第10話 街での再会
父の期待と義母の嫉妬、そして「公爵家との縁」という名の重たい首輪に締め上げられること数週間。
私はついに、限界を迎えていた。
石畳を叩く靴音が、いつもより軽快に響く。
鼻孔をくすぐるのは、屋敷の重苦しい百合の香料ではなく、焼き立てのパンと馬の匂い、そして埃っぽい街路の活気だった。
「お、お嬢様……やはり、これはいけませんわ。旦那様に知れたら……」
背後で、マリーが怯えた声を上げる。
彼女の手には買い物籠。私たちが着ているのは、使用人が休日に着るような、飾りのない茶色の木綿のワンピースだ。頭には深いフードを被り、顔の半分を隠している。
私は立ち止まり、フードの奥からマリーを振り返った。
「大丈夫よ。ただの『侍女の買い物への付き添い』だもの。お父様だって、私が部屋で刺繍をしていると思っているわ」
嘘ではない。部屋には「頭痛がするので寝ます」と書き置きをしてきた。
今の私——「公爵子息のお気に入り」である私に対して、使用人たちは過剰に気を使い、部屋を覗くことさえ遠慮している。その隙を突いた脱走だ。
マリーは青ざめた顔で周囲をキョロキョロと見回している。
一度目の人生で私を裏切った彼女だが、今はまだ、私の無茶に振り回される哀れな侍女でしかない。
私は彼女の腕を軽く叩いた。
「心配しないで。欲しい本を買ったら、すぐに戻るから」
私の目的は、貴族街のサロンでは手に入らない情報だ。
父やギルバートの動向、国の情勢。それらを知るには、検閲の緩い平民向けの新聞や週刊誌が必要だった。
逃げるにしても、戦うにしても、情報がなければ始まらない。
私はもう、何も知らずに断頭台へ送られる愚かな令嬢には戻りたくないのだ。
大通りを外れ、路地裏にある古びた書店へと足を踏み入れる。
カラン、と乾いたベルの音が鳴った。
店の中は薄暗く、古紙とインクの独特な匂いが充満していた。天井まで積み上げられた本の塔が、外の喧騒を遮断し、静寂を作っている。
ほっと息をつく。
ここなら、誰も私を「シルヴェイ伯爵令嬢」とは呼ばない。
私はマリーに入り口の見張りを頼み、店の奥へと進んだ。
政治批判やゴシップが混在する、雑多な新聞コーナー。
指先で紙束を繰りながら、目当ての記事を探す。
『第一王子、新たな愛人発覚か?』
『隣国との緊張高まる。国境付近で小競り合い』
やはり、サロンでは聞かない話ばかりだ。
特にギルバートの女癖の悪さは、平民の間では周知の事実らしい。父が警戒するのも無理はない。
私はその新聞を抜き取ろうとして——手が止まった。
同じ新聞の、反対側の端を、誰かが掴んでいたからだ。
「……あ」
小さな声が漏れる。
同時に、向こう側の人物も動きを止めた。
薄暗い書棚の向こう。
私と同じように、地味な灰色のコートを着て、目深に帽子を被った長身の男。
顔のほとんどは影に隠れている。
けれど、その隙間から覗く鋭い眼光。闇夜でも輝くような、深い紫紺の色。
心臓が、早鐘を打った。
間違いない。
どんなにボロボロの服を着ていても、隠しきれない冷徹な気配。
ルーカス・ウィンズレットだ。
なぜ。
なぜ、こんな市井の、しかもこんな場末の書店に、公爵家の次期当主がいるの?
思考が空白になる。
逃げるべきか、挨拶すべきか。
いや、挨拶なんてしたら、私の正体が周囲にバレてしまう。
ルーカスもまた、私を見て微かに目を見開いていた。
しかし、すぐにその瞳から驚きの色が消え、呆れたような、それでいてどこか面白がるような光が宿る。
「……奇遇だな」
彼は周囲に聞こえないほどの低い声で、唇だけで囁いた。
「まさか、深窓の令嬢がこんな場所で、三流ゴシップ紙を漁っているとは」
心臓が凍りつく。
バレている。一瞬で。
私は反射的に新聞から手を離し、後ずさった。背中が冷たい本棚にぶつかる。
「……人違いではありませんか?」
精一杯のしらばっくれ。
けれど、声が震えていた。
ルーカスは帽子を少し持ち上げ、その整いすぎた顔を晒した。口元には、夜会で見たときと同じ、皮肉めいた薄い笑みが浮かんでいる。
「その『愛想笑い』の癖。……変装しても隠せていないぞ」
指摘され、私は自分の顔が引きつっているのを自覚した。
最悪だ。
よりによって、一番見られたくない相手に、一番油断している姿を見られた。
「……貴方様こそ」
私は開き直って、小声で反撃した。
どうせバレているなら、対等に話すしかない。
「公爵家の嫡男が、護衛もつけずにこんな埃っぽい場所へ? 誘拐でもされたら国家問題ですよ」
「護衛なら外にいる。……撒いてきたがな」
撒いてきた?
私は目を丸くする。
彼は肩をすくめ、手にした新聞を棚に戻した。
「屋敷の空気が腐っていると言っただろう。……たまには、こうして泥の匂いを嗅がないと、感覚が麻痺する」
その言葉に、胸の奥で何かが共鳴した。
泥の匂い。
それは、飾られた虚構の世界ではなく、生々しい現実の匂いだ。
彼もまた、あの煌びやかで息苦しい世界に窒息しかけていたのか。
警戒心が、不思議と霧散していく。
代わりに湧き上がってきたのは、奇妙な連帯感だった。
私たちは夜会だけでなく、この薄汚れた路地裏でも「共犯者」なのだ。
ルーカスが一歩近づいてくる。
威圧感はない。ただ、同じ秘密を共有する者同士の距離感。
「その新聞、買うのか?」
彼が顎で新聞を指す。
私は頷いた。
「ええ。……知っておきたいのです。私たちが踊らされている舞台の、床下の事情を」
「床下か。……いい表現だ」
彼はふっと短く笑った。
それは冷笑ではなく、同志に向けるような温度のある笑みだった。
「なら、こっちにしておけ」
彼が棚から別の一冊を抜き出し、私に押し付けてきた。
『王都経済週刊』と書かれた、さらに地味な冊子だ。
「ゴシップ紙は半分が嘘だ。金の流れを見る方が、真実に近い」
手渡された冊子はずっしりと重く、そして彼の指先の体温が残っていた。
私は冊子を胸に抱き、彼を見上げた。
変装した公爵子息と、変装した伯爵令嬢。
こんな場所で、こんな風に言葉を交わすなんて、どんな三流小説よりも滑稽で——そして、ありえないほどに胸が高鳴る秘密だ。
「……ご助言、感謝いたします」
私が小さく頭を下げると、ルーカスは「行くぞ」と短く言い、出口へと歩き出した。
当然のように、私の前を歩いて露払いをするように。
その背中を見つめながら、私は思った。
貴族の肩書きを脱いだ彼の方が、あの夜会の時よりもずっと、人間らしくて魅力的に見える、と。




