第5話 綻びる仮面
砂利を踏みしめる軽快な足音が、私の心臓を土足で踏み荒らしていくようだった。
近づいてくる。
あの、自信に満ちた足取り。
風に乗って聞こえる、甘ったるい笑い声。
指先から急速に血の気が引いていく。
ルーカス・ウィンズレットに「素顔のほうがいい」と言われた衝撃など、一瞬で消し飛んだ。
目の前にいる「氷の公爵子息」よりも、背後から迫る「太陽の王子」の方が、私にとっては遥かに恐ろしい死神だったからだ。
「……っ」
喉の奥で悲鳴が凍りつく。
逃げなければ。
見つかってはいけない。
もしここで彼と視線が合えば、その瞬間に「運命」の歯車が噛み合ってしまう。ダンスに誘われ、頬を染めて喜ぶふりを強要され、そして三年後の断頭台へと続くレールに乗せられる。
私はルーカスへの礼儀も、淑女としての矜持も忘れ、弾かれたように踵を返した。
通用口へ戻るのは危険だ。彼と鉢合わせる。
ならば、庭園の奥の植え込みの影しかない。
私はドレスの裾を乱暴に鷲掴みにし、植え込みの隙間へと身を滑り込ませようとした。
薄暗い葉陰。あそこなら、夜闇に紛れてやり過ごせるかもしれない。
——ビリッ。
鈍く、しかし絶望的な音が響いた。
足が止まる。
前へ進もうとする身体が、見えない手に引き留められたように動かない。
振り返ると、母の形見であるドレスのレースが、薔薇の棘に深く食い込んでいた。
「……あ」
嘘でしょう。
震える手でレースを外そうとする。けれど、焦れば焦るほど、棘は布地を複雑に噛み込んでいく。
指が震えて力が入らない。
呼吸が浅く、早くなる。
視界の端が白く明滅し始めた。
足音はもう、すぐそこまで来ている。
「おや? こっちには誰もいないのかな」
ギルバートの声だ。
すぐ数メートル後ろ。生垣一枚を隔てた向こう側に、彼がいる。
私は息を止めた。
肺が痛い。酸素を求めて暴れるけれど、音を立てるわけにはいかない。
お願い、通り過ぎて。
私を見つけないで。
私はただの影。ここに存在しない、無価値な石ころ。
ガサリ、と生垣が揺れた。
恐怖で身体が強張る。
その時、ふと視線を感じて顔を上げた。
噴水の縁に佇むルーカスが、じっと私を見ていた。
彼は動かない。
助けようとも、声を上げようともせず、ただ静かに、檻の中の小動物を観察するような目で、私の無様な足掻きを見下ろしている。
その瞳は語っていた。
『なぜ、そこまで怯える?』と。
助けを求めようとして、私は口を引き結んだ。
無理だ。
彼は他人に無関心な公爵子息。私が王族に見つからないよう協力する義理などない。むしろ、ここで声を上げればギルバートに気づかれる。
私は彼から目を逸らし、再びドレスの裾に指をかけた。
もう破れてもいい。引きちぎってでも——
「——あ! 見つけた!」
弾んだ声が、頭上から降ってきた。
時間が、止まった。
ゆっくりと、錆びついた首を上げるように振り返る。
植え込みの切れ目から、金髪の青年が顔を覗かせていた。
背後にある宮殿の明かりを背負い、逆光の中でその顔は輝いて見える。
まるで、物語のヒーローのように。
私にとっては、悪夢の執行人にしか見えないけれど。
「やはりここにいたのか。探したよ、セシリア嬢」
ギルバート・ラングレイ第一王子。
彼は親しげに私の名を呼び、白い歯を見せて笑った。
その笑顔。
処刑の朝、私を見下ろしていたあの笑顔と、一ミリの狂いもなく重なる。
カラン、と頭の中で何かが崩れる音がした。
胃液が逆流する。
吐き気が喉元までせり上がり、私は反射的に口元を押さえた。
言葉が出ない。
「殿下」と呼ぶことすら、今の私には生理的に不可能だった。
「どうしたんだい? そんなところに隠れて。……ああ、もしかして、私と二人きりになるのが恥ずかしかったのかな?」
ギルバートは勝手な解釈をして、生垣を回り込んでこちらへ歩み寄ってくる。
一歩、また一歩。
彼が近づくたびに、首筋の幻の痛みが強くなる。
動けない。
ドレスが絡まっているからじゃない。
恐怖で、脚の感覚が消え失せているのだ。
「顔色が悪いね。可哀想に、夜会の熱気に酔ってしまったのか」
彼は私のすぐ目の前まで来て、心配そうに手を伸ばした。
その手が、私の肩に触れようとする。
やめて。
触らないで。
その手は、私を突き飛ばした手だ。
私を殺した手だ。
悲鳴を上げることすらできず、私はただ目を見開き、迫り来るその手を凝視していた。
世界が回転する。
誰か。
誰でもいい。
この悪夢を、止めて——。
「——お戯れが過ぎますよ、殿下」
冷ややかな声が、ふいにその空間を切り裂いた。
伸ばされたギルバートの手が、空中でぴたりと止まる。
私の肩越し、背後から。
夜の冷気を纏った影が、ぬらりと音もなく立ち上がっていた。
「……彼女には、先約がありますので」
ルーカス・ウィンズレット。
彼が、私とギルバートの間に、無感情な壁のように立ちはだかっていた。




