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二.冬の庭で

 吐く息が白く染まり、冬の訪れを痛感する。

 昭琳(しょうりん)は母の姿を探して、朱香殿(しゅこうでん)をあちこち歩いていた。幼児向けに書かれた女訓書(じょくんしょ)の内容で、聞きたいことがあったのだ。

 火鉢が十分に置かれているこの殿舎でも、廊下の板はヒヤリと冷たい。足を伝い上ってくる冷気から逃れるように、昭琳は歩を進める。建物の隅から隅まで探しているが、母が見つからない。


(……そうだ、お兄さまのところだわ!)


 あまり母が兄の部屋を訪れている記憶がなかったので、思い至らなかった。来客があるとも聞いていないので、そこに違いない。勝手知ったる気安さで、昭琳は兄の部屋へ向かう。


 辿り着いた兄の部屋は、やはり中から話し声がした。僅かに開いていた扉の隙間から部屋の中を覗くと、見慣れた母と兄の姿が目に入る。昭琳は顔を輝かせる。


 そのまま外から元気よく声を掛けようとして、昭琳は目を瞬かせた。




「──すごいわ、熙衡(きこう)! その年で、四書(ししょ)をこんなにも覚えているなんて……!」


 熱に浮かされたような顔つきで、母がはしゃいだ声を上げる。兄も頬を赤く染めて口元を綻ばせ、得意げに笑ってみせた。

 兄が胸に力いっぱい抱き締めているのは、この国の男性が学ぶべき『四書』というもののうちの一冊だと、先日長兄が言っていた。

 もっとも、その本は大人でも理解し暗唱することが難しいと言われているため、まずは子ども向けに簡易に書かれたものから、学習を始めるのだそうだ。どちらの教本も義兄に見せてもらったが、昭琳にはちんぷんかんぷんだった。大人向けだという方の表紙に記された、勇壮な文字の形だけは、目に焼き付いている。


 昭琳が遠巻きに見詰める中、母は両手で兄の右手を取り、宝物を()でるような手つきでそっと握り込んだ。


「貴方は母様の誇りよ。どうかこれからもよく学び、良き息子として、陛下をお助けしてね」

「はい、母上!」


 力いっぱい兄が返事をすると、母は笑み崩れて兄を抱き締める。兄は「やめて下さい、母妃。私はもう子どもじゃないんですよ」と照れたように言うが、母の腕の中にいる彼は、とても幸せそうだ。




 なんとなく二人に見つかってはいけない気がして、昭琳は慎重に後ずさった。

 やがて廊下の角に差し掛かり、二人の姿も声も届かなくなった頃、くるりと振り返り足早に歩き出す。そのままとぽとぽと珍しく足音を立てながら、彼女は自室を目指した。



 けれど。



(……どうしよう。少しどこかに、いきたい気がする)


 途中で気が変わり、母の殿舎の近くに(しつら)えられた庭園に足を伸ばした。

 季節の盛りには色とりどりの花が咲き、妃たちが競って茶会を開く庭だが、冬となった今はもの寂しく、人気もない。

 葉を落とした木々の隙間から、冬の僅かな日差しが降り注ぐ。四阿(あずまや)の石の椅子に腰掛け足を揺らしながら、昭琳は風に揺れる枝々を見上げていた。


(あんなにうれしそうなお母様、見たことあったかしら……)


 母はいつも昭琳を褒めてくれる。彼女が覚えたばかりの芸を披露したり、女児向けの女訓書の内容を暗唱すると、いつも優しく微笑んでくれる。手を伸ばして、昭琳の頭を撫でてくれる。


 だが、それだけだ。

 先程兄にしていたように、感情を露わにし、思いのままに抱きしめてくれたことは、一度もない。


(そっか、……そっかぁ)


 昭琳は一人頷いた。

 兄と自分は、「違う」のだ。


(そうだよね。女訓書にも書いてあるもんね)






 この国では、女性は男性を支えるために()るのだというのは、書の中で何度も出会った文言だ。男は外に出て、家を、国を守るために力を尽くす。女は家の中で、それを支える。それがこの国のあるべき姿。


 父母にとって、兄も自分も大切な子だ。それは疑うべくもない。それでも、兄である熙衡(きこう)と自分では、「大切」の中身がきっと少し違うのだ。


(わたしがあたらしい舞を見せたときは、あんなに喜ばなかったのに……)


 胸にふときざした暗い思いに、昭琳(しょうりん)はしばし動きを止める。そしておもむろに、その場で伸びをした。

 兄に対する母の態度に、何だか落ち着かないのも事実だった。だからといって、母や兄に何かを言いたいわけでもない。

 兄と同じように見てほしいと、わがままを言うつもりもない。


 ただ、少しだけ、時間がほしかった。


(ちょっとこのまま、たんけんしてみよう)





