第4話 氷の公爵子息】
深淵のような紫紺の瞳に見据えられ、私の足は石畳に縫い付けられたかのように動かなかった。
ルーカス・ウィンズレット公爵令息。
夜の庭園、月明かりの下で噴水の縁に腰掛けた彼は、まるで闇そのものから切り出された彫像のように静かだった。
その視線には熱がない。
噂に聞く「氷の公爵子息」そのものだ。他者に関心を持たず、冷徹に切り捨てる男。
心臓が、早鐘を打つのとは違う、ひやりとした拍動を刻む。
まずい。
一番出会ってはいけない類の人間に遭遇してしまった。
彼のような高位の貴族に見咎められれば、ただ立ち去るだけでも無礼にあたる可能性がある。ましてや、私は今、許可なく夜会を抜け出した身だ。
けれど、幸いなことに彼は私に興味がないはずだ。
一度目の人生でも、彼は常に遠巻きに社交界を眺めているだけだった。私のような地味な伯爵令嬢など、視界の端にも入っていないだろう。
私は、強張る喉を無理やり動かして息を吸った。
——刺激しないように。
ただの迷い込んだ愚かな令嬢として、速やかに消えよう。
私は震えそうになる膝に力を込め、ドレスの裾を摘んで深くカーテシーをした。
「……お騒がせして申し訳ございません。人払いされているとは露知らず、迷い込んでしまいました」
顔を伏せたまま、震えを殺した声で告げる。
数秒の沈黙。
噴水の水音だけが、やけに大きく響く。
「……別に、人払いなどしていない」
低く、けれど驚くほど澄んだバリトンの声が落ちてきた。
予想外の返答に、私はわずかに顔を上げる。
ルーカスは、手元のグラス——おそらく中身は水だろう——を揺らしながら、退屈そうに私を見ていた。
「中の空気が腐っているから、避難していただけだ。君と同じようにな」
心臓が一度だけ強く脈打つ。
彼は、私が見ていた「あの瞬間」——ギルバートを見て青ざめ、逃げ出した無様な姿——を見ていたのだろうか?
嫌な汗が背筋を伝う。
もし見られていたなら、「第一王子を見て逃げ出した不敬な女」として認識されたかもしれない。それは致命的だ。
「……恐れ多いお言葉です。私はただ、少し貧血気味でして」
私は唇の端を吊り上げた。
マリーや父に向けたのと同じ、完璧な淑女の微笑み。
これでいい。
体調不良の弱々しい令嬢を演じれば、彼は興味を失って「去れ」と言うはずだ。
「すぐに戻りますので、どうかお気になさらず」
私はもう一度頭を下げ、逃げるように踵を返した。
背中に突き刺さる視線を感じながら、一歩、また一歩と出口へ向かう。
早く。早くあの扉の向こうへ。
こんな得体の知れない男の近くにいては、神経が焼き切れてしまう。
あと数歩で扉に手が届く、その時だった。
「——なぜ、笑う?」
背後から投げかけられた短い問いに、私の足が止まった。
空気が凍りついたようだった。
意味が分からない。
笑う? 愛想笑いのことか? それは貴族の嗜みであり、彼のような高位の者に対する礼儀だ。
私はゆっくりと振り返る。
まだ笑顔を貼り付けたまま。
「……公爵様にお会いできて光栄ですので、つい笑みが溢れてしまいましたわ」
「嘘だな」
間髪入れずに断じられた。
ルーカスは噴水の縁から立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
長身の影が、私を覆い隠すように伸びた。
「君の目は笑っていない。まるで、汚いものを見るような目で笑っている」
息が止まる。
図星を突かれた動揺よりも、戦慄が走った。
この男は、私の仮面の下にある「軽蔑」を見抜いたのか?
父ですら気づかなかった、私の本心を。
近づいてくる足音が、私の逃走本能を刺激する。
逃げたい。
けれど、ここで背を向ければ「無礼者」として処罰の対象になりかねない。
ルーカスは私の数歩手前で立ち止まった。
月光の下、その紫紺の瞳が、至近距離で私を覗き込む。
冷徹だと言われるその瞳に、今は奇妙な苛立ちのような色が混じっていた。
「つまらない演技はやめろ。……見ていて、反吐が出る」
殴られたような衝撃だった。
反吐が出る。
私の必死の防衛策を、生きるための処世術を、彼はそう切り捨てた。
カッ、と頭の中で何かが弾けた。
恐怖が、一瞬にして冷たい怒りへと変わる。
あなたに何が分かる。
生まれながらにしてすべてを持ち、誰にも媚びずに生きられるあなたに、私の何が分かるというの。
私は無意識のうちに、貼り付けていた笑顔を消していた。
口角が下がり、瞳から温度が消え失せる。
かつて処刑台の上で、世界を呪った時と同じ顔で、私は彼を睨み返していた。
「……不快にさせて申し訳ございません。ですが、これが私の処世術ですので」
敬語こそ崩さなかったが、声には棘を含ませた。
どうせ嫌われたのなら、もう媚びる必要もない。
私は冷たい視線で彼を射抜き、今度こそ本当に立ち去ろうとした。
だが。
「……ああ」
ルーカスの口から漏れたのは、非難の言葉ではなかった。
彼は、私の敵意剥き出しの表情を見て、ふっと小さく息を吐いた。
その顔には、先ほどまでの苛立ちはなく、どこか安堵したような、あるいは懐かしむような色が浮かんでいた。
「そのほうが、ずっといい」
——は?
思考が停止する。
彼は今、私の「無礼で冷たい素顔」を肯定したのか?
理解が追いつかない。
呆気にとられて彼を見つめ返す私に、ルーカスは何かを言いかけ——その時、庭園の入り口から騒がしい足音が聞こえてきた。
私の世界が、再び灰色に塗り潰される。
あの足音。
あの、軽薄で自信に満ちた足取り。
ギルバートだ。
私の体温が一気に下がり、指先が痙攣を始めた。




