第3話 処刑場への馬車
空の青さすら灰色に見えたあの日から二週間、私はついに、死地へと運ばれる箱の中にいた。
ガタン、と車輪が石畳の窪みを拾うたび、硬い座席の感触が腰に響く。
窓の外を流れる王都の景色は、夜の帳に包まれていた。ガス灯の明かりが等間隔に過ぎ去っていく様は、まるで私の残り時間を削り取っていくようだ。
馬車の揺れは、記憶の底にある感覚を容赦なく呼び覚ます。
あの時もそうだった。手首を縄で縛られ、罵声を浴びながら、処刑台のある広場へと運ばれていった。
今、手首に縄はない。代わりに嵌められているのは、母の形見である紺色のレースの手袋だ。
私は膝の上で、冷たくなった指先を強引に組み合わせた。
「……セシリア、顔色が悪いぞ」
向かいに座る父が、不審げに眉を寄せた。
心配しているのではない。「会場で粗相をするなよ」という牽制だ。
私は反射的に背筋を伸ばし、肺の中の空気を入れ替える。
「申し訳ございません、お父様。少し馬車に酔ってしまったようですわ」
「ふん。情けない。今夜はリサも来ていないのだから、お前がしっかりとシルヴェイ家の品位を示さねばならんのだぞ」
父の視線が、私のドレスを一瞥する。
深いミッドナイトブルーの生地に、控えめな銀の刺繍。十年以上前の流行だが、質だけは良い母のドレスだ。
リサに譲った最新のドレスのような華やかさは微塵もない。
だが、それがいい。
流行遅れで地味な伯爵令嬢。壁の花として埋没するには、これ以上ない装いだった。
「肝に銘じます」
短く答えて、私は視線を窓の外へ逃がした。
王城の尖塔が、夜空を突き刺すように聳え立っている。
あそこには、彼がいる。
私の人生を一度終わらせた男、ギルバート第一王子が。
馬車が停止し、御者が扉を開ける。
喧騒と音楽、そして濃厚な香水の匂いが、冷たい夜気と共に流れ込んできた。
吐き気がした。
それでも私は、差し出された父の手を取り、優雅にステップを降りる。
——笑え。
これはただの演劇だ。観客はいないけれど、失敗すれば死ぬ舞台だ。
大広間への階段を上るにつれ、シャンデリアの暴力的な光が視界を埋め尽くす。
貴族たちの話し声、グラスが触れ合う音、絹擦れの音。それらが巨大な生き物の唸り声のように聞こえる。
「あら、あれはシルヴェイ家の……」
「ずいぶんと古めかしいドレスね。可哀想に、新しいものをあつらえてもらえなかったのかしら」
すれ違いざま、扇で口元を隠した令嬢たちの囁きが耳に届く。
値踏みするような視線が、肌をチリチリと焼く。
私は口角を数ミリだけ上げ、何事も聞こえていないかのように前を見据えた。
その嘲笑こそが、今の私を守る鎧になる。侮られ、軽んじられれば、誰も私になど注目しない。
父のエスコートでホールの中央へ進む。
その時だった。
「——ははは! そうか、それは傑作だな!」
頭上から降ってきた、よく通る快活な笑い声。
背筋に冷たい電流が走った。
思考よりも早く、足が止まる。
視線の先、一段高い玉座の近くに、金髪の青年がいた。
整った顔立ちに、人を惹きつける明るい笑顔。周囲を取り巻く人々が、彼の一挙手一投足に媚びるように頷いている。
ギルバートだ。
彼の笑顔を見た瞬間、視界が歪んだ。
あの笑顔で、彼は私に愛を囁き、そして同じ笑顔で、断罪状を読み上げたのだ。
『君のような陰湿な女には、もううんざりなんだ』と。
胃袋が裏返るような感覚に襲われ、私は口元を押さえた。
「おい、どうした」
父の苛立った小声が鼓膜を叩く。
私は父の腕を掴む手に、必死に力を込めた。このままでは、その場で蹲ってしまう。
「……申し訳ございません。やはり、少し目眩が……」
「なんだと?」
「少しだけ、風に当たらせてくださいませ。すぐに戻りますから」
父が何かを言う前に、私はお辞儀をしてその場を離れた。
背中に父の舌打ちが刺さるのを感じたが、構っていられない。
ここから離れなければ。彼の視界に入らない場所へ行かなければ。
人混みを縫うようにして、ホールの端へと急ぐ。
壁際の長椅子には着飾った貴婦人たちが陣取っていた。バルコニーへの扉も開かれていたが、そこにも男女の姿が見える。
どこもかしこも、人、人、人。
誰もいない場所はどこだ。
視線が、ホールの隅にある目立たない通用口を捉えた。
使用人や、人目を忍ぶ者たちが使う庭園への出口だ。
私は迷わずそこへ飛び込んだ。
重い扉を閉めると、喧騒がふっつりと遠ざかる。
夜の庭園は静寂に包まれていた。冷たい空気が、火照った頬と震える肺を冷やしてくれる。
「……はぁ、っ、ふぅ……」
植え込みの影まで歩き、石造りの手すりに寄りかかって大きく息を吐いた。
心臓が痛いほど脈打っている。
まだ手足の震えが止まらない。
情けない。覚悟を決めたつもりだったのに、声を聞いただけでこれだ。
しばらく夜風に当たり、ようやく鼓動が落ち着いてきた頃。
ふと、違和感を覚えた。
静かすぎる。
虫の声すら聞こえないような、張り詰めた静寂。
私は顔を上げた。
庭園の奥、月明かりが落ちる噴水の縁に、黒い影があった。
人だ。
男性が一人、座っている。
私は息を呑み、足音を殺して後ずさった。
逢引の最中だろうか? それとも、私と同じように逃げてきた人だろうか。
どちらにせよ、関わるべきではない。
静かに立ち去ろうとした、その時。
男が、ゆっくりとこちらを向いた。
月光に照らされたその横顔を見て、私は動きを止めた。
濡れたように黒い髪。彫像のように冷たく整った顔立ち。
そして何より、闇夜の中でも鋭く光る、紫紺の瞳。
知っている。
この国の貴族で、彼を知らない者はいない。
公爵家嫡男、ルーカス・ウィンズレット。
その卓越した魔力と政治手腕で若くして頭角を現しながら、誰にも心を開かず、氷のように冷徹だと噂される男。
一度目の人生で、私は彼と言葉を交わしたことなど一度もなかった。彼はずっと遠く、高い場所から、私たちが演じる愚かな喜劇を見下ろしていただけだ。
なぜ、そんな彼がこんなところに?
目が合った。
逃げようとする私の足が、縫い留められたように動かない。
彼の瞳には、驚きも、好奇心も、侮蔑もなかった。
ただ、深淵のような静けさだけが、私を射抜いていた。




