第7話 共犯の提案
月明かりの下、私はルーカス・ウィンズレットという劇薬を前にして、息を整えた。
対価。
その言葉の重みが、冷たい夜風と共に肩にのしかかる。
公爵家への借りは、金銭で解決できるような生易しいものではない。もし彼が「右腕をよこせ」と言えば、私は躊躇なく切り落として差し出さなければならないほどの身分差がある。
けれど、あの断頭台の絶望に比べれば、腕の一本くらい安いものだ。
「……それで、ウィンズレット様。私のような伯爵令嬢に、何を求めておいでですか」
私は努めて冷静な声を出し、彼を見上げた。
ドレスの裾を直してくれた彼の手は、すでに懐に戻されている。
ルーカスは興味なさげに夜空を見上げ、それからゆっくりと視線を私に戻した。その瞳は、値踏みするような、それでいてどこか楽しんでいるような光を帯びていた。
「簡単なことだ。君には私の『盾』になってもらう」
予想外の言葉に、私は瞬きをした。
「盾、でございますか? 魔法も剣も使えない私ごときが?」
「物理的な話ではない。……先ほどの君と同じだ」
ルーカスは軽く顎で会場の方をしゃくった。
微かに漏れ聞こえる音楽と喧騒。
「私はあの空間が嫌いだ。特に、血眼になって獲物を探しているご令嬢たちの視線には反吐が出る。だが、立場上、完全に無視して立ち去るわけにもいかない」
彼の顔に、露骨な嫌悪の色が浮かぶ。
氷の公爵子息と呼ばれ、完璧に見える彼にも、そんな人間臭い感情があったのか。
いや、だからこそ「氷」と呼ばれているのかもしれない。他者を拒絶することで、自分を守っているのだとしたら。
「つまり……私に、そのご令嬢たちの防波堤になれと?」
私は恐る恐る尋ねる。
ルーカスは短く頷いた。
「そうだ。私が特定の相手——君をエスコートして会場に戻れば、羽虫どもも少しは遠慮するだろう。第一王子への『先約』の証明にもなる」
なるほど。
理屈は通っている。
私を「親しい女性」として侍らせることで、他の女性を寄せ付けないための口実にする。そして同時に、私がギルバートから逃げるための隠れ蓑としても機能する。
相互利益。
ウィン=ウィンというやつだ。
けれど、腑に落ちない。
私は拳を握りしめ、冷たくなった指先の感覚を確かめながら問うた。
「……僭越ながら、疑問がございます」
「なんだ」
「なぜ、私なのですか? 盾役なら、もっと美しく、身分の高いご令嬢がいくらでもいらっしゃるはずです。私のような地味で、何の取り柄もない女を選ぶ理由が分かりません」
これが罠でないと誰が言いきれる?
彼は私を一時的に利用して、後で全ての責任を押し付けて切り捨てるつもりかもしれない。一度目の人生で、私はそうやって「利用価値」を搾り取られた。
ルーカスは少しだけ目を細めた。
その視線が、私の心の奥底にある猜疑心を射抜く。
「他の令嬢では意味がない」
彼は淡々と言い放った。
「彼女たちは、隙あらば私の寝室に入り込もうとする。だが君は違う」
彼は一歩、私に近づいた。
長身から落ちる影が、私を完全に飲み込む。
「君は私を好いていない。それどころか、私を含めた貴族社会そのものを軽蔑している。……その冷めた目こそが、私にとっては最も信用できる『安全装置』だ」
心臓が、ドクンと跳ねた。
見抜かれている。
私の本質。誰にも期待せず、誰をも拒絶している私の内面こそが、彼にとっては好都合なのだと。
皮肉な話だ。
「いい子」を演じて愛されようとした一度目の人生では誰にも選ばれなかったのに、「冷めた目」をした今、この国で最も価値ある男性の一人に選ばれようとしているなんて。
私は唇を噛み、逡巡した。
この手を取れば、私は「公爵子息の相手」として注目を浴びる。それは「目立たずに生きる」という当初の計画とは矛盾する。
けれど、手を取らなければ、待っているのはギルバートという名の死神だ。
選択肢など、最初からなかった。
私は小さく息を吐き、覚悟を決めた。
どうせ地獄だ。
ならば、少しでも生存確率の高い地獄を選ぶしかない。
「……承知いたしました」
私は顔を上げ、彼の紫紺の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「貴方様の盾として、精一杯『厄介な女』を演じさせていただきます。ですが、条件がございます」
「言ってみろ」
「あくまで、今夜だけです。会場を出れば、私たちはただの他人。……それでよろしいですね?」
深入りはしない。
勘違いもしない。
これはビジネスだ。
ルーカスは私の条件を聞き、口の端をわずかに——本当にわずかに、三日月のように吊り上げた。
「いいだろう。契約成立だ」
彼は恭しく、けれどどこか芝居がかった仕草で右手を差し出した。
ダンスの申し込みではない。共犯者への招待状だ。
私はその大きな手に、自分の震える手を重ねた。
彼の体温が、革の手袋越しに伝わってくる。
熱い。
氷の公爵子息なんて嘘だ。彼の掌は、火傷しそうなほど確かな熱を持っていた。
「行くぞ。……私の『愛しい』セシリア嬢」
わざとらしい甘い言葉に、背筋がゾクリとする。
私は引きつりそうな頬を無理やり持ち上げ、完璧な淑女の仮面を被り直した。
「ええ。参りましょう、ルーカス様」
私たちは腕を組み、光と欲望が渦巻く会場へと歩き出した。
庭園の闇を抜けた先、眩しいほどのシャンデリアの輝きが、私たちを待ち構えている。
もう、後戻りはできない。
私は今日、悪魔と契約したのだ。




