最終話 決意の夜明け
ほろ苦いコーヒーの余韻と、胸の奥に残る温かな残り火を抱いて屋敷に戻ると、現実は氷の刃のように待ち構えていた。
自室の机の上。
そこには、毒々しいほど鮮やかな王家の紋章が入った封筒が、小山のように積み上げられていた。
「……また、増えているのね」
私が留守の間に届いた、ギルバートからの手紙だ。
封を切るまでもない。中身はきっと、甘ったるい愛の言葉と、執拗な夜会への誘い、そして「なぜ返事を書かないんだ」という苛立ちの羅列だろう。
かつての私なら、恐怖で震え上がり、すぐに詫び状を書いていただろう。
けれど今、私が感じているのは恐怖ではなく、冷めた嫌悪感だけだった。
コンコン、と扉がノックされる。
「セシリア。起きているか」
返事をする間もなく、父が入ってきた。
その顔は上機嫌で、手には最高級の紙で作られた便箋のセットが握られている。
「聞いたぞ。今日は頭痛で伏せっていたそうだが……もう良くなったか?」
父の目は笑っていない。「仮病を使ってでも部屋にいろと言ったのは私だが、今は働け」と語っている。
私はベッドの端に座り直し、静かに頭を下げた。
「ええ。おかげさまで、だいぶ落ち着きましたわ」
「それは重畳。……ならば、明日にでもウィンズレット公爵令息に手紙を書け」
父は便箋を私の机に放り投げた。
バサリ、とギルバートの手紙の山が崩れる。
「次は茶会だ。我が家の庭園に招くのだ。当然、お前から誘えば断られはしまい。あの夜会での熱愛ぶりならな」
父は卑しい笑みを浮かべ、私の肩をポンと叩いた。
「頼んだぞ。お前は我が家の希望なのだからな」
希望。
その言葉が、ヘドロのように耳にこびりつく。
父が出て行った後、私は崩れ落ちた手紙の山と、父が置いていった真新しい便箋を見比べた。
どちらも、私を縛る鎖だ。
ギルバートは私を「都合のいい女」として欲しがり、父は私を「金を生む駒」として利用する。
——ルーカスはどうだろう?
ふと、昼間の光景が蘇る。
薄暗い喫茶店で、激甘のパイと格闘していた彼の顔。
『君のその顔のほうが、ずっといい』と言ってくれた、嘘のない瞳。
彼は私を「盾」にすると言った。
それは利用だ。ビジネスだ。
けれど、彼は私に対価を払い、私の意思を尊重し、そして何より——私を一人の人間として見てくれた。
椅子を引き、机に向かう。
父が置いていった便箋を手に取る。
滑らかな手触り。
私は自問した。
このまま父の言いなりになって、彼を茶会に招くことは、彼を騙すことにならないか?
「盾」としての契約は、あくまで夜会の場だけのものだったはずだ。それなのに、家の利益のために彼を泥沼に引きずり込むのは、私の美学に反するのではないか?
ペンの先が紙の上で止まる。
インクが滲み、黒い染みを作っていく。
違う。
私はもう、誰かに流されて生きるのはやめたはずだ。
彼を利用するのではない。
彼と、手を組むのだ。
ギルバートという災厄を退け、父という支配者から逃れるために。そして彼にとっても、煩わしい「羽虫」たちを排除するメリットがあるなら。
私たちは、対等な「共犯者」になれる。
私は滲んだ紙を破り捨て、新しい便箋を取り出した。
深呼吸をする。
肺いっぱいに、夜の冷たい空気を吸い込む。
書こう。
父に言われた通りの媚びた招待状ではない。
私自身の言葉で。
『拝啓 ルーカス・ウィンズレット様』
ペンを走らせる。
社交辞令は最小限に。
『先日は、貴重な“甘い”時間をありがとうございました。
さて、我が家では近々、薔薇が見頃を迎えます。
もしよろしければ、またあの日のように、静かな場所で——周囲の雑音を消すための“作戦会議”をいたしませんか?』
茶会への誘いだが、意味は明確だ。
「また私を盾として使いませんか? 私も貴方を利用します」という、再契約の申し出。
『追伸
当家のシェフには、砂糖を控えめにするよう厳命しておきます』
最後の一文を書き終え、私は小さく笑った。
不敬かもしれない。怒られるかもしれない。
でも、もし彼がこれを読んで、あの喫茶店の時のようにふっと笑ってくれたなら——私たちはきっと、うまくやれる。
封筒に手紙を入れ、蝋を垂らす。
シルヴェイ家の紋章ではない。私個人の、小さなイニシャルのスタンプを押した。
じゅっ、と赤い蝋が固まっていく。
それは、私が私自身の意思で結んだ、最初の契約の証だった。
窓を開ける。
東の空が、白み始めていた。
夜明けだ。
冷たい風が頬を打ち、髪を揺らす。
一度目の人生で、私はこの朝日を絶望の中で見た。処刑台へと続く時間を数えながら。
けれど今の私は、この光を美しいと思える。
未来はまだ分からない。
ギルバートは諦めないだろうし、父の欲望は尽きない。ルーカスとの関係だって、いつ破綻するか分からない綱渡りだ。
それでも。
「……もう、ただの『いい子』には戻らない」
私は呟き、朝日に向かって強く瞳を開いた。
自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分のために笑う。
そのための戦いは、今ここから始まるのだ。
私は手紙を胸に抱いた。
指先に触れる紙の感触は、剣の柄のように硬く、そして頼もしかった。
として成立する。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!
皆様の応援のおかげで日々執筆出来てます!
ありがとうございます!!




