
あの時、ルーカスに「対等な共犯者」だと言い放った自分の声が、今は滑稽に響く。
私は彼の権威という虎の威を借る、ただの臆病な狐だ。
窓の外、月が雲に隠れていく。
ルーカスの言葉が蘇る。
『この借りは、高くつくと思え』
本当の支払いは、これからだ。
私は目を閉じ、逃げるように眠りを求めた。
夢の中でだけは、誰のものでもない自分でありたいと願いながら。




