第2話 完璧な淑女の仮面
重厚な食堂の扉を開け放ったあの日から、私は一度も素顔を晒していない。
朝は誰よりも早く起きて身支度を整え、家族が席に着く頃には完璧な姿勢で椅子に座り、スープが運ばれてくるのを待つ。
食事中は決して音を立てず、質問されたことには簡潔に肯定で返し、義母の嫌味には柳のようにしなやかに微笑む。
まるで、精巧に作られた自動人形のようだ、と自分でも思う。
けれど、それでいい。
心を殺していれば、彼らの言葉はただの音の羅列になり、私の内側を傷つけることはない。かつてあれほど求めた「家族の愛」などという幻想を捨てれば、この家は単なる衣食住が保証された箱庭でしかなかった。
カチャリ、と銀食器が皿に当たる音が響く。
数日目の朝食。今日もまた、白々しい時間が流れていた。
執事が恭しく盆を捧げ持ち、父の元へと歩み寄る。
盆の上には、封蝋で閉じられた厚手の封筒が一通。王家の紋章が押されているのが、遠目にも見えた。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
ナプキンを膝の上で握りしめる。指先の温度が急速に奪われていくのを感じた。
——来た。
運命の招待状だ。
「ほう、王家主催の夜会か」
父がナプキンで口元を拭いながら、満足げに目を細めた。
その視線が、値踏みするように私と、その隣に座る義妹のリサを行き来する。
「二週間後だ。セシリア、お前も十五になった。そろそろ正式な場での振る舞いを覚えさせねばならん」
父の低い声が鼓膜を震わせる。
拒絶反応で、胃の奥から酸っぱいものがこみ上げた。
行きたくない。
あの煌びやかなシャンデリアの下、着飾った人々が互いを品定めし合う空間。
そこには、私を処刑台へと追いやった元凶、第一王子のギルバートがいる。
一度目の人生で、私が彼と出会い、婚約への道を歩み始めたのが、この夜会だった。
断りたい。体調不良を訴えて、部屋に引きこもっていたい。
けれど——
「……はい、お父様」
私の唇は、思考とは裏腹に滑らかに動いた。
ここで拒否すれば、「反抗的だ」と判断され、より厳しい監視下に置かれる。最悪の場合、無理やり馬車に押し込まれるだけだ。それならば、自らの意思で従うふりをして、会場の隅で息を潜めている方がまだ生存確率は高い。
「セシリアお姉様だけ、ずるい!」
突然、隣から甲高い声が上がった。
義妹のリサだ。彼女はフォークを乱暴に置き、唇を尖らせて父を見上げている。
「私だって行きたいわ! 新しいドレスだって作ったばかりなのに。どうしてお姉様だけなの?」
リサの頬は不満で赤く染まっている。
十三歳のリサにはまだ夜会への参加資格はないが、彼女にとってそれは関係のないことだ。彼女はいつも、私が持っているものを欲しがり、そして手に入れてきた。
義母が困ったように、しかし甘やかすような目つきでリサをなだめる。
「リサ、あなたはまだ早いのよ。それに、あの子には役目があるのですから」
役目。
そう、政略結婚の駒としての役目だ。義母の目はそう語っていた。
「でも、お姉様のあの新しいドレス、すごく素敵だったもの。私、あれが着たかったのに!」
リサが私を睨みつける。
先日、仕立て上がったばかりの淡いブルーのドレスのことだ。父が「見栄えが良いように」とあつらえてくれた、私にしては上等な品だった。
かつての私なら、ここで困った顔をして沈黙していただろう。
大切なドレスだ。初めて父が選んでくれた贈り物だったから、渡したくないと必死に守ろうとしたはずだ。
その結果、リサが泣き出し、父に「姉としての度量がない」と叱責され、結局ドレスを取り上げられた挙句、夜会には古着で出る羽目になった記憶が蘇る。
私は、手元の冷めかけた紅茶に視線を落とした。
水面に映る自分の顔は、驚くほど無表情だ。
——ああ、馬鹿らしい。
こんな布切れ一枚に、何の価値があるというの。
私は顔を上げ、リサに向かって完璧な弧を描いて微笑んだ。
「まあ、リサ。そんなに気に入ってくれていたのね」
「え……?」
リサが虚をつかれたように瞬きをする。
私はたたみかけるように、優しく、慈愛に満ちた(と見えるであろう)声で告げた。
「いいわよ。あのドレス、リサにあげるわ」
「……は?」
「まだ袖も通していないし、サイズ直しをすればリサにもぴったりだと思うの。私の夜会用ドレスは、まだ母の形見が残っているから、それを直して着るわ」
食卓が、しんと静まり返った。
義母は目を見開き、リサはぽかんと口を開けている。
私が自分から、しかもあんなに高価なものを差し出すなんて、彼女たちの想定にはなかったはずだ。
「ほ、本当にいいの? お父様が選んでくださったのに」
リサの声が少し上擦る。
私は首を傾げ、父の方を一瞬だけ見やった。
「お父様も、リサが可愛らしく着飾っている姿を見る方がお喜びになるでしょう? ねえ、お父様」
父の眉間には、深い皺が刻まれていた。
彼はフォークを握ったまま、じっと私を見つめている。
その視線は、愛娘を見る温かいものではない。得体の知れない生き物を観察するような、冷たく、探るような色を帯びていた。
「……セシリア」
父の低い声が、重く響く。
「お前、本当にそれでいいのか」
「はい。妹が喜ぶ顔を見られるなら、姉としてこれ以上の喜びはありませんわ」
淀みなく答える。
声のトーン、表情筋の動き、姿勢。全てが完璧な「良き姉」の模倣だった。
私の本心——「どうでもいい」「早くこの場を終わらせたい」という感情は、分厚い仮面の下に完全に隠蔽されているはずだ。
父は数秒間、沈黙した。
食堂の空気が張り詰める。古時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……そうか。お前がそう言うなら、好きにしろ」
父は興味を失ったように視線を外し、再び食事に戻った。
しかし、ナイフで肉を切る手つきは、どこか苛立っているように見えた。
「やったぁ! ありがとうお姉様!」
「あらあら、セシリアも随分とお姉さんらしくなったわねぇ」
リサの歓声と義母の安堵した声が重なり、食卓の空気は再び弛緩した。
私は音もなく紅茶を口に運ぶ。
すっかり冷え切った液体は、苦味だけを舌に残して喉を落ちていった。
◇
朝食を終え、自室に戻った瞬間、私は扉に背中を預けて崩れ落ちた。
膝が笑っている。
ドレスの裾を握りしめる指先が、白くなるほど力を込めていた。
「……はぁ、はぁ」
浅い呼吸を繰り返す。
上手くやれた。
父の機嫌を損ねず、リサの癇癪を回避し、私の評価も(表面上は)下がっていない。
完璧な立ち回りだ。
それなのに、胸の奥に広がるこの空洞は何だろう。
鏡台の前に座る。
鏡の中の少女は、まだ笑っていた。
張り付いたような、精巧な作り笑い。
私が私を守るために作った仮面は、私の素顔を食らい尽くしてしまいそうだ。
「……あと、二週間」
呟いた声が、部屋の空気に溶けて消える。
断頭台へのカウントダウンは始まっている。
私は、あの夜会で生き残らなければならない。
例え、どれだけ自分を殺してでも。
窓の外を見上げる。
空は青く澄み渡っているのに、私には世界が薄い灰色の膜に覆われているようにしか見えなかった。




