第11話 初めての「笑い」
灰色のコートを翻して歩くルーカスの背中を、私は小走りで追いかけた。
書店を出た彼が向かったのは、大通りではなく、さらに奥まった路地裏だった。
石畳はひび割れ、軒先には干した洗濯物が風にはためいている。
貴族街では絶対に見ることのない、生活感という名の雑多な風景。
「あ、あの……お待ちください!」
「……お嬢様、やはり戻りましょう。これ以上は危険です」
背後でマリーが情けない声を上げて私の袖を引く。
ごめんなさい、マリー。でも、私の足は不思議と止まらなかった。
前を行くこの男が、どこへ向かい、何を考えているのかを知りたかったからだ。
ルーカスは古びた木造の建物の前で足を止めた。
看板には『黒猫亭』と掠れた文字で書かれている。窓ガラスは曇っていて、中の様子はよく見えない。
「ここだ」
彼は短く言い、迷わずドアを開けた。
カラン、と軽快なベルが鳴る。中から漂ってきたのは、焙煎されたコーヒーの香ばしい匂いと、バターの濃厚な香りだった。
「……入るのですか?」
「立ち話をするには、外は耳が多すぎる」
彼は顎で店内をしゃくり、私を促した。
私はマリーに「入り口近くの席で待っていて」と目配せし、覚悟を決めて足を踏み入れた。
店内は薄暗かったが、意外にも客入りは良かった。
新聞を広げる老人、談笑する商人たち。誰も私たちのことなど気にしていない。変装の効果もあるだろうが、この店には「他人に干渉しない」という独特の空気が流れていた。
ルーカスは一番奥の、壁際の席に座った。
私もその向かいに腰を下ろす。椅子は硬く、テーブルには小さな傷が無数についていた。けれど、屋敷の豪奢なソファよりも、なぜか落ち着く。
「注文はどうする。ここのコーヒーは悪くないぞ」
ルーカスがメニュー表——ただの手書きの紙切れ——を広げる。
「では、コーヒーを」
「分かった。……おい、こっちだ」
彼は通りがかった給仕の女性を呼び止め、慣れた様子で注文した。
「コーヒーを二つ。それと、ここの名物だというチェリーパイを一つ」
チェリーパイ?
意外な注文に、私は目を瞬かせた。
彼は甘党なのだろうか。「氷の公爵子息」が甘いパイを頬張る姿など、想像もつかない。
運ばれてきたのは、湯気の立つマグカップと、皿からはみ出しそうなほど巨大なパイだった。
煮詰められたチェリーがどろりと赤く輝き、その上には粉砂糖が雪山のように降り積もっている。
見るからに甘そうだ。喉が焼けそうなほどに。
ルーカスは無表情でフォークを手に取った。
そして、躊躇なくパイの一角を切り取り、口へと運ぶ。
「……っ」
瞬間、彼の眉間がピクリと跳ねた。
涼しげな目元が、一瞬だけ苦悶に歪む。
咀嚼する顎の動きが、どこかぎこちない。
私はマグカップを口に運び、その様子を観察した。
彼は一口目を飲み込むと、すぐにブラックコーヒーを流し込んだ。まるで毒消しか何かのように。
そして、深呼吸を一つして、再びフォークを構える。
その顔は、決死隊のような悲壮感を帯びていた。
「……あの」
私はカップを置き、恐る恐る声をかけた。
「もしかして、甘いものはお苦手なのでは?」
「……まさか」
ルーカスは即答した。
けれど、フォークを持つ手は止まっている。
「ただ、予想よりも……そう、砂糖の主張が激しいだけだ」
「無理になさらなくても。残せばよろしいのでは?」
「ならん」
彼は私を強く見据えた。
その瞳には、夜会で見せたような冷徹さはなく、妙な頑固さが宿っていた。
「料理は、作り手が時間をかけて完成させた作品だ。私の好みに合わないからといって、それを無下にするのは……私の美学に反する」
美学。
たかがパイ一つに。
彼は言い切ると、まるで敵将の首を取るような気迫で、再び激甘のパイに挑みかかった。
甘さに顔をしかめ、コーヒーで中和し、また一口。
その姿はあまりにも真剣で、そしてどうしようもなく不器用だった。
完璧に見えた彼の中に、こんなにも人間臭い一面があるなんて。
ふつふつと、お腹の底から何かがこみ上げてきた。
「……ふっ」
堪えきれず、息が漏れた。
一度漏れ出したら、もう止まらなかった。
「……あははっ!」
私は口元を押さえ、肩を震わせて笑った。
淑女にあるまじき、無遠慮な笑い声。
マリーや義母が聞いたら卒倒するだろう。でも、おかしくてたまらなかった。
あの恐ろしい公爵様が、砂糖の塊と必死に戦っているのだから。
ルーカスが手を止め、呆気にとられた顔で私を見た。
口の端に、赤いチェリーのソースが少しついている。
「……おい。何がおかしい」
「だって、ふふっ……そんなに辛そうな顔で、美学を語るんですもの。まるで拷問を受けているみたいですわ」
「笑い事ではない。これは尊厳の問題だ」
彼がむっとした顔でナプキンを使い、口元を拭う。
その仕草を見て、私はまた笑ってしまった。
いつぶりだろう。
こんな風に、計算も演技もなく、ただ楽しいと感じて笑ったのは。
処刑されて戻ってきてから、私の心はずっと氷のように張り詰めていた。
けれど今、目の前の不器用な青年のおかげで、その氷が音を立てて溶けていく気がした。
私は目尻に滲んだ涙を指で拭った。
呼吸が楽だ。
胸のつかえが取れたように軽い。
「……驚いたな」
ルーカスが、フォークを置いて私を見ていた。
その表情からは、先ほどのむすっとした色は消え、穏やかな光が灯っていた。
「君は、そんな風に笑うのか」
言われて、私はハッとした。
やってしまった。
「冷めた目」が気に入られたはずなのに、こんな子供っぽい姿を見せてしまった。
慌てて居住まいを正そうとする私を、彼の手が制した。
「謝らなくていい。……その顔のほうが、夜会の作り笑いよりもずっといい」
「……からかわないでください」
「本心だ」
彼は短く言い、残りのパイを一口で頬張った。
そしてまた顔をしかめ、コーヒーを一気に飲み干す。
私は彼を見つめた。
この人は、知っているのかもしれない。
完璧な仮面の下にある素顔を晒すことが、どれほど怖くて、そしてどれほど心地よいものかを。
店内に流れる緩やかな時間が、私たちを包み込む。
私は冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
苦いけれど、温かい。
その温もりが、冷え切っていた私の心の奥底まで染み渡っていくようだった。




