第6話 予期せぬ盾
夜の冷気を孕んだ黒い背中が、視界を完全に塞いでいた。
目の前に立ちはだかったルーカス・ウィンズレット。
彼が私の前に割って入った瞬間、あれほど強烈だったギルバートの威圧感と、死の匂いがぷつりと遮断された。
まるで、分厚い鉄の扉が閉ざされたかのような、絶対的な隔絶。
私は動けないまま、その背広の皺ひとつない黒い生地を見つめていた。
呼吸をするのも忘れていた。肺の中で空気が古びていく。
助かったのか?
それとも、より悪い状況に陥ったのか?
「……ウィンズレット公爵令息か」
ギルバートの声が、不機嫌に低く唸った。
さきほどまでの甘ったるい声音は消え、獲物を横取りされた肉食獣のような苛立ちが滲んでいる。
「先約、と言ったね。奇妙だな。彼女はたった今、一人で隠れていたように見えたが」
「待ち合わせに遅れたのは私ですので」
ルーカスは平然と答えた。
その声には、王族に対するへりくだった響きが一切ない。敬語を使ってはいるが、それは単なる記号としての礼儀であり、対等——あるいはそれ以上の位置から言葉を落としているようにさえ聞こえた。
私は震える手で、自分の二の腕を抱きしめる。
バレる。
嘘だとバレれば、不敬罪も加わって私の立場はなくなる。
ギルバートが鼻で笑う気配がした。
「嘘をつくのが下手だな。彼女とは初対面のはずだろう? ウィンズレット家はいつから、貧乏くじのような伯爵令嬢と懇意になったんだ」
貧乏くじ。
その言葉が、鋭い針のように胸を刺す。
一度目の人生で、彼は私を「最高のパートナー」と呼んだ。けれど本心では、ずっとそう思っていたのだ。
扱いやすく、文句も言わず、利用するだけ利用して捨てられる、便利なクジだと。
吐き気がぶり返す。
視界が揺らぐ。
その時だった。
「——訂正を」
ルーカスの声の温度が、氷点下まで下がった。
庭園の空気がびりりと震えた気がした。
「彼女は私の連れです。貴殿が侮辱していい相手ではない」
静かな、けれど有無を言わせぬ殺気を含んだ声。
私は思わず顔を上げ、彼の背中を見た。
なぜ怒る?
私を「反吐が出る」と言い放ったばかりの彼が、なぜ私のために怒りを滲ませるのか。
ギルバートが息を呑む音が聞こえた。
ルーカスの放つ異様なプレッシャーに、さしもの第一王子もたじろいだのだろう。
ウィンズレット公爵家。
王家に匹敵する歴史と、国を支える膨大な魔力を持つ一族。その次期当主であるルーカスを敵に回すことは、王位継承権を持つギルバートにとっても得策ではない。
数秒の、ヒリつくような沈黙。
やがて、ギルバートがわざとらしく肩をすくめた。
「……ふん。冗談が通じない男だ」
彼は舌打ち混じりに呟き、そして私の見えない方へと視線を投げたらしい。
「まあいい。セシリア嬢、また後で。ダンスの時間は空けておくように」
捨て台詞を残し、砂利を踏みしめる足音が遠ざかっていく。
その音が完全に聞こえなくなるまで、私は身動きひとつできなかった。
終わった。
嵐が去った。
張り詰めていた糸が切れ、膝から力が抜ける。
ガクリと崩れ落ちそうになった瞬間、強い力で腕を掴まれた。
「……おい」
乱暴に引き上げられる。
顔を上げると、すぐ目の前にルーカスの顔があった。
紫紺の瞳が、至近距離で私を見下ろしている。
そこには、先ほどギルバートに向けたような殺気はないが、慈愛のような温かさも皆無だった。あるのは、理解しがたいものを見るような、冷ややかな観察眼だけ。
「呼吸をしろ。死人のような顔だ」
言われて初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。
ヒュッ、と喉が鳴り、空気を貪る。
酸素が脳に回り、指先の痺れが少しずつ引いていく。
「……あ、りがとう、ございます……」
掠れた声で礼を言うのが精一杯だった。
ルーカスは私の腕を離すと、懐からハンカチを取り出し、無造作に私へ押し付けた。
真っ白で、上質なリネンのハンカチ。柑橘系の微かな香りがする。
「汗を拭け。見苦しい」
「……はい」
私は大人しくハンカチを受け取り、額に浮かんだ冷や汗を拭った。
なぜ、彼は私を助けたのだろう。
「反吐が出る」演技を嫌っていたはずなのに。
それとも、王族に喧嘩を売る口実が欲しかっただけなのか。
混乱する頭で、私は問いかける。
聞かなければならない。このまま礼だけ言って立ち去るには、彼という存在はあまりに巨大な「謎」だった。
「なぜ……助けてくださったのですか?」
ルーカスは眉をひとつ動かした。
「助けたつもりはない」
「え?」
「あの男が気に入らない。それだけだ」
彼は冷たく言い捨て、私のドレスの裾に視線を落とした。
棘に絡まったままのレース。
彼はため息をつき、膝をついた。
「え、あの、公爵様!?」
「動くな」
彼は私の制止も聞かず、美しい指先で器用に棘を外し始めた。
信じられない光景だ。
あの「氷の公爵子息」が、泥で汚れることも厭わず、伯爵令嬢のドレスを直しているなんて。
プチッ、と小さな音がして、ドレスが解放される。
ルーカスは立ち上がり、汚れた手を払った。
「貸しだ」
彼は私を真っ直ぐに見据えて言った。
「この借りは、高くつくと思え」
その言葉に、私は背筋が粟立つのを感じた。
やはり、ただの善意ではなかった。
彼は私を利用するつもりだ。
けれど不思議と、ギルバートに向けられたような嫌悪感はなかった。むしろ、「取引」という明確な枠組みを提示されたことに、奇妙な安堵すら覚えている自分がいた。
私はハンカチを握りしめ、まだ震えの残る足で一歩踏み出した。
この男は危険だ。
けれど、あの地獄のような処刑台への道を回避するためなら、悪魔とだって手を組めるかもしれない。
「……承知いたしました」
私は仮面を被り直し、けれど今度は目だけは逸らさずに彼を見返した。
「対価に見合うだけの価値を、私に見出してくださるのなら」




