第1話 断頭台の残響
鉄の刃が肉を断つ、あの湿った音が、耳の奥にこびりついて離れない。
首筋に走った鋭い熱と、その直後に訪れた絶対的な闇。
視界が反転し、石畳に転がった自分の頭部が、最後に見たのは嘲笑うような青空と、かつて愛した人々の冷たい靴底だった。
「……っ、は、あ……!」
喉が痙攣し、空気を求めて大きく跳ねた。
飛び起きた身体は、汗で寝巻をぐっしょりと濡らしている。心臓が肋骨を内側から殴りつけるような早鐘を打ち、視界が白く明滅していた。
首がない。
いや、ある。
震える指先を首筋に這わせる。
そこにあるはずの熱い切断面はなく、代わりに脈打つ皮膚の滑らかな感触があった。
私は、生きている?
あれほど鮮明な痛みと絶望が、ただの夢だったというのか。
荒い呼吸を繰り返しながら、私は周囲を見渡した。
淡いクリーム色の天蓋。繊細な彫刻が施されたマホガニーの家具。窓から差し込む、柔らかくも残酷なほどに眩しい朝の光。
そこは、私が結婚するまで過ごしていた、シルヴェイ伯爵家の自室だった。牢獄の冷たい石壁ではない。
「……嘘」
掠れた声が漏れる。
私はベッドから這い出し、足をもつれさせながら姿見の前へと立った。
鏡の中にいたのは、二十歳の私ではない。
頬にはまだ少女特有の丸みがあり、目元の隈も、絶望に染まりきった暗い影もない。
艶やかな金色の髪は腰まで届き、肌は血色良く輝いている。
十五歳。
学園に入学する前、まだ何もかもが希望に満ちていると信じていた頃の私だ。
鏡の縁を掴む指先に、冷たい力がこもる。
現実感が急速に押し寄せてくるのと同時に、吐き気がこみ上げた。
戻ったのだ。
あの地獄が始まる前に。
喜びなど微塵もなかった。
ただ、底知れぬ徒労感と恐怖だけが、重い鉛のように胃の腑に落ちた。
また、繰り返すのか。
父の期待に応えようと必死に学び、義母や義妹のご機嫌を取り、婚約者であるギルバート様に尽くし——その果てに、「身の程知らずの悪女」と罵られて処刑される、あの茶番劇を。
ガチャリ、と扉が開く音がした。
「お嬢様? うなされているようなお声が聞こえましたが……」
入ってきたのは、専属侍女のマリーだった。
彼女はお盆を脇に抱え、心配そうに眉を寄せている。
かつての私なら、彼女を見て安堵し、縋りついて泣いていただろう。マリーは私の良き理解者だと思っていたから。
けれど、私は知っている。
私が断罪されたあの日、彼女が法廷で偽証したことを。
『セシリア様は、夜な夜なギルバート様の愛人である男爵令嬢を呪う儀式をしておられました』と、震える声で、しかしはっきりと証言したことを。
身体が強張り、指先が氷のように冷たくなるのを感じた。
「……セシリアお嬢様? お顔色が真っ青ですわ。やはりどこかお加減が?」
マリーが一歩近づいてくる。
その歩み寄りに、反射的に身を引こうとして、私は踏みとどまった。
今、ここで拒絶反応を示せば、「情緒不安定」というレッテルを貼られる。それは父の耳に入り、私の立場を弱くする材料にしかならない。
私は大きく息を吸い込み、肺の奥の震えを無理やり押し殺した。
口角を持ち上げる。何度も練習した、完璧な淑女の角度で。
「いいえ、大丈夫よマリー。少し怖い夢を見ただけ」
鏡越しに見る自分の笑顔は、不気味なほど整っていた。
目が笑っていないことになど、誰も気づかないだろう。彼らは私の中身になど興味がないのだから。
「そうでございますか……。ですが、本当にお辛そうな汗をかいておられます。本日の朝食は、お部屋にお持ちしましょうか?」
マリーの提案は、一見すると親切心からのものだ。
けれど、ここで甘えれば「セシリアは体調管理もできない」という報告が義母に上がる。過去の私はそうやって、少しずつ「扱いにくい娘」としての既成事実を積み上げられていった。
私は首を横に振る。
「いいえ、食堂へ行くわ。お父様もお待ちでしょうから」
「ですが……」
「マリー」
私は鏡から視線を外し、彼女を振り返った。
努めて穏やかな、しかし拒絶を許さない声色を作る。
「支度を手伝ってちょうだい。一番気に入っている、紺色のドレスで」
マリーは一瞬、戸惑ったように瞬きをした。
いつもなら「でも」「だって」と優柔不断に迷う私が、即座に決断を下したことに違和感を覚えたのだろう。
「……かしこまりました。すぐに準備いたします」
彼女は深く一礼し、衣装箪笥の方へと向かった。
その背中を見つめながら、私は自分の胸元を強く握りしめる。心臓の鼓動はまだ早いが、頭の中は氷水に浸したように冷えていた。
私はもう、誰も愛さない。
父に認められようとも思わないし、義母や義妹と家族になろうとも思わない。
そして何より、あの愚かな王子ギルバートになど、二度と心を開くものか。
一度目の人生で、私は「いい子」であり続けようとした。
誰かの期待に応えることが、自分の存在価値だと信じていたから。
けれど、その結果が断頭台だったなら。
——今回の人生は、私のために使う。
復讐なんて面倒なことはしない。彼らにエネルギーを割くことすら惜しい。
私はただ、静かに、誰の目にも留まらないように息を潜め、然るべき時が来たらこの家を、この国を捨てて消えてやる。
そのためには、今はまだ「従順な人形」の皮を被っていなければならない。
「お湯がご用意できました」
マリーの声に、私は思考を中断する。
洗面器に張られた湯気立つお湯。そこに映る自分の顔を覗き込む。
一五歳の私。
まだ何者でもなく、何色にも染まっていない私。
私は濡らしたタオルで顔を拭い、鏡の中の自分に向かって、もう一度笑いかけた。
完璧な弧を描く唇。けれどその瞳の奥には、冷たく硬い光が宿っている。
さあ、始めよう。
私の、私による、私のための人生を。
マリーの手によってドレスのリボンが締め上げられるたび、コルセットが肋骨を締め付ける感覚が、私に現実を突きつける。
これは夢ではない。
私は、戦場に戻ってきたのだ。
支度を終え、私は部屋を出る。
廊下を歩く足音が、かつて処刑台へと向かった時のリズムと重なって聞こえた気がした。
けれど、今の私の足取りは軽い。
首がつながっている。それだけで、今は十分だ。
食堂の重厚な扉の前に立つ。
中からは、義妹の甲高い笑い声と、父の機嫌好さそうな話し声が漏れていた。
胃の奥がちりりと痛む。
扉のノブに手をかけ、その冷たい金属の感触を確かめる。
私は深く息を吐き出し、迷いなく扉を開け放った。




