第8話 氷公爵の熱
庭園の闇から一歩踏み出した瞬間、暴力的なまでの光の洪水が私を襲った。
シャンデリアの輝き。
何百もの蝋燭の揺らめき。
そして、ホールを埋め尽くす貴族たちの、ギラギラとした視線の熱。
腕に絡まるルーカスの体温だけが、ここが現実であることを繋ぎ止める唯一の錨だった。
緊張で指先が氷のように冷たくなる。
けれど、革手袋越しに伝わる彼の腕は、驚くほど熱く、そして硬かった。
「……顔を上げろ」
隣から、吐息のような低い声が降ってくる。
ルーカスは前を向いたまま、口元を動かさずに囁いた。
「君は今、ウィンズレット公爵家の次期当主に選ばれた女だ。……堂々としていろ」
その言葉に、背筋に冷たい針が走るような感覚を覚えた。
そうだ。
私は今、ただのセシリアではない。彼の「盾」であり、共犯者なのだ。
おどおどと視線を彷徨わせれば、その瞬間にこの契約は価値を失う。
私は深く息を吸い込み、コルセットに締め上げられた腹筋に力を入れた。
顎を少しだけ上げ、眼下の群衆を見下ろす角度を作る。
かつて断頭台の上で見せた、最期の矜持と同じ角度で。
ざわり、とホールが波打った。
「あれは……ウィンズレット公爵令息?」
「まさか、女性を連れているのか?」
「誰だ、あの娘は。見たことのない顔だが……」
囁き声がさざ波のように広がる。
当然だ。
「氷の公爵子息」が、誰かをエスコートして現れるなど、天変地異に等しい出来事なのだから。
突き刺さる視線の中には、嫉妬、好奇心、そして侮蔑が入り混じっている。
特に、扇で口元を隠した令嬢たちの目は剣呑だ。
『なぜ、あんな流行遅れのドレスの女が』
声にならなくとも、その唇の動きで分かる。
けれど不思議と、以前のような恐怖はなかった。
私の隣には、圧倒的な「力」が存在しているからだ。
ルーカス・ウィンズレットという劇薬は、周囲の悪意を無効化する強力な結界となっていた。
「……シルヴェイ伯爵だ」
ルーカスが小さく言った。
視線を向けると、人垣の向こうで、父が信じられないものを見る顔で口を開けていた。その手から、グラスが滑り落ちそうになっている。
いつも威厳を保っている父の、あんな間抜けな顔を見るのは初めてだった。
胸の奥で、暗い喜びの火花が散る。
ざまあみろ。
私を道具としてしか見ていないあなたが、その道具が勝手に最高級のブランドを手に入れた姿を見て、どんな計算を巡らせているのか。
「……いい気味だ、という顔をしているな」
「! ……まさか」
図星を突かれ、私は慌てて表情を引き締める。
ルーカスは喉の奥でくつくつと低く笑った。
「隠さなくていい。その悪辣な本性が、君の魅力だ」
褒め言葉に聞こえない賞賛を受け取ったその時、オーケストラの指揮棒が振られた。
優雅なワルツの調べが流れ始める。
ルーカスが立ち止まり、私に向き直った。
その紫紺の瞳が、逃げ場のない檻のように私を閉じ込める。
「踊るぞ」
「え……」
「ただ立っているだけでは、盾の役目は果たせない。……あの男に見せつけてやる必要がある」
彼の視線の先、ホールの隅で、ギルバートが忌々しげにこちらを睨んでいるのが見えた。
まだ諦めていないのか。
ならば、決定的な一撃が必要だ。
私は覚悟を決め、差し出された彼の手を取った。
大きな手が、私の腰に回る。
引き寄せられる。
身体が密着し、ドレスの布越しに彼の脚の動きが伝わってきた。
近い。
男性とここまで近づくのは、一度目の人生でのギルバートとのダンス以来だ。
反射的に身体が強張りそうになる。
けれど、ルーカスのリードは、かつての婚約者とはまるで違っていた。
強引だが、乱暴ではない。
私の歩幅を完璧に把握し、流水のように滑らかに私を誘導する。
そこには甘い情緒も、愛おしむような撫でるような感触もない。あるのは、精密機械のような正確さと、絶対に私を転ばせないという鋼の安定感だけだ。
——ああ、なんて楽なのだろう。
私は彼に身を委ね、ステップを踏んだ。
何も考えなくていい。
彼の動きに合わせていれば、私は完璧なワルツを踊る「美しい人形」でいられる。
「……悪くない」
回転の遠心力に身を任せた瞬間、耳元でルーカスが囁いた。
「君は、踊る時も無心なのだな」
「……余計なことを考えると、足がもつれますので」
「そうか。……その虚無感は、存外心地がいい」
彼は私の腰を支える手に、ほんの少しだけ力を込めた。
痛くない。むしろ、守られていると感じる強さだ。
周囲の景色が、回転と共に光の帯となって流れていく。
父の驚愕も、令嬢たちの嫉妬も、ギルバートの執着も、すべてが遠い彼方の出来事のように感じられた。
世界には今、私を支えるこの男の、冷たくて熱い腕だけがある。
これは演技だ。
契約に基づく、一夜限りの嘘だ。
分かっている。
けれど、嘘でもいい。この瞬間だけ、私は「誰かの道具」でも「処刑される悪女」でもなく、ただ一人のパートナーとして扱われている。
曲の終わりが近づく。
最後の回転で、ルーカスは私を深く倒し込み、フィニッシュを決めた。
拍手が湧き起こる。
天井のフレスコ画が、逆さまの視界で揺れていた。
身体を起こすと、少しだけ息が上がっていた。
ルーカスは汗ひとつかいていない涼しい顔で、けれど私の手を放そうとはしなかった。
「……そろそろ、お開きにしようか」
彼は私の手を握ったまま、出口の方へと視線を向けた。
「君の家まで送る。……最後まで、役目を全うしろ」
家まで。
つまり、あの父と義母の待つ屋敷の前まで、この「公爵子息の寵愛」という最強のカードを持って凱旋するということだ。
私は熱くなった頬を隠すように、扇を開いた。
その影で、自然と口角が上がる。
今度の笑顔は、作り物ではないかもしれない。
「ええ、喜んで。……共犯者様」
私は彼の手を握り返した。
その手は、やはり火傷しそうなほど熱かった。




