三.時を超える思い
「──お一人で、こんな薄暗いところへいらっしゃらないで下さい! 心配したのですよ!」
「ごめんなさい……」
母の殿舎への戻り道、珍しく声を荒げる侍女に、昭琳はしゅんとして詫びた。
産まれてからずっと傍についてくれている彼女に、昭琳は強くは出られない。彼女が心底昭琳を案じてくれていることを、よく知っているからだ。珍しくしおれた昭琳に驚いたのか、侍女は慌てて頭を下げる。
「……申し訳ございません、」
「いいの」
彼女の左手をぎゅっと握り締めると、侍女は目を柔らかく細めた。温かな手にそっと手を握り返され、昭琳は嬉しくなる。繋いだ手をぶんぶんと前後に振って歩いた。
そういえば、と侍女は思い出したように昭琳に尋ねた。
「広場にいらしたのは、昭瑶皇女様ですか?」
「そうなの!」
パッと表情を輝かせてその場に足を止め、昭琳は侍女を振り仰ぐ。
「すごいのよ! お兄様よりも小さいのに、お兄様よりむずかしい本をよんでいたの!」
彼女の勢いに驚いたように、侍女はやや背を仰け反らせる。気付かない昭琳は、興奮したように続けた。
「『分からないこともおもしろい』って。はじめは、なにを言ってるんだろうって思ったの。でも、わたしと、おなじなのかな?
……わたしも、舞のれんしゅうのとき、『よし、ぜったいにおぼえるぞ!』って思うから」
勢いよく言い募る昭琳を、侍女は目を丸くして見下ろしている。
だが、不意に彼女は暖かな笑顔を浮かべ、その場に膝をついた。空いていた右手で昭琳の左手を優しく握り、侍女は昭琳と目線を合わせる。
「……きっと、そうなのかも知れません。これからもご姉妹で仲良く、切磋琢磨なさってくださいね」
侍女の物言いは難しく、昭琳には理解は出来なかった。だが、彼女が二人の気持ちを肯定してくれていることは分かる。昭琳は込み上げる喜びのままに、大きく首肯した。
笑みを深めた侍女は昭琳の左手を離し、繋いだままの方の手を軽く揺すって言った。
「さて、部屋に戻りましょう。……母妃様も、心配しておいででしたよ」
「はーい!」
昭琳は元気よく返事をし、侍女とともに歩き出す。冬のささやかな日差しが、二人の影を長く廊下に描いていた。
(──部屋に戻ったら、それはそれは怖い笑顔の母様に、思いっきり頬をつねられたのだったわ……。あれほど怒った母様を見たのは、あの時が初めてだったから、よく覚えている)
昭瑶──澄蘭と初めて親しく言葉を交わした日のことを思い出していた琴華は、痛かった思い出まで想起してしまい、不意に苦笑を浮かべた。
母が兄と自分にそれぞれ抱いている期待の大きさの違いを感じ取り、あの日、琴華は確かに心を痛めていた。
大好きな芸事を投げ出したり、自身の技能を「周囲の歓心を買う」道具にせずに済んだのは、あの時の澄蘭の言葉のお陰だったと琴華は思っている。
誰かに褒められるためであったり、見栄のためだったり、『出来る自分』を求めて努力するのではない。
純粋な興味で向き合い、自分なりに理解し、知識や経験を自分の血肉にしていく過程こそを、楽しむ。琴華が舞を習い始めた頃に抱いたものと同じ気持ちを、義妹も持っている。それが心強かったし、救われた思いだった。
琴華にとって、澄蘭が特別になったのは、あの日がきっかけだった。
本当は、毎日のように彼女に会いに行きたかったが、後宮に流れる空気が、幼い琴華の足を止めさせた。
母は断じて、他妃と無為に張り合ったり意地悪をするような人物ではないが、後宮には独特の空気感と、複雑な派閥がある。天真爛漫さを誇る彼女も、それらに表立って堂々と逆らうのは、気が引けてしまった。そのため、澄蘭とは何かの行事や、口煩く言う者のいない場で偶然居合わせた時に、話をすることが精一杯だった。
彼女たちが七つになった年に、澄蘭は母を亡くした。遠目で見た彼女はひどく塞ぎ込んでいて、琴華はすぐにでも飛んで行って声を掛けようとした。だが、駆け出す直前に思い出した事実に、足が動かなくなった。
澄蘭の母である沈妃が病に倒れて、儚くなるまで、父は一度も見舞いも医者も送らなかったという。その間、父が主に居たのは、琴華の母や、皇后・趙氏の殿舎だ。
そんな自分が、澄蘭に何を言えるというのか。
澄蘭はその後、沈妃と親交の深かった崔妃に引き取られが、部屋に引きこもりがちになってしまった。琴華はますます、きっかけを掴めずにいた。