 そう決意した昭琳は、一人では入ったことのなかった庭園の奥へ、ずんずん足を進めた。夏は木々が生い茂っているため危険だと、侍女に口を酸っぱくして止められているが、冬である今なら大丈夫だろう。


 気の赴くままに、昭琳はあちこちに足を向ける。葉を一枚も(まと)わずに、ひっそりと枝を伸ばす木々。水が抜かれ、綺麗に清掃された小さな池。詫びしさと不思議な迫力を感じさせるその風景を、昭琳は好ましく思う。




 しばらく気ままに歩き回っていた昭琳は、不意に開けた場所に出て、目を瞬かせた。

 そこは、父の妃たちが茶会を開いたり、即席の舞台を立てて芝居や音楽、演舞を楽しむ場所だ。

 母の殿舎の周りをぐるぐる歩き回っているうちに、いつの間にか、慣れた場所に出て来てしまった。


 なんとなく視線を彷徨(さまよ)わせていると、広場の隅に置かれたままであった椅子に腰掛け、同年代の少女が熱心に何かを読み込んでいるのが見えた。背後に控えているふくよかな女官が、昭琳(しょうりん)に気付いてさっと礼の姿勢をとる。


「……昭瑶(しょうよう)? なにしてるの?」


 いつも遠目に眺め、すっかり記憶に焼き付いていた姿に思わず呼びかけると、少女──昭琳の義妹である昭瑶は、目線を上げてこちらを見た。昭琳は彼女のもとへ駆け寄る。


 (かしこ)まって頭を下げている女官に姿勢を戻すように告げ、昭琳は義妹の顔にじっと見入った。

 互いに母親似だと言われているので、姉妹とはいえ、似ている部分はほとんどない。昭瑶の母は宮中行事に最低限しか出席しないので、こんなにも近い距離で義妹に会うのは、もしかしたら初めてかも知れなかった。

 昭瑶は目をぱちくりとさせ、昭琳の顔を見上げている。やがて手にしていた本を閉じると、軽く首を傾げるようにして答えた。


「……ご本をよんでいます」


 それが先程の昭琳の問いへの答えだとは分かるが、何故、こんなところで本を読んでいるのか。

 彼女がどう言えば良いのかと頭を悩ませていると、義妹はますます傾げた首の角度を深くして、口を開いた。


「おそとでよむと、たのしい。……かあ様の、まねです」


 たどたどしい物言いに、昭琳はきょとんと目を見開く。姉妹でしばし無言で見つめ合った後、昭琳も昭瑶と同じように首を傾げた。


「……そうなの?」

「はい」

「……そう、なの」


 それなら今度ためしてみようと呟く昭琳に、昭瑶はにこりと微笑む。間近で見る義妹の笑顔に嬉しくなった昭琳は、彼女の横の椅子にぴょんと腰掛けた。


「何をよんでいるの?」

「『ししょ』、です」


 小さな手をぷるぷると震わせながら、昭瑶は分厚い本を掲げて見せる。その見覚えのある表紙に、昭琳は驚いて義妹の顔を見た。


(これ……兄様たちが「むずかしくてよめない」って言ってた……)


 彼女の兄──八歳になる皇子の熙衡(きこう)も理解出来ない本を、自分より三月遅く生まれた義妹が読んでいる。その事実に、昭琳は目を見開いていた。


「……それ、とってもむずかしいって、兄様がいってた。昭瑶はわかるの?」

「あんまり。でも、分からないことも、おもしろいです」


 目を輝かせて笑い、本の表紙に視線を落とす義妹に、昭琳の胸にはなにやら言いようのない──ぽかぽかする気持ちが生まれていた。その感情のままに勢い込んで口を開こうとする。


 だが、不意に遠くから侍女の昭琳の名を呼ぶ声が聞こえて来て、昭琳は口を閉ざして耳をそばだてた。


「──昭琳さまー! どちらにいらっしゃるのですかー!?」


 珍しく焦ったような女官の声に、昭琳は慌てて叫び返した。


「ここよー!」


 彼女の声量に驚いたのか、真横に座す昭瑶が目を見開いている。昭琳は急いで立ち上がり、枯葉のついた裳を叩いたあと、義妹を振り返った。


「もどらなくちゃ。……またね、昭瑶」


 二、三度瞬きを繰り返した昭瑶は、にこりと笑って手を振る。義妹と、再び頭を下げた彼女の侍女に手を振り返して、昭琳は駆け出した。

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