やがて互いに成人の儀を迎え、「このまま降嫁でもしてしまったら」と焦った琴華は、遂に行動を決意し、澄蘭の元へ日参した。その頃には『皇帝の長女』として、それなりの立場を固めていたので、周囲に何も言わせない自信があった。
だが、肝心の澄蘭には、まったく歓迎されなかった。
冷めた目で無言で見つめられ、琴華は怯んだ。その後は機を見計らって彼女を訪ねるに留めていた。
いつかのように、姉妹で親しく話したかった。孤独にひとり膝を抱える彼女を、見ていられなかった。彼女に好き勝手を言う周囲が、許せなかった。けれど、頭ごなしに彼女たちを叱れば、ますます澄蘭へ悪意が向けられてしまう。固めたと信じた立場は、人の心を動かせるほどではなく、琴華は打ちひしがれた。
拒絶するような目で見られた、いつかの日を恐れて、あと一歩が踏み出せなかった。そのことを、琴華は今でも後悔している。
そして琴華と同種の後悔を抱く、ある意味同志のような存在である崔媛儀とは、今回の事件を経て、気安く会話をするようになった。
事件のあと、澄蘭は急遽、隣国の錚雲へ嫁ぐことになった。
出発の日の朝は、父の命で見送りは許されなかった。そのため、二人は澄蘭の出立予定時刻に、崔妃の翠流殿の客間で落ち合い、二人で茶を飲むことにした。空の椅子の前には、澄蘭が度々、この客間で使用していた茶碗を置いている。互いの侍女は下がらせた。
一口茶を飲んでは、そわそわと落ち着きなく西の方を見やる父の妃に、琴華は若干の呆れを滲ませながら言った。
「落ち着きなさいな、崔媛儀」
「ですが……。そろそろ、西街道の入口に差し掛かった頃でしょうか……」
「そうね。……ほら、余所見していると零すわよ?」
彼女の掌の中で傾きかけた茶碗を強引に取り、琴華は苦笑する。九つ年上の崔氏は、琴華に恐縮したように、肩を落として囁いた。
「申し訳ございません……。あの子が心配で……」
「少なくとも、道中は大丈夫よ。父様は抜け目ないし、……澄蘭も強い子だから」
ほのかに微笑みながら、琴華は優雅な仕草で茶碗を傾ける。そんな彼女を、崔氏がじっと見つめた。
気付いた琴華が目線で問うと、彼女はしばらく視線を彷徨わせたあと、意を決したように口を開いた。
「琴華様は……、なぜ、あの子を信じてくださったのですか?」
温家の父子が、長兄である直謙の暗殺を企て、澄蘭もそれに関与したと報じられた時、宮中は騒然となった。
のちにそれは誤りで、温家の失脚を狙う者による陰謀に、澄蘭も巻き込まれたのだと明らかになったが、今も澄蘭や温父子への風当たりは強い。渦中にあった時は尚のことだった。ぶれずに澄蘭の無実を訴え続けた琴華も、一時は陰で白い目で見られていた。
だが、そんなことは琴華は気にも留めなかった。
澄蘭の潔白を、信じていたからだ。
琴華はにこりと微笑んで、年上の友人に告げる。
「大切な義妹だもの。ずっと見て来て、よく分かってるつもり。……あれほど周囲に何を言われても、読みたいと思った本は手放さなかった子よ? あんなに不器用で根性のある子が、卑劣な方法で誰かを傷付けるはずがないもの」
きょとんと目を瞬かせる崔氏に、琴華は我慢出来ずに吹き出した。鈴が鳴るように上品に笑い声を漏らすと、琴華は手を打ち鳴らして侍女を呼ぶ。
入室してきたのは、かつての乳母である侍女だ。その手には、味が濃くなく食感が優しい菓子をこれでもかと載せた盆がある。礼を述べて受け取り、侍女が再び部屋を出て行くのを見送ると、琴華はその盆を崔氏との間に置いた。
「心労で、食が細っていたのでしょう? ちょっとずつ食べて、力を取り戻していかないと。……あの子が帰ってきた時に、元気な姿を見せなきゃ」
目を潤ませた崔氏をからかうように、琴華は菓子の一つを手に取って差し出した。
蘇 琴華は、自身がこの国で最も恵まれた女性であることを自覚している。
優しい母と尊敬する父、敬愛する兄と、慕ってくれる侍女たち。何より、心から大切に思う義妹が居る。
この国が彼女に、従順さや貞淑さを求めるのであれば、その通りに振る舞おう。彼らの理想を体現してみせた上で、自分の理想を貫くのだ。
彼女の愛する芸事は、心の支えであると共に、彼女を強くしてくれる武器でもある。
大切な人々を、彼らと過ごす日々を守るために、琴華は自分の信じる道を突き進んでいく。




